着物は着る人に「集まってくる」
——伊藤さんは着物家として、一年のうちのほとんどを着物で過ごされておられます。澤田さんはどれくらいの頻度で着物をお召しになりますか?直木賞の受賞スピーチは着物姿でなさっていましたね。
澤田瞳子(以下、澤田):小さいころから、金彩友禅の作家の和田光正(わだ・みつまさ)さんに可愛がっていただいていて、私の晴れ着系の着物は以前からずっと和田さんにお見立ていただいているんです。授賞式の着物は、江戸時代の画家の作品にモチーフを取った柄で、帯も全部合わせていただきました。
私の手持ちの着物で仕立ててもらった晴れ着は大半が和田さんの仕事で、その他の普段使いの着物は、大叔母が仕立ててくれたものが多いです。和裁をなりわいとした大叔母は大正8年生まれで、ずっと針仕事一本で暮らしていました。
伊藤さんは毎日着物を着ておられますが、実は私も大学院生のころに「着物を毎日着よう!」という”キャンペーン”を一人でやっていたことがありまして(笑)、そんなことをしていると親類縁者などいろいろなところから「もう着ないから」といってどんどん集まってきて。
伊藤仁美(以下、伊藤):その感じ、よくわかります(笑)。
澤田:そのとき頂いた反物や、サイズが違うものを、大叔母のところで一緒に直したりもしていました。
「佇まい」が美しかった
——仁美さんは、毎日のように着物で過ごされていますね。「決意をして」そのような生活を始められたということですが、あらためて経緯を教えて下さい。
伊藤:恥ずかしい話なのですが、若いころは自分の人生に迷っていた時期が長かったんです。大学時代から20代にかけて、ずっと悩み続けていました。そんななかで、建仁寺両足院の住職を長く務めた祖父の法要の席で見たお坊さんたちの袈裟の色が、とても美しいと思ったんです。
それは原色というより少し鈍い色で、シンプルな衣に袈裟を着けた姿でした。そのころは「自分探し」をしようと、外の世界にばかり目を向けようとしていて、自分に何かを足そうとしてばかりいたように思います。そんな折、その袈裟を見たときに、「究極の引き算」から生まれる美学のように感じたんです。シンプルで形も一緒。でもその色合いに深い意味が込められていて、何よりそれをお召しになったお坊さんの「佇まい」が本当に美しかったんです。
袈裟姿の色が美しかったというよりも、いらっしゃるその姿そのものが美しかった。一言もお話になっていないのですが、私に対して、「外の世界に自分を探しに行くのではなく、自分の内側に目を向けなさい」と言われたような気がしました。そういうあり方の美しさに打たれた、というのが正しいかもしれません。
それを機に、お香やお経の声など、自分の身近な世界にこんなにも美しいものがあった、ということに気づきました。きっとそれまでは、自分が禅のお寺の生まれ育って、何か特別なことをしなければいけないという、変な使命感があったのだと思います。
そうした中で、少しずつお着物の仕事をするようになりましたが、そこからさらに今の自分を思いきって捨てないと何も入ってこないと思い立ち、東京へ拠点を移すことにしました。引っ越しの荷物を詰めているとき、お着物と帯がまるでテトリスのように綺麗に段ボールの中に積み上がっていって、それがとても気持ちよかったんです。自分の中から出そうとしていたものが全部そぎ落とされていく感じもあって、「私はこれで生きていこう」と思って、洋服はすべて捨て、着物だけを持って東京に移ったのがきっかけです。
澤田:私や伊藤さんの年代だと、若いころの社会にはかなり閉塞的な雰囲気がありましたよね。
伊藤:おっしゃる通りです。何かに挑戦してみたいと思っても、いまみたいに発信する手段もツールもありませんでしたしね。拠点を変えるということにもすごく恐怖感がありました。
「何者かにならなければいけない」という焦り
澤田:私は大学院を半ばやけっぱちで飛び出したんです。小説を書き始めたのは30歳前後からで、それまでは大学や博物館、美術館で働いたりしていました。歴史にかかわることを仕事にしたいとは思っていたのですが、その方法が分からなくて、私も迷っていた時期が長かったです。
伊藤:その当時はパッと検索して「この道に進みたかったらこういう仕事がある」と答えを知ることもできなかったし、教えてくれる人もないから、手探りで進むしかありませんでした。
——そのときの悩みについて、詳しくお聞かせいただけますか。
伊藤:そうですね、とにかく「何者かにならなければいけない」と感じていました。一方で、お説法を聞く機会も多かったので、「知足(足るを知る)」という言葉の意味はずっと考えていました。分からないなりに、「自分だけが楽しい、満足している」というのはあるべき姿ではないとは分かっていたように思います。だから、社会の役に立つ仕事とか、誰かのためになることをしたいと思うのですが、でもその裏側には、「何者かになりたい」という自分のエゴがある気もして、その間でせめぎ合っていたように思います。
澤田:なるほど。
伊藤:もう少し考えてみると、身近な人たちが喜んでくれるような事ができる人間になりたかったんだと思います。けれど当時の自分はそこには程遠くて、だから周りに何を話していいのか、何から始めればいいのかも分からなかったのだと思います。
挑戦としての着物生活
澤田:私たちの世代は、小学校6年生のころにバブルが崩壊し、大学卒業の年が就職超氷河期のピークに当たる時期でした。2000年を境にした「失われた10年」のちょうど真ん中ごろに大学を卒業していて、社会全体が「これまでの既存の概念から脱却せねばいけない」とか「それぞれの価値観はそれぞれで見つけるべきなんだ」という言説が広がってはいましたが、でも、じゃあどうすればいいのかという答えは誰も持っていなかったですよね。
普通に就職して定年まで勤める働き方がある一方で、フリーターや非正規雇用が広がったのが2000年以降で、まさにそんな時代に社会に出された世代なんです。たとえば、自分の好きなものやそれぞれの個性は「大事にすべき」という雰囲気はあっても、それをどうしたら「仕事」にできるのか、それ以前にどうやって「好き」をアウトプットするのか、その方法が全く分からない。そうした手探りをみんながしていたように私には感じられて、あの時期はもがいていた人が多かったように思います。
——澤田さんも大いに悩んでおられた。
澤田:私の場合は歴史と文学が本当に好きで、それらを仕事にしたいと思っていたので、普通に就職するのではなく、何かオリジナルな仕事をしたいという思いがあったんです。おそらくいまだったらまずSNSで発信することから始めるのでしょうが、当時は既存の価値観と、自分がやりたいことをどうすり合わせて、世に問うていくのかというはざまでもがいていました。
——その一つの答えとして、毎日着物を着ていたのですか。
澤田:どうだったかな(笑)。先程も申した大叔母は普段着も着物でしたので、私も着物はおしゃれ着というより普段着の感覚でした。彼女や母の姿を見てきたこともあって、かつての人たちの生活をもっと知りたいと思って、「毎日着物キャンペーン」に取り組んでいました。
【中編に続きます】
(Photos by Nakamura Kazufumi/中村和史)
Profile 澤田瞳子
1977年、京都生まれ。同志社大学文学部卒業、同大学院博士前期課程修了。2010年に『孤鷹の天』でデビュー、中山義秀文学賞を受賞。2016年『若冲』で親鸞賞、2021年『星落ちて、なお』で第165回直木賞受賞。近著に平安時代を舞台にした『のち更に咲く』。同志社大学客員教授。
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美装のNippon
Profile 伊藤仁美
京都祇園の禅寺に生まれ、着付け師範、芸舞妓の着付け技術まで持つ。「日本の美意識と未来へ」をテーマに『enso』を主宰。講演やメディア出演他、オリジナルプロダクト『ensowabi』や国内外問わず様々なコラボレーションを通して、着物の可能性を追求し続けている。着物を日常着として暮らす一児の母。
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和を装い、日々を纏う。