8月15日、終戦の日。昭和20年のこの日、昭和天皇による終戦詔書の音読がラジオで流れました。この終戦から4年前の昭和16年10月30日。「時局にそぐわない」とされた落語の台本が落語家たちによって「はなし塚」に埋められていました。
はなし塚に葬られたのは53の落語の演目。その後、落語家たちは扇子ではなく銃を持たされ、戦禍へと巻き込まれていきます。
全ては御国のためという名の下に、思想までもが軍事統制されていた時代。笑いを求めることすら罪となった時代が、確かに存在していたのです。
噺家が自ら自粛した禁演落語
「禁演落語」とは、戦時中に「戦意高揚を妨げる」として、噺家達が演じることを禁じた落語をいいます。
現在のテレビなどのメディアで放送できない「艶笑落語」や「差別用語、偏った思想が入った落語」は「放送自粛」されているものであり、禁演落語とは別のものです。「禁演落語」とは、あくまでも第二次世界大戦中に、はなし塚に埋められた落語のことをいいます。
53の落語の禁演を決めたのは、落語家たちでした。自ら禁演を決めた理由として、「笑い話」が「時局に合わない」と判断したということもありますが、どちらかというと「取り締まりが面倒だから自粛した」というのが本音のようです。
昭和16年は、全ての国民が東亜新秩序のため、身を挺して重大時局に直面するべしという時。落語の他の演芸についても、政府から演目の自粛が叫ばれていました。非国民といわれ落語自体が上演禁止とされてしまう前に、先手を打ったというところでしょう。
自粛した53の禁演落語
『品川心中』など自粛した53の落語の中には、男女の噺の他にも、「里心がつくから」と子供や家族を題材にしたものもあります。荒唐無稽、ナンセンスな演目も禁演となっており、「笑い」自体を厳しく自粛しなければならなかったことがみてとれます。
禁演する53演目は、当時の講談落語協会顧問の野村無名庵を中心に選出されました。当時、落語は古典・新作合わせて500余の演目があったといい、選出には随分と手こずったようです。
禁演する落語の台本は「はなし塚」に埋めることとなり、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内に建立されることが決まりました。はなし塚の裏には発起人である寄席の席亭や桂文治、柳家小さん、古今亭志ん生などの名前が、由来には「葬られたる名作を弔ひ尚古今小噺等過去文芸を供養する為」と刻まれています。
この時発起人であった八代目桂文楽は、はなし塚に「六代目」と刻んでいます。実は、文楽は六代目と名乗ることを嫌がり、自らを八代目と名乗っていました。「六代目」と刻むことで、不条理への抵抗を示していたのかもしれません。
戦争中に生まれた新作落語
53演目を埋めたことで、おのずと新作落語のニーズが高まります。中でも有名な新作落語が、初代柳家金語楼の「落語家の兵隊」です。
「職業は、オチガタリか?」
「オチガタリとは参ったな、そりゃ、落語ってんです」
と、出兵した際の経験を落語にしています。「ヤマシターーケータローーー!」のセリフとともに広まり、大いに新作落語が作られました。新作落語の地位をあげたきっかけが、笑いを禁じた戦争であるとは皮肉なことです。
戦争はいよいよ深刻な局面へと入っていき、落語家たちも戦火へと徴兵されていきました。先代の柳家小さん、昔々亭桃太郎は出兵。三遊亭円生と古今亭志ん生は、慰問に満州へと旅立ちます。
満州へ向かう理由について、円生の「日本にいても寄席はなくなるしこのままでは落語ができなくなってしまう」であることに対し、志ん生は「向こうに行ったら好きなだけ酒が飲める」だったそうです。2ヶ月程度で帰れるはずだった二人は、結局終戦後2年も過ぎてから帰国しました。
そして迎える終戦 笑いに飢えた人々が再び寄席に
終戦を迎えたとき、東京に残っていた寄席は人形町の末廣亭のみでした。しかし、人々は笑いを求め、再び寄席に集まり始めます。
そしていよいよ昭和21年9月30日に、禁演落語の復活祭が行われました。埋められた落語を掘り起こし、代わりに戦意高揚を目的に作られた国策落語を埋めたといいます。
日本に落語の笑いを取り戻したその日、落語家の何人かは戦火に巻き込まれ、既に姿はありませんでした。はなし塚の中心人物であった野村無名庵は、空襲で焼夷弾の直撃を受けて焼死したとあります。
日劇小劇場では早速、禁演落語の復活興行を始めました。「明烏」「粟餅」「蛙茶番」などが演じられ、これまでご法度だった女性客も多く入ったそうです。色っぽい場面では、男性も女性も大いに笑ったといいます。
はなし塚は、東京大空襲で本堂が焼け落ちたにもかかわらず本法寺境内に無傷で残り、戦争の記憶を今に伝えています。
もうひとつの禁演落語「自粛禁演落語廿七種」
戦争が終わり、人々に笑いと自由が戻ったところへやってきたのが、マッカーサーとGHQです。彼らは、「民主主義にふさわしくない」というものを検閲の対象とし、歌舞伎の「忠臣蔵」「勧進帳」のほか、315種を上演禁止にしました。
落語も例外ではなく、婦人を虐待するもの、仇討ちもの、宗教の強要、征服ものが検閲の対象とされ、以下の話が禁演となってしまいます。
桃太郎 将棋の殿様 景清 巌流島 高尾 五章うなぎ お七 肝つぶし 寝床 宗論 四段目 花見の仇討ち 袈裟御膳 社員の仇討ち 山岡角兵衛 宿屋の仇討ち ちきり伊勢谷 毛氈芝居 白木屋 くしゃみ講釈 他
これらの27演目は、昭和22年5月30日に再びはなし塚に葬られることとなってしまいました。しかし、演目のチョイスはずいぶんといい加減だったようです。
この頃の興行は、全てGHQにあらすじを翻訳して提出しなければなりませんでした。いちいちストーリーを説明するなど面倒と考えた落語家たちが、「仇討ち」などタイトルで突っ込まれそうなものを禁演落語にしておいたというところでしょう。
自粛する意味がうやむやなまま、2年後の昭和24年の4月には禁演落語復活法要が行われ、27の演目は解禁されました。新聞には報じられず静かなものだったと言います。
すでに人々の関心は、戦後の復活と未来へと向かっていたのです。
過ちは2度と繰り返さず 禁演落語を笑える幸せ
現在の日本はまだ、禁演落語をかけて取り締まりを受けることも、逮捕されることもない時代が続いています。禁演落語がかけられ笑えるということは、平和と自由の証なのです。
支配を目的とした検閲は、いつの時代もあってはならないことです。人間の優しさや、欲と愚かしさを笑い飛ばせる日々が、いつまでも続くことを願います。
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噺家の女房が語る落語案内帖 櫻庭 由紀子
参考文献:
小島貞二著「禁演落語」「落語三百年昭和の巻」
柳家金語楼:落語家の兵隊(口述速記)