Culture

2024.02.16

美しい所作、鋭い眼光、響く声。木村容堂さんに聞く、大相撲「行司」の世界・前編

コロナ禍による社会制限がなくなり、日本全国いたるところで賑わいが戻ってきています。大相撲興行も言うにおよず、最近は満員御礼の幕が下りぬことはありません。長年の好角家をはじめ、Netfilixの話題ドラマ『サンクチュアリ』で相撲ファンになったZ世代、諸外国からのゲストなど、年齢や国籍を超えてさまざまなひとたちが、本場所へと詰めかけています。相撲は力士が主役であるものの、力士だけでは成り立ちません。勝負を裁く行司という存在があってこそ観客を沸かせる取組が生まれます。三役格行司の木村容堂(きむら・ようどう)さんのお話しとともに、日本の伝統文化である大相撲を支える行司の世界を前後編にてご案内します。

力士と同じく番付のある行司の世界

三役格(さんやくかく)行司の三代木村容堂(きむら・ようどう)さんといえば、土俵上での美しい所作、鋭い眼光と響く声、冷静な勝負裁きで相撲ファンにはおなじみの存在です。初土俵を務めたのは昭和52(1977)年の11月場所、行司歴は47年となり、九重部屋に所属しています。力士に幕下、十両、幕内と番付(階級)があるように、行司にも階級があります。力士の最高位が横綱ならば、行司の最高位は立行司(たてぎょうじ)。立行司は、木村庄之助(きむら・しょうのすけ)、式守伊之助(しきもり・いのすけ)の二名跡です。江戸は安永年間(1772~1781)から、伊之助を経て最高位の庄之助を襲名する慣習がみられるようになりました。

休場明けの横綱・照ノ富士が復活優勝を成し遂げた令和6年大相撲1月場所。静けさが漂う千秋楽翌日の国技館土俵前にて、スーツで眼鏡姿の三役格行司 三代・木村容堂さん

行司数の定員は45名以内です。そのうち十枚目格(十両力士の取組を担う*1)以上が22名以内と決まっています。力士が十両にあがるのと同じく、行司も十枚目格になって一人前。容堂さんが十枚目格になったのは、平成6(1994)年の入門17年目のことでした。
「十枚目格に昇格したのは32歳です。ようやく一人前になれたとの思いがありました。階級があがるごとに土俵上での責務が重くなることも実感しました」と、当時を述懐。平成19(2007)年に幕内格(幕内力士の取組を担う*1)を経て、26(2014)年には三役格行司へ昇格します。三役格行司として、小結から大関までの三役力士以上の取組を担います(*1)。

*1.立行司の木村庄之助以外、状況によっては階級外の取組をあわせることもある

立行司の木村庄之助は最終取組となる結びだけを、式守伊之助は取組を2番合わせます。また十枚目格から三役格までは2番、幕下以下は4~8番、序二段などはもっと裁くことも。容堂さんも序二段時代は多いとき15、16番ほど取組を裁いたことがあるとか。幕下以下行司の取組数が多い理由は、幕下以下の力士数が圧倒的に多いからです。令和6年1月場所番付掲載の力士は、幕内力士が42名、十両力士が28名、幕下力士が120名、三段目力士が180名、序二段・序ノ口力士で229名でした。

江戸時代は多かった行司家、
今に続くのは木村と式守のみ

相撲に欠かせない行司ですが、その由来を紐解いてみましょう。相撲の歴史をおさらいしますと、相撲の神様・野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)による記紀神話の力くらべにはじまり、技芸による年占(としうらない)儀式から平安時代の宮中行事「相撲節(すまいのせち)」へたどりつきます。この相撲節では、相撲人を立ち合わせる「立合(たちあわせ)」と勝負を判定する「出居(いでい)」がいて、二者が行司の役目を担っていました。ひとりの行司が立ち合わせから勝負の判定までを手掛けるようになったのは、室町初期ごろだと言われています。

相撲について書かれた『古今相撲大全』(宝暦13(1763)年刊)には、平安時代の相撲節の様子が紹介されている。相撲人の後方にはふたりの立合が描かれている。『古今相撲大全』/東京学芸大学附属図書館所蔵

また織田信長の伝記『信長公記』では、木瀬蔵春庵(きせぞうしゅんあん)や木瀬太郎太夫(きせたろうだゆう)など、特定の行司(行事と記載)が取組を裁く様子が記されています。

「三月三日に江州国中の相撲取りを召し寄せられ、常楽寺にて相撲を取らせ、御覧候。(中略)その時の行事は木瀬蔵春庵(巻三、元亀元年三月三日条)」

相撲興行が盛んになる江戸時代には、行司の数は一気に増大。吉田追風(おいかぜ)、木瀬太郎太夫、岩井播磨(はりま)、長瀬越後(えちご)、木村瀬平(せへい)、木村庄之助などの行司系統が存在していました。特に吉田追風は、吉田司家として長く横綱や行司の免許を取り仕切っていましたが、戦後に相撲協会へと権限を委譲。現在まで受け継がれるのは、木村家と式守家の二家のみになっています。

江戸の相撲興行を描いた浮世絵には行司・式守伊之助が描かれている。『大相撲繁栄之図』三枚組・中央 歌川豊国(3世)/東京都立図書館所蔵

 

行司名が木村になるか、式守になるかについては、「入門した一門や部屋によって、どちらかに決まります。見習い時には、下の名前は本名が多い。階級があがっていくと、先輩行司の推薦や行司会・協会の判断などを経て、由緒ある行司名を受け継ぎます」と容堂さん。ご自身も入門時には木村裕司、そして木村恵之助(けいのすけ)となり、三役格で木村容堂を襲名しています。

行司になりたいならば
まず相撲部屋に入門すべし

行司になるにはどうすればいいのか。今も昔もまずは相撲部屋へ入門することからはじまります。資格は、義務教育を卒業した15歳以上19歳未満の男性です。入門後、行司会や相撲協会の面談のうえで採用が決まります。

東京に生まれ育った容堂さんは、大の相撲好き少年だったそう。高校入学後、憧れの親方に“行司になりたい”と思いを綴った手紙を出します。憧れの親方とは、NHK大相撲解説でおなじみの第52代横綱・北の富士勝昭さん。
「井筒親方時代の北の富士さんに手紙を送りました。『君は行司向きだね』と言われたことは覚えています。当時の井筒部屋には、行司がいなかったから、採用理由はそれもあったのかな。すぐに高校を辞めて入門。親は反対も賛成もしなかったです。やりたいならば頑張れぐらいでしたね」

「はじめて国技館で相撲をみたのは小学校時代です。父に連れられて蔵前時代の国技館に行きました。北の富士さんの相撲が好きでしたね」と少年時代を振り返る容堂さん

北の富士さんは容堂さんの採用について、令和5年大相撲1月場所のラジオ番組内で「最初は無口で大人しかったけど今はよい声で立派になった。たまには相撲界に貢献しているだろう」とファンおなじみの北の富士節で語っています。

入門後は、見習い(序ノ口格)となり、幕内格行司の付け人として仕事を覚えます。伝統の世界だから長幼の序や番付による格差は当然のこと、修行時代には理不尽なこともあったでしょう。どのような日々を過ごしたのでしょうか。「入門すぐの九州場所(11月場所)が初土俵です。当時の十枚目格だった木村朝之助(第33代・木村庄之助)さんにはいろんなことを教えてもらいました。覚えることが多くてね。相撲好きが高じて入門したものの、好きだけじゃ務められないなと、早々に気持ちを切り替えた。行司を目指す以上は、ここで認められるしかない。早く仕事を覚えて一人前になろうと思いました」

行司や呼出し、床山など相撲界を支える仕事は、ほとんどが中学卒業で入門。遊んでいる同世代の友人が羨ましかったと語るひともいるなかで、容堂さんは羨ましいと感じたことはないと言います。「見習い時期であっても行司として一人前に扱ってもらえるのはうれしかったしやりがいになった。幕下格へ昇進したときは二十代半ばでした。相撲界以外の友人はまだ会社で新人扱いでしょう。だから彼らより先にいってるなって」

勝負判定はもちろん、書き物、場内放送、
イベント仕切りまで、多岐にわたる行司の仕事

行司と聞けば思い浮かべるのは、土俵で勝負を裁く華麗な姿。しかしそれは仕事の一部、行司の仕事は幅広く多岐にわたります。まずは土俵上の進行や勝負判定、そして相撲界の書記として番付から触書、取組の記録までのあらゆる書き物を担当。本場所中は、審判部とともに取組表づくりから場内アナウンスをこなします。生で相撲を見たことがあるひとは、場内で力士の紹介や懸賞の読み上げなどのアナウンスを聞いたことがあるはず。あれはアナウンサーではなく、行司が担当しています。そして土俵祭りや神送りの儀式(*2)の祭事もこなします。また部屋や一門の冠婚葬祭などのイベントを仕切り、さらに地方巡業の宿や交通機関の手配などツアコン並みの業務も担います。

*2.本場所初日の前日に立行司が祭主となり土俵に神様を招き入れる「土俵祭り」、千秋楽後には行司(土俵祭りの脇行司・十枚目格)の胴上げにより神様を天上に送り返す「神送りの儀式」がある

行司部屋に並んだ明荷(あけに)。十枚目格以上の行司は装束をいれるために力士とおなじ明荷を使用。付け人が持ち運ぶ

土俵上では、有利に持ち込みたい両力士を公平に立合わせるのが行司の務め。取組中は声をかけて勝負を促します。行司による「ノコッタ」と「ハッキヨイ」ですが、力士に動きがあるときは「ノコッタ」、動きがとまったときは「ハッキヨイ」と声をかけて進行させます。ちなみに「ノコッタ」は両力士が土俵に残っていて勝負がついていないことを示し、発揮揚々が元となる「ハッキヨイ」は気合を入れるためにかけるそうです。

容堂さんの明荷。中には装束や烏帽子、軍配、小物などの仕事道具が入っている

差し違えのない(*3)勝負裁きで知られる容堂さんですが、土俵上で心がけていることは?
「土俵にあがり退場するまで、滞りなく執り行うことを大事にしています。すべてが流れるように終わるとホッと安堵します。差し違いがないのは三役格行司としては当然のこと。土俵上では“正面にまわらない”(東西を間違えるため)や判定では“負けをみて勝ちをあげる”などの基本には忠実に。さらに言えば『押し相撲の力士だから』『優勝がかかっているから』などの先入観を持たず目の前の取組に冷静に向き合うこと、また初日から千秋楽まで同じ心持ちで土俵を務めることですかね」

*3.勝負判定を誤り負けた力士に軍配をあげること。また物言いがつき行司判定が覆った場合のこと

ちなみに先入観をもたず常に公平さを保つためにと、自身が所属する九重部屋にあまり立ち寄らないとか。たまにはちゃんこを食べに来てくださいと親方に誘われるものの、「コロナ禍もあったので部屋には必要以上は行っていないです。勝負判定のうえで力士に情が湧くと困りますから(笑)」

~後編は、助手時代を入れると35年も担当した番付書きについて、またお気に入りの装束や軍配についてお話いただきます~

撮影/梅沢香織

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応募方法

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※ご応募には小学館IDと「茶炉音(サロン)・ド・和樂」への登録が必要です。
※応募された方の住所、氏名、連絡先等の個人情報は、本企画の当選の連絡のためにのみ使用し、その他の目的では利用いたしません。
※今後の企画の参考にするため、アンケートへの協力をお願いする場合がございます。アンケートをお願いした場合、その集計については個人を特定できる部分を除いて集計いたします。

締め切り

2024年3月31日(日)

発表

応募者多数の場合は抽選といたします。当選者には直接ご連絡を差し上げ、発表に代えさせていただきます。電話などでの問い合わせには応じられませんので、ご了承ください。

■参考書籍■
・知れば知るほど行司・呼出し・床山(ベースボール・マガジン社)
・月刊相撲(ベースボール・マガジン社)
・大相撲行司の世界(吉川弘文館)
・大相撲(小学館)
・大相撲行司さんのちょっといい話(双葉文庫)
・大相撲の解剖図鑑(エクスナレッジ)

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森 有貴子

和樂江戸部部長(部員数ゼロ?)。江戸な老舗と道具で現代とつなぐ「江戸な日用品」(平凡社)を出版したことがきっかけとなり、老舗や職人、東京の手仕事や道具や菓子などを追求中。相撲、寄席、和菓子、酒場がご贔屓。茶道初心者。著書の台湾版が出たため台湾に留学をしたものの、中国語で江戸愛を語るにはまだ遠い。
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