前回、伏見稲荷大社をお訪ねして...。その後に夏休み文楽特別公演の発表があり、織太夫さんに配役されたのが、なんと『小鍛冶(こかじ)』の稲荷明神。「これは、大神のお導き」との織太夫さんの強い希望で、再び伏見稲荷大社へ。そして、『小鍛冶』とゆかりの深い稲荷山へお参りすることとなったのです。
▼前回の伏見稲荷大社へお参りした記事はコチラ
竹本織太夫『義経千本桜』ゆかりの京都・伏見稲荷大社へ。今につづく、ご縁と祈り【文楽のすゝめ 四季オリオリ】第10回
稲荷山をひたすら登る!
伏見稲荷大社は、稲荷大神が鎮座した稲荷山全体が信仰の対象となっています。『小鍛冶』とゆかりがあるのは、その稲荷山にある「長者社神蹟(ちょうじゃやしろしんせき)・御劔社(みつるぎしゃ)」です。事前に神職にお聞きしたところ、坂道になっているので、行きは40分ぐらいはかかるだろうとのこと。水分補給をしながら、無理なく登ってくださいねとアドバイスをいただきました。
山中には数え切れないほどのお塚が群在し、参道には数千もの朱の鳥居が建ち並んでいます。稲荷山に登り、神蹟やお塚を巡拝することを「お山する」といい、古くから参詣の場所として親しまれてきたそうです。
織太夫さんは「普段、運動不足なんですよ」とおっしゃっていましたが、颯爽と足取り軽く登っていかれます。同行していただいた神職が、驚いておられました。そして、息切れをされていない!? 病院の検査で息を吐き出した時、アスリート並の肺活量だったそう。753人収容の国立文楽劇場では、マイクを使われることはありません。生の声で客席にことばを届ける訓練を積まれている、太夫の底力を見た気がしました。
生粋の大阪人・織太夫さんならではの視点
参道を進んで行くと、「これは花外楼(かがいろう)ですね」と織太夫さんが指さした先には、文字が書かれた石碑が。「反対側にあるのは、柴藤(しばとう)。なるほど、左右に大阪の名店が並んでいるのか」。さっぱりわからなくてお聞きすると、それぞれ大阪に古くからある料亭とうなぎ料理店の名前なのだそうです。大阪・西心斎橋に生まれ、祖父(二代目道八)はフグの調理師免許をお持ちで、ご両親はご実家で割烹を営まれていた織太夫さんだから、すぐに気づかれるのだと感心しました。
絶景ポイントでしばしの休憩
さらに登っていくと、見晴らしの良い広場に出ました。ここは「四ッ辻」と呼ばれていて、参道屈指の絶景スポットとして知られています。京都市内が一望できる風景を、他の参詣者たちも休憩をしながら眺めていました。織太夫さんが立たれた場所は、ゴツゴツとした盛り上がった岩があるのが印象的です。稲荷山の岩盤は主に砂や泥が固まった砂岩や泥岩で構成されているそうで、四ッ辻の岩はチャートと呼ばれる層状の堆積岩(たいせきがん)なのだと、神職に教えていただきました。
親子の狛犬など興味深いスポットが色々
四ッ辻は、文字通り4方向からの道が交わる交差点のような場所です。登ってきた方向からまっすぐの道を進んでいくと、やや下りになっていて、周囲は木々が生い茂りひんやりとした空気に。神蹟が集まっている場所は、神秘的な雰囲気が漂っていました。狛犬の足元をよく見ると、小さな狛犬の姿が! 珍しい親子の狛犬とも遭遇しました!
『小鍛冶』を作曲した初代鶴澤道八は、ユニークな人だった
ようやく、今回の稲荷山参詣のもう一つの目的地、薬力社(やくりきしゃ)の滝へ。薬力大神をお祀りしているすぐそばの、細い通路を抜けた先に、水が勢いよく流れ落ちていました。ここは、稲荷山の修行の場です。前回の取材でも織太夫さんからお聞きしたのですが、実のお祖父様である二代目鶴澤道八は、ここで修行ともとれる経験をされました。
「師匠である初代鶴澤道八※1が『小鍛冶』の作曲を行ったのですが、ここで一晩祝詞(のりと)をあげたそうなんです。今日のような初夏の気候ではなく、暮れの寒い日だったのですが、同行した祖父は初代道八から言われて、滝に打たれたそうですよ」。門弟の鶴澤清介さんいわく、お祖父様はとても温厚な方だったそうです。「全く、理不尽ですよね」と織太夫さん。寒空での滝行の胸中はいかばかりだったのか…。
初代はユニークなエピソードを数多く残されているそうです。「『小鍛冶』のなかでは、鎚(つち)で鉄を打ち込む音が、曲の一部として組み込まれているのが特徴的です。初代は研究のために祖父に『外国のレコードで鍛冶屋の鎚音を扱ったのを買(こ)うてこい』と言って、祖父はやっと神戸の元町でそれを見つけてきて、初代はじっとそれを聞き惚れていたそうです」
『小鍛冶』にまつわる二代目鶴澤道八の芸談
初代の『小鍛冶』に対する熱い思いを受けて、そばで献身的にサポートをした二代目鶴澤道八。当時は70代の師匠の元で、内弟子修業中の身でした。まだ20代で文楽の世界で駆け出しだった時期を振り返る、貴重な芸談が残されています。
おそらく昭和13年の暮だったと思います。京都・伏見の御劔稲荷にまずお詣りしたい。水垢離(みずごり)をとって、身を清めてからや。お前ついといでと、いい出しはりました。内弟子だった私には、師匠のいわれることは、即至上命令であって、否応なしでした。
滝壺を前に「わしが祝詞をあげるよって、お前が滝にうたれるのや」という師匠を勝手やとは思いましたが、老境の方です。覚悟を決め、代わりに滝にうたれました。師匠は清々しい白装束に身を改め、滝壺の前に座り、朗々と祝詞をあげられます。寒さに震えあがりながら、それでも一晩たっぷりお籠りしました。
それからというものは、もう一心不乱ー高名な刀鍛冶で、鑑定にかけたら日本屈指の方、といわれる本阿弥さん(先代)を訪れ、仕事場を丹念に見せてもらったはずです。ある時など、外国のレコードで鍛冶屋の鎚音を扱ったのを、買うてこいといわれ、神戸元町でやっと見つけてきましたら、じっと聞きほれていました。でも残念ながら、余り役には立たなかったようです。新薄雪(しんうすゆき)※2の鍛冶屋も参考にされましたが、曲そのものというより、合の曲(あいのて)をヒントにして、曲を完成されたのではないでしょうか。
宗近が稲荷明神の力をかり、刀を打つ所、ここが何といっても、一番の聞き所、見所でしょう。演者が様々の工夫をこらし、刀をうつ律動的な演奏と、人形の心意気がピタリと合えば、もうシメタものです。
「秋更けて夜寒の…」と胡弓(こきゅう)が入ります。初演の時に、野沢松之輔※3さんがこの調子に苦心され、ユニークな常識を破ったものを創られました。何かの折にこの話がでて、名前をつけるなら、と少し考えてから「強いてつけるなら小狐調子とでもしましょうか」、「それはええやないか」と師匠は大喜びでした。
(昭和56年4月朝日座文楽公演筋書より)
(※3)義太夫節の三味線方。『曾根崎心中』などの作曲も行った。
念願の御劔社に到着!
薬力の滝からさらに登ると、やっと御劔社に着きました。どこか静謐な印象を受ける神蹟です。『小鍛冶』で稲荷明神を語る織太夫さんは、一心に祈られていました。
『小鍛冶』は、このような物語です
京の刀鍛冶の名人・小鍛冶宗近(むねちか)が、剣を作れとの勅命を受けます。実力が伯仲した名人と交互に鎚(つち)を打てば望む剣ができるけれども、そんな人は見当たりません。そこで稲荷明神に助けを求めて祈ると、どこからか気高い老人が現れて、力になろうと告げます。実は老人は稲荷明神の化身だったのです。やがて宗近はその力を借りて、名剣「小狐丸(こぎつねまる)」を鍛え上げます。
物語の誕生を感じる場所
御劔社は稲荷山のなかで、古くから神が宿る場所として、守られてきました。特に刀鍛冶の神様、ものづくりの神様として信仰されています。社の上部には、一説に雷石(かみなりいし)と呼ばれる石が。高さは3m近くもあり、近くで見ると迫力があります。御劔社の社殿内部には、外からはっきりと見ることはできませんが、劔石(つるぎいし)が祀られています。
神蹟の左には、焼刃(やいば)の水と呼ぶ井戸がありました。稲荷明神の助けを借りて名剣・小狐丸を鍛える時に、焼きいれ※4で井戸の水を使ったという伝説の場所。物語の場面とオーバーラップしてきます。
織太夫さんの家で守られてきた掛け軸
ご自身のご先祖や芸脈に連なる名人たちとゆかりのある『小鍛冶』。ご自宅で大切にお守りされてきた掛け軸を、紹介していただきました。それは、初代鶴澤道八直筆の絵と、謡曲『小鍛冶』の謡本の一節がしたためられたもの。昭和15年に作成された80年以上も前の掛け軸ですが、まるで織太夫さんの成功を祈る気持ちが宿っているようです。
取材・文/瓦谷登貴子
取材協力/伏見稲荷大社
竹本織太夫さん出演情報
2025年大阪・関西万博開催記念
夏休み文楽特別公演
第3部サマーレイトショー Welcom to Bunraku に出演。
■公演期間:2025年7月19日(土)~2025年8月12日(火)
※7月24日(水)、8月4日(月)は休演 ※7月25日(金)第1部は貸切
■開演時間:第1部 午前11時(12時35分終演予定) 第2部 午後1時30分(午後5時35分終演予定) 第3部 午後6時15分(午後8時30分終演予定)
■観劇料:第1部5000円(学生2500円 子ども2000円)、第2部6700円(学生4600円)、第3部各6000円(学生4200円)
■会場:国立文楽劇場(OsakaMetoro・近鉄「日本橋」駅下車7号出口より徒歩約1分)
公演の詳細な内容:日本芸術文化振興会
https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/2025summer/
チケットの申し込み:国立劇場チケットセンター
https://ticket.ntj.jac.go.jp/
Spotifypodcast『文楽のすゝめ オリもオリとて』
X文楽のすゝめ official