三笠宮妃殿下がお隠れになった。最愛のおばあちゃまであり、敬愛する人生の師であった。どんなときも、妃殿下が私を信頼し、味方でいて下さることが支えでもあり、自信にもなっていたから、帰宅して部屋で一人になると毎日言いようのないさみしさに襲われている。もっとたくさんお話をうかがいたかったし、新しいお菓子をお持ちすると「あら、お珍しいものを」といつも喜んでくださる御顔をまた拝見したかったし、ジグソーパズルもまたご一緒にしたかった。覚悟は頭でしていたことだけれど、いざとなると心はなかなか受け止めきれないものがある。
妃殿下との思い出は数限りなくあるのだけれど、何よりもありがたかったのは、2022年に出版した『三笠宮崇仁親王』の編纂作業を通して、三笠宮殿下の100年のご足跡と三笠宮家創設以来の歩みを妃殿下からお聞かせいただけたことであったと思う。
妃殿下は、過去のインタビューなどを拝読しても、あまり饒舌にお話しになることはないのだが、全11回に及んだオーラルヒストリーの収録では、本当に多岐に亙るテーマで長時間お話しくださった。妃殿下のご記憶力は驚くべきもので、時にはご自身の日記を確認されながら、まるで昨日起こったことかのように、なめらかにお話を紡がれる。いつも一編のものがたりを聞かせていただいているような気持ちになった。
「彬子ちゃんに聞かれると、おじいちゃまのことをなるべくたくさん知っておいて欲しいと思うから、ついついあれこれと話してしまって、余計な話を随分してしまった」と出版後も度々仰っていたように、孫としてお側にいるだけでは知り得なかった、皇族として、帝国軍人として、オリエント学者として、夫として、父として…殿下の様々な側面を、細やかな愛情にあふれる語り口でお聞かせくださり、今でも一つ一つのお話しが色鮮やかに思い起こされる。
おかげで今では、何かの会で「祖父が三笠宮殿下と習志野でご一緒で」とか「母が東京女子大で殿下の教え子だったんです」などという方にお目にかかると、その頃の思い出をより立体的に頭に思い浮かべながらお話を伺えるようになり、とても幸せな脳内時間旅行をさせていただいている。
三笠宮妃殿下は笑い上戸でいらっしゃり、私の話をいつも本当に面白がりながら聞いてくださった。何か面白いことが起こると、「今度絶対おばあちゃまにお話ししよう」と思いながら心の中であたため、次にお目にかかるときにお話しすると、大抵涙を抑え、コロコロと笑われながら仰る。「愉快ねえ」と。この「愉快ねえ」の一言をうかがうと、「よし!」と一日とても幸せな気持ちで過ごせる。私にとっては魔法の呪文のようなお言葉だった。
3月に脳梗塞と誤嚥性肺炎で入院されてからは、そんなお話ができる機会もなくなってしまった。喉の筋肉が弱られたせいか、言葉を発されることも少なくなっていった。でも、私が何かおもしろい話をすると、目を見開かれたり、笑みを浮かべて反応して下さることが、いつものお話しが続けられているように感じられ、うれしかった。
夏前頃だっただろうか、いつものように病室であれこれとお話ししていたら、妃殿下が突然「わざわざ悪いわね」と仰った。私が京都や地方を行ったり来たりしながら、時間を見つけてはお見舞いに伺っていたことをしっかりと認識した上で仰ってくださっていることが本当にありがたく、「全然!おばあちゃまにお目にかかりたくて来ているんでございますよ」と笑いながらも、涙がぽろりとこぼれてしまった。
妃殿下の薨去の後、ご弔問に来てくださった主治医の先生と妃殿下のお寝間で長々と思い出話をした。お化粧をされた妃殿下は、長期のご入院生活の面やつれもなく、本当に輝くようにお美しくて、今にも起きてこられそうな穏やかなお顔だった。お苦しみもなく、あっという間に旅立たれた妃殿下だったが、先生曰く101年間働き続けた心臓がゆっくりと活動を停止した感じだったという。「脳梗塞でも、肺炎でもなく、老衰っていうのがしっくりくる最期だったなあ」と。
その話を側衛にすると、「それなら妃殿下は病気に打ち勝たれたということですね。強い方ですね」と言われた。それを聞いて、なんだかすっと腑に落ちた。
大腸がん、心臓のご持病、肺炎、新型コロナウィルス感染症など、何度もご病気を患われたが、その度に回復されることから、宮内庁の人たちからは「不死身の百合子様」と言われていた。今回のご入院中も、リハビリのレベルが少しずつ上がって行かれるご様子を見ながら、「やはり不死身の百合子様でいらっしゃいますね!」と申し上げると笑っておられた。
ご病気ではなく、ご寿命でのご最期。病気に打ち勝ち、殿下の許に行かれることをご自身で選ばれたのだと思った。やはり不死身の百合子様でいらっしゃったのだ。あふれる涙が本当に止まらなかった。
私は昨年、妃殿下の百寿のお祝いに、100ピースの漆塗りのジグソーパズルをお贈りした。咲き乱れる百合の花とお子様方をイメージした五頭の蝶が舞う姿を描いたもの。無理を言って輪島の職人さんに作ってもらった。妃殿下はとても喜んでくださり、「紙かと思ったら漆でね。厚みがあるからとてもやりやすいの」と、あっという間に仕上げてくださった。その職人さんが、能登半島地震で命を落とされた。若手のとても有望な方だったそうで、その話を聞いたときはつらすぎて言葉が出なかった。
このパズルを妃殿下の副葬品に入れようとしてくださっていたのだが、箱が大きすぎて入らなかったと聞き、引き取らせていただいた。職人さんのご遺族の方にお贈りさせて頂こうと思っている。箱を開けてみると、一部のピースが外れてバラバラになっていたので、妃殿下の枕辺で続きを仕上げさせていただいた。涙が出てきてしまい、なかなか思うようにできなかったけれど、最後の最後に妃殿下との合作という最高の夢をかなえてもらった。天上から職人さんがつないでくれたご縁であったと思っている。
妃殿下への御恩と感謝は、私がこの先一生かけてもお返しできないものである。何よりも、20歳ころまでそれほど交流が多くなかった不肖の孫である私を、これほどまでに慈しみ、導き、そして信頼してくださり、ご自身の人生の幕引きの責任者である喪主をお任せくださったことは、私にとって最高の誉れである。この任務を全うすることがご恩返しの第一歩だと思い、精一杯お務めしたいと思っている。
でもやはり、さみしゅうございます。おばあちゃま。
アイキャッチ画像:即位の礼の前、三笠宮東邸にて装束着装の習礼を見学に来られた妃殿下とご一緒に