配下の者30人に夫の愛人宅を襲わせた「蔵命婦」
『権記』(ごんき)は、平安時代中期の公卿・藤原行成が著した日記です。その寛弘7(1010)年2月18日の章に、うわなり打ちの事例があります。
鴨院(親王の邸宅)より人が走り来たりて申すには、西の対(鴨院の西側にある離れ)で乱行が起きたとのこと。
どうも左の大殿(ひだりのおおいどの)の子・権中将(ごんのちゅうじょう)の随身(護衛)
並びに下女三十人が入乱れているとか。
権中将の乳母・蔵命婦(くらのみょうぶ)の仕業のようだ。
余(行成)も、西の対に向かった。西の対には、兼業という故人の後家がいて、
蔵命婦の夫である祭主輔親(すけちか)が日頃から寄宿していた。
このため、嫉妬に狂った蔵命婦が随身たちを送り、財雑物(家財道具)を破損した。
極めて非常也。
「左の大殿」とは左大臣・藤原道長、「権中将」とは道長の五男・教通(のりみち)です。
そして「蔵命婦」は教通の乳母。蔵命婦の夫が「祭主輔親」で、この人は伊勢神宮の祭主であり、神祇官の大副(たいふ/次官)を兼ねていた大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)でした。輔親は優れた歌人で、『拾遺集』に和歌が所収されています。

「西の対にいた兼業という故人の後家」の素性は不明ですが、要は「兼業という男性に先立たれた未亡人」が、鴨院に仕えていたと考えられます。その後家の元に夫の輔親が「寄宿」、つまり入り浸っていることに蔵命婦が憤慨。自分が仕える教通の随身や下女などに頼んで、西の対を襲撃したというわけです。
冷静沈着な実務官僚だったといわれる行成をして、「これはちょっと酷くね?(非常也)」と狼狽させたくらいですから、凄まじい暴れっぷりで屋敷を破壊したのでしょう。

2年後、今度は道長の使用人たちを巻き込んで…
蔵命婦の乱行は、これだけでは済みませんでした。2年後の長和元(1012)年2月25日、また、うわなり打ちを起こします。今度の件は、藤原道長自身が『御堂関白記』(みどうかんぱくき)に記録しています。
祭主輔親宅に家の雑人(使用人)、多く至りて乱行をなす。
よって日記に書いておく。蔵(蔵命婦)という女の宇波成打(うわなりうち)だった。
今度は道長の「家の雑人」を使って「祭主輔親宅」、すなわち輔親の屋敷に匿われていた愛人を強襲したとあります。
また、ここで「宇波成打」という言葉が初めて登場します。「うわなり」という平仮名自体は「後妻」を指すものとして記紀(『古事記』及び『日本書紀』の総称)以来、多くの文献にあるらしいのですが、それに「宇波成」という漢字を当てたのは道長が初めてでした。
なぜ、この漢字を使ったかは不明ですが、おそらく「波のように襲ってくる」という意味を含んでいたと考えられます。そして後世に入ってから「宇波成」に「後妻」という漢字を当て、「後妻(うわなり)打ち)」という造語が生まれるわけです。
それはさておき2度目の事件のとき、輔親は59歳だったと、『御堂関白記』に記されています。この御仁の女性関係は“お盛ん”だったのでしょう。また、蔵命婦が叩いた相手が2年前と同じだったか、異なっていたか、詳細は不明です。
蔵命婦に同情できる“これだけの理由”
一方の蔵命婦はよくよく嫉妬深い女性のように見えますが、2年前の一件ですでに周囲から注意を受けていたはずです。それなのに2度目を起こしたのですから、よほどご立腹だったのでしょう。
なぜ、そこまで憤怒に駆られたのか――それは、自分(妻)が道長の家の乳母に採用してもらっていることを、輔親が出世に利用していたからではないでしょうか。
この当時、昇格コースのひとつに、妻を実力者の子の乳母に売り込む道がありました。若君の成長に身を捧げる乳母は親代わりも同然で、それによって乳母の夫の存在価値と権力も増したからです。
『枕草子』「第百七十九段」に、清少納言はこう叙述しています。
かしこきものは乳母の夫こそあれ
「恐れ多い存在は乳母の夫なのよねぇ」――という意味です。
また、『紫式部日記』は蔵命婦の感動的な逸話を紹介しています。乳母を担当していた藤原教通が賀茂神社の奉幣使(ほうへいし/天皇の使いとして供物をする使者)の大役を務めた際、
うちまもり、うちまもりぞ、泣きにける
と、じっと見つめて「よくぞ、ここまで成長してくれました」と涙していた――そう、紫式部は綴っています。

蔵命婦の尽力があったからこそ、夫の輔親は出世したと見て良いでしょう。事実、蔵命婦が教通の乳母になった頃、輔親は40歳前後でしたが、41歳で美作介(みまさかのすけ)、46歳で伊勢神宮祭主、52歳で正五位と順調に昇進していきます。
「それなのに、私を軽んじて他の女にうつつを抜かすとは…!」
これが彼女の本心だったとしたら、同情の余地はあるでしょう。
蔵命婦が処罰を受けた形跡はありません。時の最高権力者・道長の信頼を得て、息子の乳母を務めていたからか、またはうわなり打ちが正当な行為として認められたからか、真相は薮の中です。
うわなり打ちは庶民から始まった
さて、うわなり打ちの風習は、いつ始まったのでしょう。
歴史学者の桃裕行は、平安末期の仏教説話集『宝物集』(ほうぶつしゅう/平康頼著/治承年間[1177〜1181年成立])に以下のような一文があることから、そもそもかなり前から庶民階級で行われていた習俗だったのではないかと分析しています。
かつて下の妻(側室や後妻)とも“うはなり打ち”とかやして、髪をかなぐり、取くみ合う
それがいつしか上流階層でも横行し、道長や行成ら公家の日記に書き留められたことで、貴族社会に一般化していったのだろうとしています。
平安中期末から400年近く受け継がれた“伝統”
実際、うわなり打ちと似たような暴挙は、道長の時代からさかのぼること50年前、藤原安子(ふじわらのあんし)がやっていたことが、歴史物語『大鏡』に記されています。
安子は村上天皇の中宮でした。ところが天皇は、新しく入内した才色兼備の女御・藤原芳子(ほうし)に夢中になってしまいます。
安子は中宮、つまり皇后。一方の芳子は中宮より位の低い女御。目下の者に天皇を取られてしまい安子は焦りました。
ある晩、芳子が天皇の夜伽の相手をする女性の控え室に呼ばれました。その話を聞いた安子は、控え室の隣室に忍び込み、壁に穴を開け、美人と評判の芳子の容貌を確認しようとしました。安子の目に映った芳子は噂通り、いやそれ以上の美女でした。

安子のぞきて見給ひけるに、あまりに妬ましくおぼしければ、
かはらけ(食器)を割れして、打ちたまふぞかし
嫉妬を静めることができなかった安子は、部屋にあった食器を砕き、穴から通るほどの破片を芳子に投げつけてしまったのです。うわなり打ちの一種といって良いでしょう。
うわなり打ちの風習は江戸初期には姿を消したといわれますが、少なくとも平安中期末から室町時代末までの約400年近く、公家社会に連綿と受け継がれた“伝統”でした。これを赤裸々と見るか、見苦しいと捉えるか、考え方はそれぞれでしょう。ただし著者は、乱暴ではあるがとても人間らしかったと、肯定的に受け止めています。
参考資料:
『うはなりうち(後妻打)考』「日本歴史 三十五号」桃裕行/実教出版
『平安朝の母と子 貴族と庶民の家族生活史』服藤早苗/中公新書
『歴史をさわがせた夫婦たち』永井路子/文藝春秋
アイキャッチ画像: 『烹雑(にまぜ)の記』(曲亭馬琴著)に描かれた江戸時代初期の「うわなり打ち」の図。平安時代の絵は、残念ながら残っていない。『国史大辞典』国立国会図書館所蔵

