陰陽師といえば、小説や漫画・映画の安倍晴明(あべの せいめい)のイメージで妖怪退治する職業のように思っちゃいますが、実際の陰陽師は天文学者兼占星術師でした。
そんな陰陽師が使っていた占星術とはどんなものだったのか……! 占い好きとして気になりました。けれど結論から言えば、現代にその占術が残っていないのでわかりません。
陰陽師が使っていた占術はわかりませんが、その原型となっているのが、古代中国で使われていた「六壬式(ろくじんしき)」という占術だということは明らかとなっています。
ではその「六壬式」とはどんな占術かというと……これもまた、その方法が複雑すぎて現在では廃れてしまっていてよくわかっていないんですよ! ガッデム!! ここまでか……!
……と、思ったら……その「六壬式」は古代中国の占星術とインド占星術が融合したもので、そのインド占星術は西洋占星術がベースとなっている、という道筋がわかっています。
ならば……行くしかない。陰陽師の占術を求めて西洋占星術の世界へ!!
西洋占星術の祖・古代バビロニア占星術
西洋占星術の起源は、古代メソポタミア文明、特にバビロニア(現在のイラク南部)にあります。西洋占星術ってヨーロッパ発祥と思ったら西アジアなんですね!

はい、10世紀の日本を調べようとしたら、紀元前30世紀の西アジアに来てしまいました。ここで「おかしい……和樂webは日本文化メディアのはずでは?」と正気に戻ってはいけません。なにせ今は失われている陰陽師の占術を解き明かそうとしているのですから、出発点から正気ではないんですよ。
バビロニアでは、紀元前2千年紀頃から天体の動きと人間の運命を結びつける考え方が生まれ、天体の観測と記録が盛んに行われました。紀元前7世紀頃には、天体の動きが国家や王の運命を左右するという考え方が確立し、占星術が政治に利用されるようになります。
どのような占術かは粘土板に残されている断片的な事しか残っていませんが、バビロニアの星座と西洋占星術の星座はほぼ同じものです。まあ、西洋占星術の基礎がバビロニア占星術なので当然と言えば当然ですね。
西洋占星術と違う所は、いわゆる「黄道(太陽の通り道)」が三本線で、それぞれが神の通り道とされていました。また、バビロニアの位置的に、西欧や日本では見られない星や星座もあります。(南十字星やみなみのうお座など)
興味深いのは、古代メソポタミアの占星術では「天空の異変」を凶兆ととらえ、地上に起こる悪い出来事と対応していると考えられていました。そのため初期の段階から日食や月食、掩蔽(えんぺい)、彗星などを観測し対処しようとしていました。
ここら辺がちょっと日本の陰陽道と似ているなぁと思います。ちなみに掩蔽というのは星を星が隠す状態の事です。よく『吾妻鏡』にも「火星が金星を犯す」と書かれていますね。
メソポタミアの隣にあるエジプトでも天体観測はされていましたが、月食や彗星の事は記録に残っていません。毎晩夜空を観測して「1年365日」「1日24時間」という時間の概念を考案したといわれています。古代エジプト人は宇宙に秩序と法則性を見出していました。
古代ギリシャ時代
紀元前4世紀に入り、マケドニアのアレキサンダー大王による東方遠征で、ギリシャからインドに至る大帝国が築かれました。

その時にバビロニアの占星術がギリシャに伝わります。バビロニア占星術にギリシャ哲学や数学が融合し、ホロスコープ(出生図)を用いた個人占星術が発展します。

大王の死後帝国は、エジプト(プトレマイオス朝)・シリア(セレウコス朝)・マケドニア(アンティゴノス朝)などに分かれました。アレキサンダー東方遠征から、分裂した諸国がローマに征服されて滅ぶまでを「ヘレニズム時代」といいます。
そしてエジプトのプトレマイオス朝は紀元前30年、クレオパトラの死によって滅亡しローマに支配されました。
2世紀になり、ローマ支配時代のエジプトのアレキサンドリアで活躍した天文学者クラウディオス・プトレマイオスは占星術の集大成である『アルマゲスト』を著し、その後の西洋占星術の基礎を築きます。ちなみにクラウディオス・プトレマイオスは、アレキサンダーからエジプトを引き継いだプトレマイオス1世と繋がりがあるかは定かではないようです。
プトレマイオスの『アルマゲスト』はギリシャ語で書かれていましたが、9世紀頃にアラビア語に訳されてイスラーム世界で広く読まれるようになり、12世紀にはラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパに広まりました。
『アルマゲスト』は宇宙を「天動説」で説いていたため、16世紀にコペルニクスが「地動説」を提唱するまで1400年の間天動説が強く支持されていました。現在も西洋占星術のホロスコープは天動説で描かれています。
現在、国際天文学連合が策定ている88の星座がありますが、北半球で見える星座の大部分が、プトレマイオスが著した『トレミーの48星座』に由来しています。『トレミーの48星座』は古代メソポタミアの星座を参考にしていますが、なぜか古代エジプト独自の星座は採用されていないので、エジプトの天文学は次第に廃れていきました。
インド占星術の発展
そしてアレキサンダー大王の東方遠征によってギリシャの文化(ヘレニズム)がインドに伝わり、またインドの文化もギリシャに伝わって活発な文化交流がありました。
インドでは古代から天体観測が行われ、バラモン教による占星術もありました。元々インドにあった占星術には夜空を27~28分割した「ナクシャトラ」と言われるものがあります。
ナクシャトラは元々はインドの月神ソーマの妻の名前で、月の公転が27~28日かけて一周していることに由来しています。ナクシャトラの区分にはそれぞれ星を表す名前がついていますが、それがどの星を指すのかは流派によってちがうようです。
古来のインド占星術はヘレニズム文化の伝来によって西洋占星術と徐々に融合し、ホロスコープを用いた「インド占星術(ジョーティッシュ)」が発展します。
そしてこのインド占星術の結果に出た厄災を払うことが、インド発祥の宗教「仏教」の一派である「密教」の課題の一つでした。
インド占星術と西洋占星術の星座
西洋占星術との一番の大きな違いは12星座のシステムです。インド占星術では、実際の星の配置に基づいた「サイデリアル式」を使用するのに対し、西洋占星術は占星術用の星の配置である「トロピカル式」を使用します。
トロピカル式は、「春分の日を牡牛座の0度」と決めた計算式です。しかし、西洋占星術誕生から長い年月が立ち、春分の日の星座はズレていて現在は魚座にあります。
なので、西洋占星術で使われる星座を日本語表記する場合、実際の空にある星座と区別してひらがな表記の星座名(うお座・おひつじ座・おうし座)で、星座のことを「サイン」と呼ぶようです。
そして、春分の日のズレに合わせて計算しなおしたホロスコープがインド占星術の「サイデリアル式」なのですが、どういう計算なのかはインド占星術でも流派によって違うようです。ちなみにインド政府が公認しているホロスコープは「サイデリアル・ラヒリ」というもので、乙女座の恒星スピカから180°の位置をスタート地点とするようです。
ホロスコープの違い
西洋占星術のホロスコープは円形で、盤面は地平線の位置で固定され、12星座は反時計周りに配置され、円盤は時計回りに回る「天動説」です。
一方インド占星術のホロスコープは12星座は四角形で、12星座は時計周りに固定されています。「地動説」っぽいですね。

ダシャー
インド占星術では、結婚や出産・病気などのライフイベントを予測することも重要です。
「ホロスコープ」に現れた特性や能力が、人生でどのタイミングで現れるのかを見るのが「ダシャー」。ダシャーを読むのに重要なのが先述の「ナクシャトラ」です。
重視する星
西洋占星術が太陽を中心に置いているのに対し、インド占星術では月に重きを置いています。西洋占星術の太陽は「個人のアイデンティティと目的」を象徴し、インド占星術の月は「心、感情、過去世」を象徴します。
また、インド占星術は伝統的に、「水星・金星・火星・木星・土星」を使いますが、「天王星、海王星、冥王星」といった外惑星を含めません。これらは比較的最近発見された天体であり、古代インドのヴェーダの伝統的な占星術の文献には記述がないためです。
これらの5つの惑星と、「太陽」と「月」、太陽と月の通り道の交点にあるとされた星「ラーフ(西洋占星術のドラゴンヘッド)」と「ケートゥ(西洋占星術のドラゴンテイル)」を加えたものを「九曜」と言います。
ハウス・システムの違い
ホロスコープには太陽の通り道(黄道)を12等分した星座の部屋「サイン」の他に、生まれた瞬間の太陽の位置を基準に12に分けた「ハウス」があります。
西洋占星術では生まれた時の東の地平線の位置(アセンダント)を横軸とし、太陽の位置を縦軸としているのでハウスの大きさはバラバラです。インド占星術ではアセンダントから12等分されています。

中国占星術との融合
インドの文化はシルクロードを通じて中国にも入ってきて、古代中国の占星術にも影響を与えました。特に黄道12星座や惑星の概念が仏教経典を通じて中国に伝わったと考えられています。
古代中国の占星術
古代中国からあった占星術になると、陰陽道の占星術と直結しているので日本でもなじみ深い星の読み方がされています。
中国では紀元前2000年頃の殷(いん)王朝の甲骨文字で「日食」や「新星」に関する記述が見られます。このころにはすでに六十干支(壬申や戊辰など)を使って月日を著していて、紀元前1100年代には日本でもおなじみの「四柱推命(しちゅうすいめい)」がありました。
紀元前600年後半に成立したとされる歴史書『書経(しょきょう)』では、古代中国の聖人・舜(しゅん)が北斗七星を観察して規則性を見出したことが書かれています。天体の動きは王朝や支配者の運命に影を与えるとされ、漢王朝の時代(紀元前206年〜西暦220年)に、公式に体系が確立されたようです。
古代中国の「天」
中国占星術は中国哲学とも密接に関係しています。古代中国人にとって「天(てん)」とはあらゆる存在の源で、大地にある全てのものは「天」の一部でした。
『漢書(かんじょ)』(西暦75~88年頃成立)の「郊祀志(こうしし)」に「王たる者は父たる天に仕え、自らを子孫とした」とあるように、徳のある人は天を父のように敬っていました。古代の支配者に必要とされていたのは、天の意思(天命)を知る力でした。
天は人々を見守るだけでなく、時にその野望を聞き届けて満たしてくれる、あるいは怒りにより病気や天災・飢餓などの災をもたらすものでもあります。
「天」と「道」
老子(ろうし)(紀元前571~前470年頃)が祖となった古代中国の宗教「道教(どうきょう)」の根幹である「道(タオ)」はほぼ「天(てん)」と同じものです。
紀元前100年代の思想書『淮南子(えなんじ)』では、様々な自然現象や天体が人間世界のように、天上世界にもあると考えられていました。四季は天の役人で、太陽や月は天の使者。さらに天の方角は天の長官にあたります。
例えば東は生産・工作の長官「田」、南は軍事長官「司馬」、西は裁判長「理」、北は土木工事の長官「司空」、中央は「都」の長官といった具合です。さらに、北極星を中心に空を三つに分けた区間を「三垣(さんえん)」といい、それぞれ神々の城や館でした。
つまり、この地上の物質世界を天上に投影していて、「宇宙の意思=天命」をより具体的に知ることができます。そして「天命を知る者」として支配力を高めることができました。これはギリシャ神話におけるマクロ・コスモス(大宇宙)とミクロ・コスモス(小宇宙=人体)の概念と似ています。
五行説との結びつき
陰陽師でおなじみの「木・火・土・金・水」の五行思想ですが、中国の思想ではこの五つの要素が宇宙の基本原理とされています。「木星・火星・土星・金星・水星」の5惑星の名称もここから来ています。むしろこの惑星の呼び方から五行説の要素が生まれたとする学者もいるようです。

五行説が初めて記録に登場するのは『書経』からですが、これ以前は火星を蛍惑(けいわく)、木星を歳星(さいせい)という風にそれぞれの惑星を現在と違う名前で呼んでいました。これは吾妻鏡でもおなじみの名称ですね。
それから個人的には火星(マーズ)は戦争・木星(ジュピター)は成長など、西洋占星術で使われる5惑星も同じような意味づけがされているのが面白いです。これは偶然なのか、それとも西洋(インド)占星術の影響後なのか……はっきりとはわかりませんが。
この5惑星に「太陽(日)」と「月」を加えたものを「七曜」といいます。月曜日、火曜日などの七つの「曜」です。古代中国の占星術は現代の日本の暦にもしっかりと受け継がれているんですね。
惑星・恒星以外の星
そして西洋やインドの占星術と異なる特徴として新星や彗星の出現も重要な前兆とされています。
日本の陰陽師も彗星や超新星爆発に注目していました。「変わらないこと」が良い事で、計算から算出できる日食や月食は必ずしも凶兆というわけではありません。しかし予測が不可能な彗星や新星の出現は不吉な前兆とされています。
二十八宿と十二次
中国占星術の独自システムに二十八宿(にじゅうはっしゅく)と十二次(じゅうにじ)があります。二十八宿の起源はとても古く、いつ発生したのかはわかりません。
二十八宿とは、月の公転を28分割したもので、それぞれが特定の星座や動物に対応しています。インド占星術のナクシャトラに似ていますが、インド占星術とは別に発展したものとされています。

それから十二次とは、春秋時代(紀元前770年~前453年)時代の書物『左伝(さでん)』や『国語(こくご)』に書かれた、木星の運行を元にした暦です。空を12等分したもので、それぞれの区画に十二支が当てはめられています。
木星はほぼ1年で次の区間へ移動するので、木星の位置によってそれがどの干支の年なのか知ることができます。木星は歳を知ることができる星なので「歳星」と呼ばれました。
木星を中心とする見方は、木星がバビロニア占星術では最高神であるマルドック、西洋占星術ではローマ神話の最高神ジュピターになぞらえられているのと通ずるものがありますね。
それから中国占星術では北斗七星が十二次や二十八宿のどこにあるかで暦の各月を決めていました。これは日本でも北斗七星の化身である妙見菩薩を祀る「妙見信仰」にも通ずるのではないでしょうか。
太陰太陽暦
日本の暦でおなじみの太陰太陽暦(たいいんたいようれき)は中国で発明された暦です。原型となる暦は殷(いん)の時代(紀元前16世紀頃~紀元前1046年)には確立していたようです。
高度な計算法が成立したのは紀元前600年代ごろとされているようですが、面白いことに西洋天文学による暦の計算も同時期に発生し、1年の長さもほぼユリウス暦(紀元前45年に制定)と同じでした。
アスペクト
西洋占星術ではホロスコープ上の星の位置の角度で運勢を占う「アスペクト」があります。中国占星術も似たような概念があります。
二つの惑星がピッタリ重なっていると「合」、反対側にいると「衝」といいます。
西洋占星術ではぴったり重なっていると「コンジャクション」と言ってそれぞれの星の性質を増幅し合う関係となり、正反対にいると「オポジション」といって互いに悪影響を与えあう関係となります。
宿曜占星術
仏教が中国に伝わったのは、紀元後57年~75年ごろとされています。その時に『宿曜経(すくようきょう)』などのインド占星術の手法を記した経典が伝わり、中国占星術と融合しました。つまり生まれた瞬間の星の位置で一生の運命を予言するものとなります。
この『宿曜経』の占星術と中国占星術が融合した占術を『宿曜道』といい、空海と共に密教の一分野として平安時代の日本に持ち込まれました。これを簡略化したのが「宿曜占星術」です。
日本の家紋にある「九曜紋」もこの占術から取られた図案です。鎌倉時代でこの九曜紋を使っている家が、妙見信仰を強く持っていた千葉氏というのも面白いですね。
六壬式
陰陽道の直接に関係のある占星術「六壬式」では、黄道12星座に当たる星座を十二支に当てはめ「月将(げっしょう)」と呼びます。
ホロスコープに当たる「式盤」は、天盤と呼ばれる円形の盤と地盤と呼ばれる方形の盤を組み合わせたものです。これは天は丸く、地は四角いという「天円地方」という古代中国の宇宙観に基づいたものです。
西洋の丸いホロスコープとインドの四角いホロスコープの合体みたいで面白いですね。
大まかな占術の流れはウィキペディアにもあるので割愛しますが、超複雑すぎて廃れてきてしまっているようですね。悲しい。
日本には生まれた時間を大切にする文化があったのかもしれない
さて、古代バビロニアから始まった、4千年、8千Kmをこえる旅を終えて、鎌倉時代の日本にやってきました。思い出してください、ここは日本文化メディアです。
陰陽師がどんな占星術を使ってたかは今はわかってはいないけど、その大本にあるのは西洋占星術で間違いないようです。
占星術好きの人は、自分が生まれた時間を把握しているかと思いますが、それは中世の人も同じ……という可能性もあったんじゃないでしょうか。
江戸時代に作られた『薄草子口決(うすぞうしくけつ)』という真言宗の研究書があります。その中に「十二神将は12の時間の夜叉である」というようなことが書かれています。
そして鎌倉時代に作られた、いくつかの十二神将を調べると、作り始めた時間の干支と、十二神将の干支が対応していることが判っています。寅神を作り始めたのは寅の刻、丑神を作り始めたのは丑の刻といった感じです。中には亥神と伝承されているけど作り始めは卯刻というパターンもあります。
鎌倉時代に作られた十二神将の代表「曹源寺(そうげんじ)の木造十二神将立像」はその作られた意図や経緯が謎とされていました。
▼「木造十二神将立像」(真ん中の像が巳神)
しかし近年、一番大きくて立派な「巳神」から作られたこと、曹源寺は鎌倉幕府3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)が生まれる時に関わりがあること、そして実朝が巳刻生まれであることから、実朝が関係していることは明らかで、もしかしたら巳神の姿は実朝がモデルかも!? なんて言われています。
『薄草子口決』は江戸時代の書物ですが、その概念はかなり昔から日本に浸透していたことが考えられます。
前近代の日本文化では誕生日を祝う文化はなく、みんな一緒に1月1日に歳を取りました。しかし誕生刻を大切にしていた文化があったのかもしれません。
もしかしたら公に記録されていないだけで、個人個人では誕生日を把握していたかも!? だって占星術には生まれた年・日・時刻が不可欠ですからね!
『吾妻鏡』や貴族の日記にも、年の干支・日の干支、そして何かしらあったらその時刻まで書かれているのは、占いに必要だったからと言えます。
現代では陰陽師による占星術が廃れても、その原型の原型の原型である西洋占星術が今も人気なのも、なかなか歴史を感じますね。
アイキャッチ画像
寺島良安 『和漢三才図会』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
山下克明『平安時代陰陽道史研究』(思文閣出版)
近藤二郎『わかってきた星座神話の起源――エジプト・ナイルの星座』(誠文堂新光社)
村上幹智雄―ミチユウ―『一番わかりやすい はじめてのインド占星術』(日本文芸社)
橋本敬造『中国占星術の世界』(東方書店)
奧健夫『曹源寺十二神将像小考』(『Museum』東京国立博物館)

