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馬場あき子さんが選んだ名歌で知る日本人の美意識
――平安人のこころをとらえた桜花への憧れ
京の都を囲む遠山に霞(かすみ)がかかると、人々はたちまちに桜の咲くまでの日数を思う。ゆきかう風の動きにつけても、寒さ温(ぬく)さの日差しにつけても桜咲く日を心に待つ。今日でも、桜前線の動きが日々のニュースに上ってくるなど、珍しい桜好きの国民性といえるかもしれない。
古代、万葉集の桜は山の花であった。山ふところに、また山の高みに、雲か霞かと思わせるほどに咲き広がる白い山の桜であった。旅人はこの花を遠く眺めて帰路にまた見る日数を数え、庶民は農耕をうながす季節の花とも見、時にはその花どきの短さに、はかない生の営みを重ねて哀れを感じたりもした。
平安京の人々はこんな山の桜を都の花にしたのである。「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」と詠んだのは素性法師(そせいほうし)。都の中央道、朱雀大路(すざくおおじ)の景観である。柳の緑と桜の淡紅色の混在する春。都そのものが錦のように美しく人を酔わせたのである。
朝夕に花待つほどは思ひ寝の夢の中にぞ咲きはじめける 崇徳院
(朝に夕に花の咲くのをひたすら待っているころは、なんと花を思いつつ寝た夜の夢の中で、花は咲きはじめたことよ)
「思ひ寝」という恋のことばでうたわれることによって、咲く花を思う心がぐっと立ちあがってくる。崇徳院(すとくいん)のように高貴な方々はどんな花の盛りを夢に描いていたのであろう。桜を都の花とした人々は身近に見る桜の美を、満開の美とともに、いやそれ以上に散る美しさに酔いしれ、さまざまな思いをそこに加えるようになった。
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける 紀貫之(きのつらゆき)
(桜花がひとしきり散ったあとも、なごりの余波は残っていて、ふうわりと花びらを空に舞い上がらせる。青い空は凪〈な〉いだ海や湖の青の広がり、白い花びらはさざ波の動きである)
まるで彩色された絵画をみるような、あるいは今日のカラー動画の世界だ。
花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡見ゆるまで 宮内卿
(落花を誘うように、比良〈ひら〉の山から吹き下ろす風は花を湖面に散り広げ、その桜の花びらを押し分けて漕〈こ〉)いでゆく船のあとにはくっきりと漕ぎあとがみえるほどだ)
この歌は題詠(だいえい)であるが、情景は絵にかけるほどよく見える。しかも韻律(いんりつ)は強くさわやかで、優雅であるところに特色がある。宮内卿(くないきょう)の母は後白河院の女房安芸(にょうぼうあき)。安芸の父は絵師、巨勢宗茂(こせのむねしげ)であったから、宮内卿の歌にはその影響もあったかもしれない。今日もなお琵琶湖の西岸では桜吹雪が湖面に散り乱れる光景を見ることができる。
山里の桜の景も見ておこう。能因(のういん)法師の歌である。
山里の春の夕暮来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける 能因
(山里の長閑(のどか)な春である。その夕暮れどきに来てみると、折ふし山寺の入相〈いりあい〉の鐘が撞〈つ〉かれる時分。その鐘の音のひびきにつれて桜の花がはらはらと散っているのである)
能因は橘(たちばな)氏、二十六歳ごろ出家。旅を好み諸々を遍歴し、歌を詠んだ。歌人との交わりも広く、歌詠むことをすすめて、まずは「好き給へ」と言ったことが有名になった。好きこそ物の上手というのもここから生まれた警句のひとつ。後世に茶の湯の好みを「数寄」というようになるのも「好き」にはじまるとされている。
さて、都の花となった桜は、歌の世界では「はな」といえば桜をさすほどに、代表的な花になっていった。しかし、桜が山の花であった古代は忘れられたわけではない。その代表が吉野山であり、吉野は花の原点として憧れの地位を保ち続けていた。しかし、吉野山に簡単に上ることはなかなかできない。そこに歌僧西行(さいぎょう)の登場があった。西行は花とともに吉野の山も愛し、そこに庵(いおり)を持つようになり、今日にその遺構を残している。
私は吉野の花に何度か会いに行ったことがある。今はなくなった桜花壇という宿所に泊まることが多かった。ある時、定家の息子為家(ためいえ)の歌に次の歌を見つけて、あの桜花壇の二階の大広間から見た絶景のひとときを思い出し、為家はもしや吉野に上ったのではと眼を見はったのである。
山深き谷吹きのぼる春風にうきてあまぎる花のしらゆき 藤原為家
(山深い谷間から上へと吹き上ってくる春風がある。そのとき風の流れのままに桜の花びらも散り上がってきて、天霧〈あまぎ〉るという言葉どおり空いっぱいに散り広がる。その白雪のような花びらの美しさよ)
吉野山から谷間を見れば、時にこのような絶景に出会うこともあるのである。為家の歌はなだらかでわかりやすい言葉つづきと、さっぱりした清楚感があり、実景のようだ。
吉野の桜を愛した歌人といえばやはり西行である。
吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき 西行
(吉野山の桜木の梢〈こずえ〉に咲き初めた花を眼にした日からもう、騒立〈さわだ〉つ心はわが身を離れ、遊離魂〈ゆうりこん〉のようになってわが身を連れまわす。これはもうどうにもならない花との契りのようなものかもしれない)
西行の春は桜の歌で埋まっている。圧倒的な桜の花群の中から西行の思いが浮かび上がってきそうである。「花見ればそのいはれとはなけれども心の内ぞ苦しかりける」という歌もある。西行が飽かず花を尋ねて春を終わらせた思いとは、この歌のように、「そのいはれ(理由)」がはっきりしているわけではないのだが、「心の内」に苦しさが生まれてくるものがあったのである。花と対き合うことによってそれは解決する。西行にとって「花」とは、その生そのものを問い得る課題だったといえるのかもしれない。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2024年4・5月号)』の転載です。