かの有名なアメリカの発明家「トーマス・エジソン」の言葉である。
だから、挑戦を続けていれば必ず道は開ける。成功へと繋がるのだと。
そんな意味合いで、相手を叱咤激励する場合に使うことが多い。
だが、失敗が成功に変わるためには。
1つの前提条件がある。
それは「生きる」というコト。
そもそも、すべては「命」あってのこと。
命が尽きれば「失敗」でさえも経験できないのだ。
今回、取り上げるのは、いつもながら苛烈な戦国の世を駆け抜けた武将たち。
そんな彼らの失敗エピソードを集めた第2弾となる。
ただ、テンションは少々抑え気味で。
というのも、第1弾の失敗エピソード集とは異なり、今回ご登場される方々は失敗がそのまま……悲劇の結末に直結。結果的に、命を落とした武将だからである。
それに加えて、なんとまさかの「怪談」絡みというではないか。
夏の夜に、是非ともおススメしたい戦国武将失敗エピソード集。
今回だけは笑いを封印して。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※本記事は「今川義元」「織田信長」「大内義隆」の表記で統一しています
兄者よ、わしを恨んでおるのか?
最初にご紹介するのは、コチラ。
「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れた「今川義元」である。
当時、まだ無名の武将であった織田信長が、名門今川氏を破ってまさかの大金星。いつもなら「下馬評を覆す」と言いたいところだが。
今回はその逆。「覆された」側の話である。

まずは簡単にその背景から。
当時の東海地方はというと、駿河、遠江(共に静岡県)から三河(愛知県)へと勢力を拡大した今川義元を筆頭に、周辺はまさに錚々たる戦国武将がズラリ。武田氏に北条氏と手強いメンツ揃いであったが、義元は彼らと姻戚関係を結び三者の同盟を締結。足元の地盤を固めることに成功する。
こうして、今川義元は本格的に西進へと乗り出す。永禄3(1560)年、義元は大軍をもって尾張(愛知県)へと侵攻。織田方の砦を幾つか陥落させ、本陣を桶狭間へと移すのだが。そこで織田軍からの急襲を受け、まかさの義元が敗死。これが「桶狭間の戦い」の概要である。
それにしても、今川氏の最盛期を築いた、あの今川義元が討ち取られるだなんて。さすがに当時は、誰も想像できなかった結末であろう。だからこそ、この「桶狭間の戦い」については、予想外、不測の、予期せぬ……など、色んな言葉を使って「意外だ」と評価されることが多い。
だが、しかし。
じつは、当の本人が「死」を予告されていた……としたら、どうだろうか。
いやいや、まさか。
もう、ダイソンたら。
またしても、奇想天外なコトを。
だが、これは単なる妄想ではない。
『当代記』に、非常に気になる内容が記されているのだ。
ちなみに当代記とは、織豊政権期から江戸幕府の成立期までの年代記で、作者は不詳。姫路城主の「松平忠明」との説もあるが、定かではない。その内容は、諸国の情勢から戦国武将らの興亡、江戸時代初期の政治など多岐にわたる。当然、同時代に生きた今川義元についても触れられているワケである。
その中で、今回取り上げるのがコチラ。
「良眞靈」である。
コレって、一体、なんなんだ。
「霊」となっているコトから、恐らく怪談話の類のようではある。
現代語訳すれば「良眞(よしざね、りょうしん)の霊」となるのだろう。
この「良眞」という謎の人物。
別の名を「玄広恵探(げんこうえたん)」という。
じつは、彼は今川義元の異母兄なのである。

家系図を少し遡ると。
今川義元の父親は、今川氏親(うじちか)。
氏親は北条早雲を伯父に持ち、その助けもあって今川家の家督を継ぐ。駿河(静岡県)、遠江(静岡県)の守護となり、順調に勢力を拡大。分国法「今川仮名目録」を制定するなど、今川家の基盤を築いていく。
そんな氏親には、何人かの子どもがいた。
長男は氏輝(うじてる)。それ以外の子どもについては人数や出生順など諸説ある。ただ、確かなことは、嫡男の「氏輝」とさらなる後継ぎ候補であった「彦五郎」らを除いて、義元も玄広恵探も出家させられたというコト。無用な家督争いを避けるための出家だったようだ。
正室を母に持つ義元(諸説あり)は、京都の建仁寺や妙心寺にて修行。「梅岳承芳(ばいがくしょうほう)」と称し、善徳寺(静岡県富士市)の僧に。一方、側室を母に持つ異母兄の玄広恵探は、徧照光寺(静岡県藤枝市)の僧となっていた。
そして、天文5(1536)年。
14歳で家督を継いだ氏輝が死去。享年24。氏輝には子もおらず、「彦五郎」も死去したため、義元が還俗して家督を継ぐというコトに。そこで、待ったをかけたのが、異母兄の玄広恵探だ。重臣の福島氏に担がれて家督争いに参戦。義元側からの説得も虚しく挙兵する。いわゆる「花倉の乱」である。
ただ、勝負は既についていたといえるだろう。
というのも、義元側には今川氏の外交僧で軍師でもある「太原崇孚(たいげんすうふ、雪斎)」がいたからだ。圧倒的な根回しで義元は周囲から支援を受け、玄広恵探のいる花倉城は陥落。恵探は普門寺まで逃れて自害。享年20であったという。
そんな玄広恵探が、である。
桶狭間の戦いへと至る前に、なんと今川義元の夢に出てきたと『当代記』に記されているのである。

約25年ぶりであろうか。
そんな再会シーンがコチラ。
義元參河表發向時、夢想有之、夢中花倉對義元云、此度之出張、可被相止也……
(阿部正信著『駿国雑志 2 (自巻之22至巻之35)新版』より一部抜粋)
「花倉」とは、玄広恵探のコト。
再会といっても、もちろん現実的にではない。
相手はとうの昔に自害した異母兄なのだ。久しぶりの再会は、義元の夢の中で実現したようだ。
さて、夢枕に立った異母兄だが。
唐突に「こたびの出陣をやめよ」と言うではないか。
ちょうど義元は、西進を目指し尾張へと侵攻するところであった。
これに対して、義元の反応はというと。
超ナイスな忠告も、検討せずに即刻スルー。貴重なチャンスをふいにしたのである。
ただ、この反応も無理もない。そもそも異母兄は、自害に追い込んだ相手。我が身に恨みがあると思い込むのも当然のコトだろう。実際に、義元は「そなたは我が敵」という言葉を発している。だから、敵からそんな忠告を聞くことができない。そう返したのである。
そんな義元に、玄広恵探はズバリ一言。
花倉叉云、今川家可廢事爭不愁乎云。
(同上より一部抜粋)
──今川家の滅亡を案じておる
こちらはこちらで、至極ごもっともな意見である。
非常に率直な物言いで、じつにマクロな視点から訴えるコトにしたようだ。
だが、義元の罪悪感の方が大きかったのか。
残念ながら、玄広恵探の忠告を義元は素直に聞き入れることはせず。予定通りに尾張へと兵を進めていく。
そして、その後。
誰もが知る「歴史が動く瞬間」が訪れる。
桶狭間へと本陣を移すも……。
あとはご存知の通りである。
義元は急襲され敗死。それも、武将としては是が非でも避けたい散り方。相手方に首を討ち取られるという結末に。
皮肉にも。
今川義元の名は、織田信長が金星を挙げた相手として後世に伝わっていく。
そして、今川氏も衰退の一途をたどるのである。
凶兆続き……不吉にも程がある!
次にご紹介するのは、コチラ。
西国の覇者ともいわれた「大内義隆(おおうちよしたか)」である。
室町時代後期の享禄元(1528)年、義隆は家督と共に周防や長門(共に山口県)をはじめ数ヵ国の守護を引き継ぐ。コチラも今川氏と同様に、当時の中国地方や北九州周辺には名の知れた戦国武将らが勢揃い。だが、義隆は少弐(しょうに)氏を撃破、大友氏とは和睦を結ぶなど北九州はもちろん、さらには山陰まで勢力拡大に向けて動くのである。

そんな大内義隆の人生の岐路となったのが、天文11(1542)年の尼子(あまご)氏との争いだ。
義隆は自ら兵を率いて、島根県安来市にある「月山富田城(がっさんとだじょう)」を攻め込むも大敗。加えて、家督を継ぐ予定の養子までも失うことに。一説には、この敗戦がきっかけで、義隆は文治政治に力を入れたとも。
実際、義隆は下向した公家らを招いて厚遇。明や朝鮮とも貿易を行い、本拠地の山口は文化都市として大きな発展を遂げていった。また、フランシスコ・ザビエルとも面会し、キリスト教の布教を許すなど、西洋文化を取入れることにも積極的であったという。
一方で、そんな義隆に不満を抱く家臣も。彼らとの間に生じたズレは、やがて大きな亀裂となっていく。
そして、天文20(1551)年9月。
重臣の「陶晴賢(すえはるかた)」が中心となって挙兵。義隆は大寧寺(山口県長門市)へ逃れるも、最期は自刃。享年45。この謀反により義隆の実子も殺され、ここに大内氏は事実上滅亡したのである。
敵方ではなく、味方の裏切り。
「西国一」とうたわれた大内義隆も、まさか自身が謀反に遭い、命を落とすことになろうとは思いもしなかっただろう。一体、どこですれ違ってしまったのかと嘆いても、あとの祭り。
ただ、今回も。
1つ気になることがある。
またまた。ダイソン。
今回もって。
先ほどの今川義元といい、そんなに都合よく誰かが夢に現れるってことは……さすがに、ない。あるワケない。
だが、しかし。
違う形で、大内氏滅亡を予期させる出来事があったとすれば、どうだろうか。
それがコチラ。
「山口物怪(もののけ)之事」である。
山口周辺で次々と「怪異」が現れたと。
そんな気になる内容が『陰徳太平記』の中に記されているのだ。
ちなみに陰徳太平記とは、毛利氏の中国地方制覇を中心に、岩国藩士の父子がまとめた軍記物だ。正徳2(1712)年に刊行され、併せて西日本の戦国武将らの興亡や織豊政権なども描かれている。つまり、大内義隆についても触れられているというワケである。

それにしても「もののけ」って。
具体的には、どんな現象なんだと気になるではないか。
そこで、大内氏滅亡の予兆の一部をサラッとご紹介しよう。
まずはコチラ。
「松の木」から。
築山の客殿の庭上に二葉の松を植ゑられける時、大内家の繁榮は此松を以て驗(しるし)とせん…(中略)…千年の綠深く榮えしが、此程忽(たちま)ち一夜の中に枯れけるこそ不思議なれ……
(早稲田大学編輯部編『通俗日本全史 第13巻 第13巻 陰徳太平記(香川正矩編 尭真補遺)』より一部抜粋)
もう、解説は不要だろう。
わっさわっさの綠深い松の木が、一夜で枯れ木に。
ちなみに築山とは、歴代の大内家当主の居館である築山館を指す。その客殿の前に双葉の松が植えられており、昔より大内家の繁栄を示すといわれていたようだ。そんな大事な松が一夜にして枯れたというから、なんとも分かりやすい予兆である。
じつに、この怪異だけでも十分、大内氏に未来がないと思えるだろうが。
いやいや、まだまだ。怪異はさらに続く。
それがコチラ。
荒神人に附託して、大内家永く斷絶して、防長豊筑の貴賤僧俗路頭に迷惑し、野外に號泣して、上下位を易ふべしなど、行く末の事共兎有らん、角有らんと、見るが如くに語りけり……
(同上より一部抜粋)
神懸った様子の人が、何かを口走っているという。
気になるその内容はというと。
「大内家が滅亡し、身分の高い人、低い人、出家した僧、俗世の人など、皆が路頭に迷い、野外で号泣し、位の上下が入れ替わるだろう」という非常に強烈なモノ。ただの戯言(たわごと)では済まされない。こんなモノが出回ると、世の中が混乱するのは必至。ただ、これに関しては、怪異や凶兆というよりは単純に予言の一種といえるのかもしれない。
最後は、謎の「老僧」の登場だ。
義隆が「龍福寺(山口県山口市)」で和歌の会を催した際の話である。
見ず知らずの老僧が義隆に親し気に話してきたという。義隆も寺も互いにそれぞれの知り合いだと思い、なんら不審に思わず。そんな老僧が「樗(おうち)」という題に当たり、その場でさらさらと和歌を書き、禰宜(ねぎ)に差し出したという。
その歌がコチラ。
知るやいかにすゑの山風吹落ちて もろく樗の散果てんとは
(同上より一部抜粋)
ここでいう「樗」とは、栴檀(せんだん、木の種類)の古称である。
一見すると、「どのように知るだろう。最後の山風が吹いて、もろい樗の大樹が倒れ果てることを」という意味になりそうだが。
さらに深読みすると。「すゑ」とは謀反を起こす「陶晴賢」のコト。また「樗(おうち)」とは、「大内氏」のコト。つまり、「陶晴賢の起こす風で、大内氏は散り果てる」という内容に解すことができるのだ。
正直なところ。
「ウマい!」と言いたいところではあるが。その後の大内義隆の最期を考えれば、結果が結果なだけに。大っぴらに褒めることもできず。
その大内氏からすれば、もちろん縁起でもない、トンデモナイ和歌となるワケで。当然、詠み直し……となるところで、既に謎の老僧の姿はかき消えていたという。
今回、ご紹介したのは一部だが。
このような怪異現象が山口で次々と現れ、人々は騒然。
もちろん大内義隆も、これらの怪異を黙って見ていたワケではない。
『陰徳太平記』によると、山伏に調伏(ちょうぶく、怨敵の障害を破る、呪詛など)を依頼するなど対策に奔走。また、築山館に高僧らを呼んで加持祈祷を行っていたとも。
だが、当然のことながら。
このような義隆の動きは噂になる。
それは、謀反の準備をしていた重臣の陶晴賢の耳にも届いたはずだ。
これらの義隆の行動が、果たしてどのように作用したのか。
思い止まらせる効果ではなく、逆に背中を押す結果となった可能性も無きにしも非ず。
ちなみに、結末はご存知の通り。
陶晴賢は裏切り、大内義隆は自刃。
大内氏の滅亡は、残念ながら現実となったのである。
最後に
1人目でご紹介した今川氏について。
さらに「怪異」の話をもう1つ。
じつは、『当代記』には、他にも今川義元の死に対する予兆が記されている。
それがコチラ。
「僧眞範怨鬼」である。「眞範(しんはん)」という僧の話だ。
今川家に眞範と云僧の靈あり。徃古より凶事ある時は、必出づるといへども、主將の外見る者なし。永祿三年五月、國主今川治部大輔義元、尾州の織田家を倒さんと、兵を府中に發して、阿倍川をすぐ。時に此僧出て、義元が目にさへぎる。云云。皆以今川家滅亡の前表とす。
(阿部正信著『駿国雑志 2 (自巻之22至巻之35)新版』より一部抜粋)
もう、そのまんまである。
今川氏がヤバい時に、決まって出てくる謎の僧「眞範」の霊。
なぜか当主しか見ることができないというレアな存在だ。
そんな貴重なお姿を、今川義元は目撃。
ちょうど尾張へと兵を進める途中、静岡市を流れる「安倍川」付近でのことだとか。
だが、やはりというかなんというか。義元はお約束通り、またしてもスルー。当初の計画を変えることなく進軍したという。
そして、結果はご存知の通りである。

(TOKYOアーカイブ)
さらに、ダメ押しで。
最初にご紹介した異母兄の「玄広恵探」の話だ。
またかと思われるだろうが。彼が夢で義元に忠告をするエピソードにも、後日談がある。
それがコチラ。
其後駿河國藤枝被通時、花倉町中被立、義元見之刀手懸……
(同上より一部抜粋)
玄広恵探が義元の夢枕に立ったあとのこと。
それでも、今川義元は彼の忠告を聞かずに出陣。その途中、静岡県の藤枝市付近を通過する際に、なんと玄広恵探が、町中で実際に姿を現したというのである。よほど今川家を守りたかったのか、じつに涙ぐましい努力である。
そんな異母兄の姿を見た義元はというと。
無情にも刀に手を掛けたとか。その瞬間に、玄広恵探は消えたという。
異母兄は力を振り絞り、ここまで頑張ったのだが。
結局、義元はこれもスルー。
やはり「死」という結果を免れることは、できなかったのである。
それにしても、不可解である。
玄広恵探からすれば、今川義元は憎き相手のはずだ。
そこまで必死になる理由は、一体、何だったのか。
ここからは個人的な見解となるが。
自分を死に追い込んだ、そんな一族であっても、絶対に滅亡だけはさせたくない。
玄広恵探は、そう思ったのではないだろうか。
理由は1つ。
滅亡すれば、己の死が無駄になるからだ。
享年20。この短い人生の中で、一体、自分は何のために生まれ、何のために死んだのか。戦国の世であっても、そう問わずにはいられなかっただろう。
その答えが、一族存続のための「犠牲」であり、一族繁栄のための「必要な死」。
そのためには一族の「存続」が前提となる。
だからこそ「滅亡」だけはさせたくなかったと、そう思えるのだ。
最後に。
ここまで書いておきながら。
実際に、彼らの周辺で怪異があったかどうかは確証がない。
というのも、「死」という結末ありきで、後世で意図的に後付けされた可能性も十分考えられるからだ。
ただ、逆に。
本当に「怪異」があったとすれば。
こうして全方位から、彼らに「滅亡」の忠告がされていたならば。
結局のところ、それは本人次第。
「滅亡」は。
「忠告」を見逃し、あるいは信じず、真摯に受け止められなかった結果なのである。
結論。
己の最大の敵は、己自身。
生かすも殺すも、己次第なのである。
参考文献
『通俗日本全史 第13巻 第13巻 陰徳太平記(香川正矩編 尭真補遺)』 早稲田大学編輯部編 早稲田大学出版部 1913年
『悪人列伝 第3』 海音寺潮五郎著 文芸春秋新社 1962年
『駿国雑志 2 (自巻之22至巻之35)新版』 阿部正信著 吉見書店 1977年2月
『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』 小和田哲男著 ミネルヴァ書房 2004年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『歴史人物怪異談事典』 朝里樹著 幻冬舎 2019年10月
『日本の名将365日』 安藤優一郎著 辰巳出版 2020年8月

