「善玉」「悪玉」の言葉を生んだヒット作
『心学早染艸』は初版で7000部、再版で3000部、累計1万部に及んだとされています。7000部は京伝の弟の山東京山(さんとう・きょうざん)の証言。3000部は近世文学研究者で、大河ドラマ『べらぼう』の戯作考証を担当している棚橋正博の推定にもとづきます。
当時の草双紙の部数は250部くらいでしたから(三田評論オンライン2025年1月8日)、1万部は桁が2つ違います。異例の大ベストセラーだったといって良いでしょう。
初版の版元は大和田安兵衛、再版は榎本屋吉兵衛でした。ともに大伝馬町の地本問屋です。さらに蔦屋重三郎に版権が移るのですが、ここで問題が起き、耕書堂からは刊行されませんでした(何が問題だったかは後述)
また、いま私たちが“善玉菌・悪玉菌”などで耳にする「善玉」「悪玉」という言葉は、じつは『心学早染艸』に登場したことに由来します。ただし、ここでは細菌のことではなく、人の「良心」と「邪心」を指していました。善玉に守られていた若者の体に悪玉が入り込み人生が狂う——そんな寓話を描いているのです。
「悪玉」に侵食された商家の御曹司が転落の一途をたどり…
国立国会図書館などに残っている原本で、ストーリーを「絵解き」しましょう。
(1)日本橋の豪商の家に跡継ぎが誕生しました。名は理太郎(りたろう)。出産を見つめていた天帝(写真下の右の人物)は利発な子に育つように「悪玉」が侵入するのを防ぎ、「善玉」だけを体内に送り込みます。天帝に追い出された悪玉たちは不満を募らせ、理太郎の心を侵食し「悪」で満たすチャンスを伺います。

(2)理太郎はスクスクと育ち16歳で元服。働き者と評判の息子でした。ところが18歳のある日、理太郎がうたた寝している隙を狙って悪玉たちが善玉を捕らえ、代わりに体内へ忍び込みます。

(3)悪玉に支配された途端、理太郎は吉原へ足を向けます。贔屓(ひいき)の女郎と床に就くと、とろけるような気分。すっかり味をしめ、家にも帰らなくなってしまいます。その間、善玉は「災」の文字に縛りつけられ、身動きとれません。


(4)悪玉が油断すると理太郎は一瞬我にかえり、「私はなぜ、こんな所にいるんだ?」と戸惑います。しかし家に帰ろうとすると、すぐに悪玉がやって来て引き戻します。善玉が抵抗しても、悪玉の方が数に勝るため敵いません。

(5)歯止めが効かなくなった理太郎は吉原遊びに加えて大酒、博打と絵に描いたように転落の一途をたどり、親から勘当されます。ついにはカネに困って実家に盗みに入り、可愛がっていた犬に吠えられる有様。

(6)盗賊に成り果てた理太郎を救ったのが、賢人といわれる「道理先生」でした。師の導きによって善玉が力を得て、悪玉を理太郎から追い払います。改心した理太郎は律儀者に戻り親孝行したということでした。めでたし、めでたし——。

…といいたいところですが、道理先生はもう1人、「この本の作者(京伝)も不埒な男だそうな。改心させにゃなるまい」とボヤき、物語は終わります。
京伝らしくない理屈っぽい教訓
『心学早染艸』は「それまでの自分の作品と決定的に異なる」と、京伝自身が「序文」で語っています。
画艸紙(えぞうし)は理屈臭きを嫌ふといえども、
今その理屈臭きをもって一ト趣向となし、三冊に述(のべ)て幼童に授(さず)く
注)漢数字の「一」とカタカナの「ト」で「ひとつの」と読む
絵草紙は理屈っぽい内容を嫌うが、この本は道理がひとつの趣向で、それを幼い童たちに授けたい——子どもたちに読んで欲しい“教育書”だというのです。

一方、同じ年に出した『京伝憂世之酔醒(きょうでんうきよのよいざめ)』では、
画艸紙は理屈臭きが故に貴(たっと)からず、茶なるをもって貴し
「茶なる」とは茶化すこと、からかうこと。絵双紙は面白おかしく、いい加減だからこそ価値があると、『心学早染艸』とまったく逆のことを言っています。同じ年に発表した2作で正反対の主張をするところに、京伝の「ブレ」が表れています。そして、ここから彼の作風の変化が始まったと考えられます。
この「ブレ」の背景には、寛政の改革がありました。寛政2年は松平定信の主導による社会変革の真っただ中で、風紀粛清や風刺本の取り締まりが始まった時期です。前年には朋誠堂喜三二や恋川春町の黄表紙が発禁となり、春町は原因不明の死を遂げています。京伝も、このまま社会を茶化す作風を書き続けていては破滅しかねない危機を感じとり、理屈っぽい教訓を前面に打ち出した『心学早染艸』を書いたのです。
物語で理太郎を救う「道理先生」も、儒教や仏教をもとに広まった庶民教育「心学」の第一人者・中沢道二という実在の人物をモデルとしています。中沢は松平定信と交流を持ち、かつ長谷川平蔵が創設した無宿人の自立支援施設「人足寄場」の教諭も務めた、時の政権のブレーン。こうした人物を登場させることで、寛政の改革の骨子である学問奨励に「順応しているんですよ」と強調したかったのでしょう。そして京伝の狙いは見事に的中し『心学早染艸』は大流行したと、『伊波伝毛乃記』(いわでものき/曲亭馬琴著)は記しています。
世俗、これを善魂悪魂の草紙といへり、この事人口に膾炙し(かいしゃ/よく知られ)、
人の非義を行ふことあれば、これを悪玉といへり、この諺流行せり/伊波伝毛乃記
蔦重のいいなりでは幕府から処罰の対象になるだけ
しかし、京伝のこうした変化に、蔦屋重三郎は理解を示せなかったかもしれません。当時すでに朋誠堂喜三二と恋川春町は筆を折り、黄表紙を書ける有力な作家は京伝だけでした。その京伝が、世相をおちょくって不謹慎な笑いを誘う「茶なるをもって貴し」の心意気を捨て、為政者に迎合する姿勢を見せれば、蔦重にとっては大きな打撃となりかねなかったからです。
寛政3(1791)年、おそらく渋る京伝を説得し、蔦重は京伝著の『仕懸文庫』(しかけぶんこ)、『娼妓絹籭』(しょうぎきぬぶるい)、『青楼昼之世界錦之裏』(せいろうひるのせかいにしきのうら)の刊行にこぎつけますが、3冊とも吉原を舞台とした好色本と見なされ、発禁処分を受けます。京伝は手鎖50日の刑(鉄製の手錠をかけて自宅謹慎)、蔦重は身上半減(身上半減は財産の半分没収という説と、年収の半分という説あり)という実刑も受けました。蔦重の依頼通りに書いたのに結果が実刑では、心境に変化が生じても不思議ではないでしょう。
耕書堂からの『心学早染艸』再版を拒否
黄表紙の制作は停滞しました。そこで蔦重は『心学早染艸』の板木(ばんぎ/印刷用の木版)を手に入れ、新たな版での再版を計画。膠着状態にあった出版事情を打開しようと試みます。しかし、板木は何度も刷ったため摩耗がひどかったため、板木を作り直すための原稿を新規に書き直して欲しいと京伝に依頼します。京伝も承諾し、草稿は寛政7〜8(1795〜96)年頃に完成したとみられます。また、寛政5(1793)年には善玉・悪玉をシリーズ化した『堪忍袋緒〆善玉』なども書いています。

その渦中に問題が起きました。『心学早染艸』の悪玉をモチーフとした「悪玉提灯」をぶら下げて江戸市中を荒らす若者の集団が横行し、奉行所が規制に乗り出したのです。そんな時に再版しては、京伝は「悪玉の元」を作った張本人としてまた懲罰の対象にされかねない——ついに京伝は、蔦重に再版を許さない決断を下します。その経緯が、東京都立中央図書館に所蔵された再版の「草稿」に残っています。

恩人への背信だったかもしれません。2人はその後も共同で本を出しますが、わずか数年後の寛政9(1797)年、蔦重がこの世を去り関係は終焉を迎えることになるのです。
数々のヒット作を世に送り出した名コンビ――蔦重と京伝。しかし『心学早染艸』は、その強固なつながりに影を落としました。それはまた、時代の荒波と権力の重圧のはざまで揺れ動いた「文化の担い手たち」の姿を、映し出しているといえるかもしれません。
参考資料: 『山東京伝の黄表紙を読む』棚橋正博 ぺりかん社、『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』佐藤至子著 ミネルヴァ書房、『江戸の出版統制』佐藤至子 吉川弘文館
アイキャッチ画像:「悪玉」たちが車座を組み、理太郎を思うままにうごかそうと悪企みしている場面。国立国会図書館所蔵
(1)〜(5)国立国会図書館所蔵
(6)〜(7)東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

