死にゆく運命で敵にかけた言葉
ある武将に、一族滅亡の危機が迫っていました。夜の暗闇のなか、城は敵が取り囲んでいて、落城目前という状態。この時、一番乗りにと勇んで櫓(やぐら)に取り付く入江長兵衛という男がいました。櫓の狭間(はざま・防御用の窓)の板を細めに開けて見下ろした武将は、この男を見つけます。実は長兵衛とは古くからの知り合いだったのです。
敵味方となった今、攻撃するのが自然な行動ですが、武将はしませんでした。そして、長兵衛に声をかけました。「我は若いときより戦場に攻めれば一番乗り、退却の時は殿(しんがり・軍隊の最後尾)をつとめて、武名をあげることを一番に考えてきた。けれども、その結果はどうだ。この城も我の命も今日限り。最期の言葉と思って聞いて欲しい」
続けてこう語りかけました。
我が身を見るが良い。貴殿もまた我のごとくなるであろう。武士をやめ、安穏とした一生を送られよ。
この言葉を残したのは…。
明智光秀の娘婿、明智秀満(ひでみつ)です。
知将が残したエピソードとは
一番乗りをなしとげたとしても、武士とは空しいだけだと言う秀満の言葉は、長兵衛の心を捉えました。そして秀満からもらった黄金3百両をもとに商人となり、後に財をなしたそうです。秀満は城主として坂本城と運命を共にし、生涯を終えました。
秀満は、「左馬助の湖水渡り」でも知られる武将です。
山崎の合戦で光秀敗北の知らせを受けた秀満は、安土城から坂本城へと引き上げようとします。ところが、大津の打出(うちで)の浜で敵に阻まれてしまいます。窮地の秀満は、乗馬したまま湖へ飛び込み、馬で湖と浜辺の陸地を走り抜けたというのです。
「本能寺の変」の計画も、光秀からまず一番に知らされて、秀満は思いとどまるように進言したとも伝えられています。もしも、光秀が娘婿の意見を聞いていたら、歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
参考書籍:『戦国武将名言録』PHP研究所、『武将感状記』、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科全集』平凡社
アイキャッチ:一英斎芳艶『瓢軍談五十四場 三十八 右馬之助馬をもつて湖水を渡す』国立国会図書館デジタルコレクション

