描いた絵師は歌川国芳(うたがわ くによし)。江戸時代末期を代表する浮世絵師で、この絵は彼を含む三人の絵師の合作による『東海道五十三対(とうかいどうごじゅうさんつい)』のひとつとして、東海道49番目の土山宿を描いたものだ。風景画を中心とした広重(ひろしげ)の『東海道五十三次』とは異なり、『五十三対』の方は各宿場に伝わる伝説や歴史上の人物などがメインテーマとなっている。
女性の名は鈴鹿御前。鬼と鈴鹿峠に縁の深い伝説の美女だった。
※画像の出典は国会図書館デジタルコレクション『東海道五十三対土山』
鈴鹿峠に暗躍する正体不明の美女・鈴鹿御前
鈴鹿峠は伊勢国(三重県)と近江国(滋賀県)の境にある標高357mの峠である。鈴鹿峠を挟んで滋賀県側の宿場が東海道土山宿(滋賀県甲賀市)、三重県側が東海道坂下宿(ほかに阪ノ下などの表記あり 三重県亀山市)だ。鈴鹿山脈中最も標高は低いが、三重県側は急カーブや急勾配が多く、東海道では東の箱根峠に次ぐ難所として知られた。


鈴鹿御前はそんな鈴鹿峠を舞台とする伝説や昔話に登場する架空の人物だ。時には天女であったり、鬼女であったり、盗賊であったり、善人なのか悪人なのか、正体がつかめない。まるで『ルパン3世』の峰不二子のようだ。
名前も鈴鹿姫、立烏帽子(たちえぼし)、悪玉など作品によってまちまちである。源義経の愛妾として有名な静御前と名前は似ているけれど、縁もゆかりもない。ここでは鈴鹿御前で統一する。ちなみに「姫」とは身分の高い未婚の女性に対する敬称で、「御前」は高貴で社会的地位や権力のある女性を指し、男性に対する二人称としても使われた。
鈴鹿御前と英雄・坂上田村麻呂
さて、国芳の絵をもう一度見てみよう。物陰に潜んで太刀を提げている男は今にも鬼に斬りかかりそうな勢いだ。鬼の目を盗み、部屋に武士を引き込もうとしているかのような鈴鹿御前。いったいこの男はだれだろう。ふたりの関係は?
男の名は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。平安時代に活躍した実在の人物で武門の誉れ高い家柄に生まれ、朝廷に武官として出仕。後に桓武天皇から征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷を平定した。死後は「王城鎮護」「平安京の守護神」などと称えられ、彼の死を惜しんだ嵯峨天皇の勅命により、甲冑や弓矢を身につけた姿で棺に納められ、平安京の方を向いて立ったまま埋葬されたとも伝えられている。
その後、鎌倉時代から室町時代にかけて、彼をモデルとした架空の英雄「坂上田村丸」を主人公とする『田村語り』と呼ばれる一連の文芸作品が生まれた。『田村語り』は伝説や民話の世界みならず、能や主に東北地方で発展した「奥浄瑠璃」という語り物の演目のひとつとして多くの人々に愛され、各地に広がっていった。
『田村語り』の中に『田村の草子』という作品群がある。室町時代に成立したと考えられる御伽草子だ。田村麻呂をモデルとした主人公・藤原俊宗(田村丸)の鬼退治がメインテーマだが、全体的に田村麻呂と鈴鹿御前のどちらに主眼を置くかであらすじや内容、表現などが異なり、『鈴鹿の草子』と呼ばれる諸本もある。
鈴鹿御前は天女か鬼神か
世間により広く流布しているのは、鈴鹿御前天女説である。主人公・俊宗(田村丸)は、天皇の命で大嶽丸という鬼を追って鈴鹿峠に赴く。大嶽丸は手強くてアジトの位置さえつかめない。だが天命により鈴鹿御前と巡り合う。俊宗と愛し合うようになった彼女は一計を案じ、大嶽丸に気のあるそぶりを見せて、大嶽丸が持つ「三明(さんみょう)の剣」のうち2本を取り上げることに成功し、俊宗の大嶽丸討伐を助ける。大嶽丸を討ち果たして夫婦となったふたりは小りんという娘を授かる。この後、高丸という鬼を討つように命じられた俊宗は遠く奥州(東北地方)まで高丸を追いかけ、鈴鹿御前の助けを得て高丸を討ち果たす。
一方、鈴鹿御前をヒロインとする諸本では、彼女は最初、俊宗に敵対する鈴鹿峠の鬼神として描かれる。第六天魔王の娘とする説もある。だが極楽のような館に暮らす見目麗しい鈴鹿御前を前に、俊宗はとまどいを隠せない。しかし、彼女を倒すのは使命である。ふたりは剣合わせをして激しく戦うが、決着はつかなかった。互いの実力を認め合ったふたりは夫婦として結ばれ、改心した鈴鹿御前は女の子を授かる。こちらは鬼退治よりも鈴鹿御前の人間性や俊宗との恋愛事情、母親としての情愛に主眼が置かれている。
鈴鹿御前の命は25歳という期限付きで、亡くなった後、夫である俊宗は冥界へ乗り込み妻を奪い返してふたりで幸せに暮らすというハッピーエンドなオチのついたものもある。

盗賊・立烏帽子と鈴鹿御前
盗賊の横行した鈴鹿峠
ところで鈴鹿峠の伊勢側は八町二十七曲りといわれるほど険しい山道で、盗賊の横行した場所でもあった。
伊勢と伊賀の境にある加太峠(かぶととうげ)に代わり、鈴鹿峠を経由する阿須波道(あすわみち)と呼ばれる新道が開通したのは886(仁和2)年。盗賊の記録は9世紀末ごろから確認でき、898(昌泰元)年には伊勢神宮に向かう勅使一行が途中で盗賊に襲われ、死者を出している。また『今昔物語』巻26第36話には、鈴鹿山の山中で水銀商人を襲った80人もの盗賊たちが、たくさんの蜂に刺されて皆殺しにあった話が載っている。伊勢国は全国有数の水銀の産地だった。商人は飼っていた蜂たちに酒を飲ませて飼い慣らしていたのだ。
奈良時代には美濃の不破関(ふわのせき)、越前の愛発関(あらちのせき)とともに、古代三関(さんげん)のひとつである鈴鹿関(すずかのせき)が伊勢に設けられた。
関の目的は、都で謀反を企てる人々が領地に戻って兵力を集めるのを防ぐことだった。関東、関西という呼び名があるが、これら三関よりも西を関西、東を関東と呼んだことから始まった。

立烏帽子をかぶった美貌の女盗賊
12世紀になると、鈴鹿周辺には盗賊「立烏帽子」の名前が散見されるようになる。初見は平安末期の仏教説話集『宝物集(ほうぶつしゅう)』だ。それによると立烏帽子は、大和国の奈良坂にいたとされる「かなつぶて」という盗賊と共に処刑されたという。実在の盗賊だったのかもしれない。それによると性別は書かれていない。
室町時代になると立烏帽子は鈴鹿御前または鈴鹿姫と同一視されるようになる。前出の『田村の草子』の諸本の中にも、鈴鹿御前を「立烏帽子」としているものもある。
1408(応永25)年、室町幕府の4代将軍・足利義持(あしかが よしもち)は伊勢神宮に参拝。その折、随行(ずいこう)した花山院長親(かざんいんながちか)が著した紀行文『耕雲紀行(こううんきこう)』には、かつて坂上田村麻呂に敵対した美貌の女盗賊として鈴鹿姫が登場する。田村麻呂に敗れた姫は身につけていた立烏帽子を山上に投げ上げた。立烏帽子とは烏帽子のなかでも最も格の高い形とされ、それを身につけていた立烏帽子は、本来公家か神職だったのではないだろうか。
烏帽子といえば、宮崎駿(みやざきはやお)監督の作品『もののけ姫』に登場するエボシ御前が思い浮かぶ。タタラ場の統治者である彼女は常に冷静沈着。しかも聡明で美しく、単純に善悪の二元論では表せない複雑な顔をもっていた。エボシ御前のモデルは立烏帽子(=鈴鹿御前)だとする説もある。
立烏帽子が投げた烏帽子はやがて石となった。鈴鹿峠の麓には神社が造られ、巫女(みこ)たちがこれを祀っているという。
鈴鹿峠を往来する旅人たちを見守る神として
聖なる場所・鈴鹿峠
鈴鹿峠は朝廷から伊勢神宮へ向かう使者たちの通り道でもあった。その中には斎王(さいおう)と呼ばれる伊勢神宮に奉仕する未婚の皇族女性も含まれていた。斎王が伊勢神宮へ行くことは群行(ぐんこう)と呼ばれ、同行者は数百人にも及んだと考えられている。鈴鹿には頓宮(とんぐう)と呼ばれる一時的な宿泊所も設けられていた。鈴鹿峠は聖域への入り口でもあったのだ。

鈴鹿峠の中腹にある片山神社
かつての坂下宿(現在の亀山市関町坂下)の山中に、片山神社という鈴鹿御前にもゆかりのあるらしい神社が鎮座すると聞き、訪れてみた。
三重県側から滋賀県側に向かって国道1号に車を走らせる。次第に人家が少なくなり、幾重にも折り重なった深緑の山々が眼前に迫る。片山神社への道はいささか複雑で、無事にたどり着けるか心配だったが、なんとか到着できた。簡素な鳥居の横に「延喜式内片山神社」と彫られた石柱が建っている。石段が続いているのを見ると旧本殿はこの上の方にあったらしい。1999年に焼失したが、2015年に門を入ってすぐの場所に石造りで建てられた。
すぐそばを国道1号が通り、車の音が聞こえるが、神社の周辺は太古の気配が漂っている。境内の横を鈴鹿川の源流のひとつである谷川が流れている。斎王は都から伊勢に向かう途中、鈴鹿川で禊(みそぎ)をして身を清めた。現在はこの谷川で大祓式が行われている。
境内や周辺にはモミジの巨木が多く、紅葉の名所でもあるらしい。鳥居の横に由緒書きが建っていた。それによれば古来、三子山(みつごやま)の山中や鈴鹿峠などにあった片山社、鈴鹿社、田村社は何度かの火災、移転を経て合祀され、片山神社と称するようになったようだ。片山は地名で三子山の古称とされる。


鈴鹿御前と片山神社
神社の祭神は倭姫命(『古事記』では倭比売命)・瀬織津姫(せおりつひめ)・気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)・速佐須良姫神(はやさすらひめ)・坂上田村麿命(さかのうえのたむらまろのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・速須佐之男命(はやすさのおのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・大山津見神(おおやまつみのかみ)である。
祭神の名を見る限りでは鈴鹿御前もしくは鈴鹿姫の名は出てこない。しかし、坂上田村麻呂が坂上田村麿命として祀られていることなどを考えると、鈴鹿御前も信仰の対象であったと考えるべきではないだろうか。
その昔、片山社に祀られていた祓戸(はらえど)の神々と鈴鹿社に祀られていた倭姫命(やまとひめのみこと)を合祀したところ、鈴鹿の山に鎮座したことから神号を「鈴鹿大神」と改め、「鈴鹿大明神」の号を奉り、世に「鈴鹿権現」と呼ばれたという。祓戸の神とは人々の罪や汚れを祓い清める神のことで、瀬織津姫、気吹戸主神、速佐須良姫神を指している。鈴鹿御前とは本来、鈴鹿の山そのものではなかったのだろうか。
倭姫命は垂仁(すいにん)天皇の皇女で、天照大神を伊勢に祀ったとされる、伝説上の初代斎王だ。天照大神を祀る場所を探して倭姫命が鈴鹿郡に入ったところ、白雲たなびく三子山をたいそう気に入って白雲三向山と名付けた。また鈴鹿小山宮(すずかおやまのみや)を建て、そこに6か月間とどまったとされる。鈴鹿に縁の深い倭姫命は、鈴鹿御前と同一視されることもあるようだ。

立烏帽子が鏡に使った?!「鈴鹿山の鏡岩(鏡肌)」
片山神社は深い森に囲まれ、周囲を東海自然歩道が通っている。かつては東海道を往来する人々で賑わったと思われる道も、今は国道1号を通る車の音以外、静まり返っている。

鈴鹿峠近くには鏡岩という伝説の岩がある。県指定の天然記念物で、立烏帽子が鏡に使ったとされる。また盗賊たちが岩に映った景色を見て旅人が来たことを知り、襲撃したという話も残っている。ただ残念なことに山火事にあって岩肌が著しく損傷し、今では鏡肌と呼ばれた美しい鏡面を見つけることは難しい。近くには田村神社が鎮座していたことを示す標柱があり、岩そのものが神が降臨する磐座として信仰の対象になっていたのではないかと見る向きもあるようだ。
土山に鎮座する田村神社
片山神社から国道1号に戻り、鈴鹿峠を越えて滋賀県側に出た。そこは甲賀市土山町。鈴鹿峠越えの滋賀県側の出入り口だ。実はここに「田村神社」がある。鈴鹿峠の鬼を退治したとされる坂上田村麻呂を主祭神とし、嵯峨天皇と倭姫命を祀る。
嵯峨天皇から鈴鹿峠で悪事を働く鬼神を退治するように命じられた坂上田村麻呂は悪鬼を平定した後、残っていた矢を放ち、「この矢が落ちた所に私を祀れ」といい、矢の落ちた所に本殿を建てさせたという。
神域も広くたいへん立派な神社で、かつては東海道が参道の一部を通っていた。
鈴鹿峠の西と東に田村麻呂と鈴鹿御前ゆかりの神社が建っている。それはまるで村を悪霊から守るために建てられた道祖神(賽の神)のようだ。


祇園祭の山鉾巡行に登場する「鈴鹿山」
毎年7月は京都で祇園祭が行われる。祇園祭は八坂神社の祭礼だ。最大の見どころは都大路を練り歩く山鉾(やまほこ)の巡行だろう。コンチキチン♪の祇園囃子が流れる中、「動く美術館」とも呼ばれる絢爛豪華な山鉾がゆっくりと進む。
ところで全34基の山鉾の中に「鈴鹿山」があるのをご存じだろうか。
かつて鈴鹿峠に出没する悪鬼を退治したという伝説に由来し、疫病退散を祈願する祇園祭にも登場している。「鈴鹿山」のご神体は金の烏帽子を被り、大長刀(おおなぎなた)を持つ女神、鈴鹿権現だ。祭では瀬織津姫とされているが、鈴鹿御前のことと考えられる。

鈴鹿御前をめぐる物語は王道を行くヒロイックファンタジー
祇園祭の起源はたいへん古く、869(貞観11)年とされ、鈴鹿山も応仁の乱以前から祇園祭の巡行に参加している記録が見られるという。
鬼神や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する世界を、美しくて賢いヒロインが運命に翻弄されながらも生き抜いていく。しかもラブロマンスあり、激しいバトルありというストーリーは、まさに王道を行くヒロイックファンタジーだ。アドベンチャーストーリーの原型は、室町時代にはすでに完成していたのではないだろうか。
現代ではゲームやアニメ、漫画などポップカルチャーの世界でその多様な魅力を発揮している鈴鹿御前。善と悪、天女と鬼神という多面的な要素を併せもち、今もなお人々の心を捉えて離さない。
【取材・主要参考文献】
・亀山市歴史博物館
『亀山市史』第一節 摂関政治と鈴鹿郡
・『鈴鹿における「場所の経験」の歴史地理』小川絢子 京都先端科学大学(KUAS)
・片山神社
・田村神社
・鈴鹿山

