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修験(しゅげん)の山をつつむ桜
「一目千本(ひとめせんぼん)」とは吉野山の桜の盛りを表わしたことばだが、何とその桜盛りもただごとではない。下千本(しもせんぼん)、中(なか)千本と咲き上って上(かみ)千本、奥千本と、しだいに標高を上げてゆき、爛漫(らんまん)の桜は咲き終わるまでにひと月の時間を要するという。
私も縁あって何度か吉野山の花を訪ねたことがあるが、かつては中千本の櫻花壇(さくらかだん)という宿に泊めていただき、二階の大広間からまさに一目千本の花盛りを眺めた気分は何年たってもわすれがたい。先人の話によれば、強い谷風に吹き上げられた桜の花びらが泉のように吹き上がってくるのだという。
ところで平安京の人々は吉野の花盛りをどれほど体験できたのだろう。歌人たちの歌をみると、やはり遠くから山の空を眺めて白雲を花咲く梢かと想像したり、麓の桜の花盛りの香りを、吉野の峯の桜の香が麓まで降りてきていると想像してうたっているようだ。
吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓のさとににほふ春風 藤原忠通(ふじわらのただみち)
吉野山みねに波よる白雲とみゆるは花のこずゑなりけり 藤原忠隆(ふじわらのただたか)

京都からの距離はおよそ80キロメートル、大峯山(おおみねやま)の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)の標高は1719メートル。平安京の歌人が仰ぐ吉野山は今日知り得るこうした現状とは全く違うものであった。ここにあげた歌のような花の香を含んで馥郁(ふくいく)とかおる春風や、白雲に幻視する満開の山の桜こそが、ほかならぬ蔵王権現(ざおうごんげん)の坐(いま)す山、修験力をもって平安な日常を守る吉野山なのである。
今日、吉野山の桜は約3万本といわれている。蔵王権現の心にかなう仏花といわれているが、いったいいつ、誰が、これほどまでに吉野を花の山にしたのであろう。吉野山の歴史をたどると、7世紀末に日本独自の修験道を開いたと伝えられる役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)に到達する。大和葛城山(やまとかつらぎやま)に住んで厳しい修行に挑み、通力(つうりき)を得て、前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)などを従え、この鬼を使役(しえき)して、葛城山と大峯山を結ぶ橋を架(か)けたと伝えられる。

小角は金峯山(きんぷせん)に修行の末に蔵王権現を感得し、桜木にその姿を彫りつけ金峯山寺の本尊とした。これによって吉野山は蔵王権現を宗主(そうしゅ)とする修験道信仰の聖地となったのである。あの藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠歌するほどの御利益(ごりやく)を得たのも、この金峯山に繁栄の願いをこめた写経の筒を自ら参詣(さんけい)し埋納(まいのう)したからだといわれている。
吉野山と蔵王信仰が広がるとともに人々はこぞって蔵王権現の形代(かたしろ)のような桜の木を植えて山を荘厳(しょうごん)しようとした。結果、吉野は桜の山となっていったのだ。とはいえ、吉野山に志ある人が自力で登れるようになっていくのは、いつごろからであろう。「百人一首」に大僧正行尊(だいそうじょうぎょうそん)の一首がある。
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 行尊
(山桜よ、そなたは私と一緒に、この生き苦しい世を生きてゆくことを、身に沁〈し〉むものとして慰〈なぐさ〉め合うことができそうだ。静かに耐えて花咲く山桜よ、私の深い孤独の思いを理解してくれるのはそなただけなのだ)

この世を生きるすべての絆(きずな)を断って出家をする人の苦悩はさまざまだ。修験道を修する人の山、吉野の桜はそれらの人の心に特別な思いを抱かせたことだろう。西行はそうした人の一人として桜への思い入れの深さを多くの歌をもって残してくれた。
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき 西行
花にそむ心のいかで残りけむ捨て果ててきと思ふ我身に 西行
第一首では、吉野山に桜の花が咲きはじめるのを目にしてからは、心は身とは別のものとなってしまい、ただ、ただ花のゆくえを追って歩くふしぎな存在になってしまったといい、また第二首では、出家として一切を捨て切ったはずなのになぜであろう、桜の花が咲きはじめると、心はすべて花に捕らわれ、花のほかには何も考えられなくなってしまう、とうたっている。

吉野の花を愛した西行は、奥千本に庵(いおり)をもった。今もその跡が残されている。西行はなぜそれほどまでに桜を愛したのか、理由は語られてはいないが西行自身もその思いを追求して、こんな歌もよまれている。
花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける 西行
(桜の花が咲くのを見ると、何の理由もないのだが、なぜであろう、私の心には苦しいまでの感情が湧き上がってくる)
というのである。この気分というのは何が原因になっているのだろう。出家という行為の前に世間的な絆の一切を断ち切ったつもりだったが、もし、なお断ち切れなかったものがあったとすれば、それはよほどの、心の奥底に匿(しま)い込まれたまま、消すことができない何かが「心のうちぞ苦しかりける」と言わせているのであろう。

こうした人間の思いとはかかわりなく、桜は吉野で繁栄をつづけ爛漫の春を繰りかえしつつ、歌も抒情(じょじょう)もどんどんと歴史の彼方(かなた)へと押しやっていく。江戸中期の俳人、各務支考(かがみしこう)は、「歌書よりも軍書にかなし吉野山」という句を残している。なるほど時代を南北朝期に光を当てれば、まさに『太平記(たいへいき)』の世界。南朝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)はこの吉野山に逃居(とうきょ)して吉野朝を開き、北朝と覇(は)を争い、全国の地方武士団の、機に乗ろうとする勇気を鼓舞(こぶ)することとなった。
吉野を拠点とした武将や公卿(くぎょう)たちは都の春とはちがう吉野の桜をどう眺めていたことだろう。日々が臨戦態勢であった緊張と、不安や絶望の心に、桜はどんな色に映ったことであろう。桜は言葉をもたないが、さまざまな人の思いを呑(の)み込んで、春ごとに満開の花の雲を広げてゆくことであろう。

馬場あき子 歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』。

