日本美術に惹かれながら多くの仕事を積み重ねて

壮麗な大理石の階段、アールデコ調のライトやステンドグラス。ここは昭和初期の帝冠様式の建築で知られる東京国立博物館本館のエントランス。涼やかな夏物の着物姿の中谷美紀さんが、広い空間を見渡して、懐かしそうに微笑みます。
「久しぶりに東京国立博物館を訪れることができて幸せです」
日本美術を愛する中谷美紀さんにとって東京国立博物館(以下、東博)は、多くの思い出が残る場所なのだといいます。
「2012年に東博の創立140周年イメージポスターに起用していただいたときには、まさにこのエントランスで撮影しました。また、特別展『栄西と建仁寺』(2014年)や『本阿弥光悦の大宇宙』(2024年)で、音声ガイドのナビゲーターも務めさせていただきました」
中谷さんが日本美術に心を寄せるようになったのは、パリで暮らしたことがきっかけだったといいます。
「フランス人の方々が日本の文化や歴史をよくご存じで、日本人である私のほうが、何も知らなかったことに気づかされました。帰国後、日本舞踊や茶道を習いはじめ、その後、テレビドラマで白洲正子さんの役を演じる機会もあって、さらに本物の日本の美を知りたいと思うようになりました」
現在、オーストリアと日本とを行き来しつつ田舎暮らしを送る中谷さんですが、日本に帰国した際には、お気に入りの美術館を訪ねることも。
「毎回必ず伺えるわけではありませんが、季節に合わせて、展示されている作品を目当てに美術館に向かうこともあります。1月ならば長谷川等伯の『松林図(しょうりんず)屛風』を見に東博へ、5月ならば尾形光琳の『燕子花図(かきつばたず)屛風』を見に根津美術館へ……というように。美術館は大人のワンダーランドです」
オーストリア暮らしの中でも美術館は身近な存在とのこと。首都ウィーンには、ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーや美術史美術館など世界屈指の美術館が多数あります。オーストリアを代表する画家といえばグスタフ・クリムトですが──。
「実は、私、ウィーンで実物の絵を見るまでは、クリムトの作品にそこまで強く惹かれたことがありませんでした。ですが、ベルヴェデーレ宮殿で初めてクリムトの『接吻』を目の前にして、深い感銘を受けたのです。クリムトは、尾形光琳の屛風絵などに影響を受けたといわれていて、そのこともクリムトの作品と向き合って、初めて感じることができました。ウィーン世界博物館で細川家伝来の美術品を鑑賞したり、オーストリア応用美術博物館で開催された春画展にも行きました。エキセントリックでセンセーショナルな日本美術に、ヨーロッパの方々も驚かれたのではないでしょうか」
海外にいるからこそ、日本の美をより深く感じる日々。中谷さんがヨーロッパと日本での日常を綴った新刊エッセイ『大草原の小さな農家』(幻冬舎文庫)が、今年6月に上梓(じょうし)されました。「夜桜と東寺」の章では、着物への愛があふれています。
「海外でももっと気軽に着物を着ることができたら、着物人口が増えるはずなのですが、海外では着物の染み抜きや丸洗いなどのお手入れをしてくださる悉皆屋(しっかいや)さんがないのが大きなハードルです。着物を購入したり、レンタルができたり、着付けやヘアメーク、お手入れもできる拠点が海外にあればどんなにいいだろうと思います。石川の能登や牛首(うしくび)、沖縄の染織作家さんの工房を訪ねたことがありますが、職人さんたちが少なくなって、文化を維持していく大変さを感じます。着物文化を継承するべく、私にも何かできることはないか、常に考えています」
20代のころに
パリで暮らした経験から
本物の日本の美を知りたいと
思うようになりました

豊かな自然と多様な社会、ヨーロッパでの日常


オーストリア生活も10年に。ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のヴィオラ奏者の夫に随行するオペラや音楽会の華麗なエピソードだけでなく、ザルツブルク郊外にある山荘で家事をしたり、農村で庭づくりをしたり、中谷さんの何気ない日常がエッセイには記されています。そして、ヨーロッパが抱える異常気象、国際情勢、移民問題などへの真摯な眼差しも。
「床拭きをしたり、植物に水やりをしたり、毎日、野良着を着て、走り回っています。ヨーロッパには多様な文化が共存していて、シリアやコソボの方、アフガニスタン出身のタクシー運転手さん、ウクライナ出身のハウスキーパーさん……さまざまな背景をもつ人々との出会いがあります。エッセイに書いたのは私の体験なので、ほかの方ならまた異なる視点になると思うのですけれども。オーストリアには、困っている人を見かけたら、自然にスッと手を差し伸べる文化があります。重い荷物を持って電車に乗ろうとすると、男女を問わず、扉を押さえて待っていてくださったり、一緒に荷物を持ち上げてくださったりするのが日常的な光景です」
優しい人々と豊かな自然に囲まれた、オーストリアでの生活。それでも、日本に帰ってくると、ホッとするのだといいます。
「日本ならではの“阿吽の呼吸”に安心します。そして、何よりもお食事が恋しくて!美味しいお出汁とお茶と。花山椒、うるい、じゅんさい……旬でなければ出合えないお料理をいただくと心から満ち足りた気持ちになります」
着物文化を継承するべく、
私にも何かできることはないか、
常に考えています


なかたに・みき 1976年東京都生まれ。女優。数々の映画、ドラマ、CMに出演。2011年初舞台『猟銃』で紀伊國屋演劇賞個人賞、読売演劇大賞女優賞、2013年舞台『ロスト・イン・ヨンカーズ』で読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。絵本、エッセイ集、旅行記など執筆活動も多く、『インド旅行記1〜4』『オーストリア滞在記』『オフ・ブロードウェイ奮闘記』『文はやりたし』(すべて幻冬舎文庫)など著書多数。
中谷美紀さんの新刊が発売されました!

畑仕事、引っ越し、オペラ鑑賞、美術館巡り……。オーストリアでの忙しい日々を中心に、日本滞在時の話題も。既刊『文はやりたし』の続編にあたる最新エッセイ。『大草原の小さな農家』中谷美紀著 幻冬舎文庫 825円
着物協力/青山 八木
TEL:03-3401-2374
※本記事は『和樂』2026年8・9月号の転載です。

