【ポイント1】永禄5年(1562)、23歳、秀吉のスカウトで配下に

秀長の生涯のポイント1つ目は永禄5年、兄の秀吉に、織田信長(おだのぶなが)に仕えるようスカウトされた23歳のとき。
もっとも、戦国時代に農民に生まれた秀吉や秀長の若い頃は、同時代の記録がなく、秀長が初めて良質な史料に登場するのは、35歳のときです。それ以前の出来事については、後の時代に書かれたものを参考にせざるを得ません。年表も35歳までは、前野家文書の『武功夜話(ぶこうやわ)』や『太閤記』など、江戸時代に書かれたものも参考にして作成しています。
さて、若い頃の秀吉は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、秀長は小一郎(こいちろう)と称していました。そこで秀長を、しばらく小一郎と呼びます。3歳上の兄・秀吉は少年の頃に家を飛び出し、唯一の男手である小一郎は、家族を養うため、日々田畑を耕していました。そこへ織田家の足軽になった秀吉がひょっこり帰ってきて、小一郎を織田家にスカウトします。といっても、最底辺に近い身分でした。小一郎は承知し、兄とともに織田家の一員となります。これが秀吉を助ける小一郎の、「補佐役」人生のスタートでした。
【ポイント2】天正元年(1573)、34歳、小谷攻略で有力部将へ

ポイントの2つ目は天正元年、北近江(現、滋賀県北部)の小谷(おだに)城を攻略し、浅井長政(あざいながまさ)を滅ぼした34歳のとき。
秀吉によるスカウトから11年が経過し、小一郎は秀吉を助ける武将へと成長していました。小一郎が織田家に仕え始めた頃、信長は斎藤龍興(さいとうたつおき)の美濃(現、岐阜県)攻めに着手しています。美濃攻めにおいて秀吉は手柄を立て、信長に認められました。小一郎は裏方として、秀吉配下をとりまとめ、雑務を担っていたと思われます。
『武功夜話』によると、信長が秀吉に与力(よりき。信長配下ですが、一時的に秀吉の命令に従い協力する者)としてつけた蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)や前野長康(まえのながやす)らは、秀吉よりも小一郎の誠実な人柄に心ひかれた、とあります。
美濃を攻略した信長は岐阜城を本拠とし、越前(現、福井県)の朝倉(あさくら)氏や北近江の浅井氏と敵対。秀吉不在時には小一郎が代わりに、最前線の砦を守りました。また新たに与力となった元斎藤家家臣の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と協力して、浅井家重臣の宮部継潤(みやべけいじゅん)を味方につけたともいいます。小谷城攻めの手柄から、秀吉は長浜城を預かる城持ち大名となり、小一郎も家臣を持つ身分となりました。
翌年、小一郎は『信長公記(しんちょうこうき)』に、信長の有力部将として記録されます。
【ポイント3】天正5年(1577)、38歳、別働隊で但馬攻め

ポイントの3つ目は天正5年、但馬国(現、兵庫県北部)平定への着手です。
同年、信長より秀吉は播磨国(現、兵庫県南部)平定を命じられました。中国攻めの始まりです。このとき、小一郎は秀吉の別働隊として、但馬の竹田城を攻略。千人規模の軍勢を単独で指揮する、秀吉の分身ともいえる立場となっていました。
中国地方の覇者・毛利(もうり)氏の工作もあって、播磨の地元勢力が寝返り、秀吉が別所長治(べっしょながはる)の三木城攻めを始めると、信長の命令で小一郎も但馬より援軍に駆けつけています。兵糧攻めの末、天正8年(1580)、三木城が落城。秀吉は一気に播磨を平定しました。
同年、小一郎も但馬を平定し、但馬国内で10万5,000石を獲得。織田家中における指折りの部将となります。翌年、秀吉は毛利の部将・吉川経家(きっかわつねいえ)が守る鳥取城を、やはり兵糧攻めで攻略。毛利の勢力を、じわじわと西へ後退させていきました。
【ポイント4】天正11年(1583)、44歳、賤ヶ岳の粘りで天下取り

ポイントの4つ目は天正11年、秀吉の天下取りを決定的にした、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦での奮闘です。
鳥取城を攻略した翌年の天正10年、秀吉は3万の軍勢で毛利方の備中高松城を水攻め。小一郎は5,000を率いていました。これに対し5万の毛利輝元軍が来援、秀吉は毛利を討つ好機ととらえ、信長の出馬をあおぎます。了承した信長が西に向かう途中、京都で起きたのが本能寺の変でした。凶変を知った秀吉は毛利と講和すると、数日間で上方に戻る「中国大返し」を果たし、信長を襲った明智光秀を討ちます。主君の仇をとった秀吉の発言力は織田家中で強まり、後継者を決める清須会議をリード。そんな秀吉と対立したのが、織田家筆頭家老の柴田勝家でした。
翌天正11年、秀吉と柴田両軍が近江賤ヶ岳でにらみ合う中、伊勢や美濃でも反秀吉の挙兵があり、秀吉が賤ヶ岳を小一郎に任せて美濃に向かうと、柴田軍が猛攻をかけてきます。味方が次々に破られる中、小一郎は懸命に耐え、秀吉軍を待ちました。秀吉は驚異的なスピードで駆けつける「美濃大返し」をやってのけて、形勢逆転。柴田軍を破り、勝家を滅ぼします。結果、秀吉の天下取りが決定的となりました。それをもたらしたのが、秀吉軍の帰りを待ち続けた、小一郎の粘りです。
【ポイント5】天正14年(1586)、47歳、豊臣家の表向きを担当

ポイントの5つ目は、秀吉が天下人になった後、秀長が、豊臣家と諸大名家とを融和させる「表向き」の役割をにないます。
賤ヶ岳の戦いの翌年の天正12年、信長の次男・信雄(のぶかつ)が徳川家康と組んで秀吉に挑む小牧・長久手の戦いが起こりますが、政治的に圧倒的優位に立つ秀吉にはかないません。同年、小一郎は名を羽柴美濃守秀長(はしばみののかみひでなが)に改めます。
翌年、秀吉は朝廷の最高職位である関白に就任。名実ともに天下人となりました。また、天皇から豊臣姓を賜ります。秀長の立場は天下人となった兄の補佐役で、具体的には諸大名が豊臣家に親しみを持てるよう、融和に努めることでした。天正14年、豊後(現、大分県南部)の大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪れた際、秀長は歓待し、「豊臣家の表向きは私が承っております。何事もご相談ください」と気さくに伝え、宗麟を感激させます。
この頃、秀長は大和郡山(やまとこおりやま)城を居城とする100万石の大大名となっており、「大和大納言」と称されました。その後も諸大名と良好な関係を築いた秀長ですが、病がちとなり、天正19年1月、幼い娘の婚礼を見届けて逝去します。享年52。
以上が秀長の生涯のアウトラインですが、いかがでしたでしょうか。年表のすべては下に掲載します。また、もう少し詳しく知りたくなった方は、和樂webの関連記事もぜひ、ご一読ください。



