前編はこちらから:散る桜と咲く桜、なぜ両方が美しい?神経美学者が見つけた「美を感じる脳」
着物の裏にあるナラティブ、人性
石津智大(以下、石津) 先ほど歩きながらお話を伺っていて、「誰に会うか、どこへ行くかで柄や帯を決める」という考え方にとても惹かれました。「纏う」という行為の中には、モノだけではなく、その裏のナラティブや物語性、人性がたっぷり含まれているんですね。
伊藤仁美(以下、伊藤) たくさん含まれていると思います。私はまず、着物を「着る」ではなく「纏う」と位置づけています。「纏う」は、世界と身体の繋がりを感じることなんです。本来備わってる感覚を取り戻す行為ともいえます。その中で鏡に頼らず纏う事を提案しています。

鏡を見てしまうと、「きれいに着なきゃ」という先入観で、目で見たものだけを回収してしまう。鏡を見ないことで、生地の重み、衣擦れの音といった視覚以外の五感を使うようになる。それが、自分の内側と外側の環境とをつないでいくことになります。
洋服はパッと着れてしまいますが、着物は身体感覚を使いながら、誰と会うか、どんな場所に行くかで纏っていく。その中に、神経美学的な働きや美しさの要素がどう関わっているのかについても、先生に伺いたかったんです。
「葉になろうと思って」——無意識の物語性が伝わる瞬間
石津 お召しになった姿は見た目にも美しい。でもその裏に、その方がどういう思いで、今日、この見立てで来られたのかを、見る側も慮る瞬間があるんですよね。
先ほど、モニター前の桜の映像を邪魔しないように、「葉になろうと思って、緑を選んできた」と伺いました。きっと無意識のうちに、私の脳の中で「あ、葉っぱのような色だな」と何かが反応していたんです。それを伊藤さんご自身の言葉で聞いた瞬間、感動の質がまったく変わるんです。

派手に視覚を打つような歓喜の美ではなくて、こうしたネガティブとも呼べる美のほうに、人間らしさが色濃く入っている気がします。立ち止まって、見て、感じて、会話を通して理解する——生理的な体験を担う脳の部位だけでなく、社会的な脳の部位も一緒に働いているんだと思います。
ジョン・ケージの『4分33秒』が聴かせたかったもの
石津 いま私は「無の音楽」を新しい研究の柱に据えようとしているのですが、インスパイアされたのは、ジョン・ケージの『4分33秒』。ピアノを開いて閉じるところから始まる沈黙の演奏ですが、ケージは無音そのものを聴かせたかったのではなく、無音という環境だからこそ気づける、隣の人の身じろぎの音、衣擦れの音といった、普段は聞こえているのに気づかない小さな有音に意識を向けさせたかったといわれています。
伊藤さんがされていることは、視覚という大きな音をあえて排除することで、そこにある大切な小さな音を感受するためのしつらえだと感じて、感銘を受けました。

伊藤 うれしいです。情報も刺激もあふれる時代ですけれど、ほのかな小さな変化に気づくこと、何気ないところにある美しさや、ちょっとした言葉の裏側にある愛に気づける瞬間というものを、着物を纏うことを通して取り戻していきたいんです。
石津 素晴らしい。新しいことをやらせるって、それ自体がストレスなんです。でも纏うという行為は、誰もが毎日やっている日常の動線ですよね。そこにアプローチして今のお考えをインストールできれば、人類の福音だと思います。
急須の形が、美しい持ち方を呼び寄せる
石津 昨日、伊藤さんのYouTubeで袂のお話を拝見したんです。私も昔、着物を着ていたのですが、お茶を注ぐときに自然と袖口を押さえる仕草が出る。袂があるからバシャっとならないように押さえる、というあの所作が、柳宗悦の民藝運動でいう「用の美」に近いと感じました。
急須の形は、すでに「こう持つ」という動きを内側に含んでいる。どう使ってもいいはずなのに、自然と美しい持ち方になるんですね。

これは「アフォーダンス」と呼ばれる考え方で、生態学的心理学のギブソンが提唱したものです。ものの形が、すでに人間の行動を促す(アフォードする)ようになっている。着物は大股で走れない作りですし、袂を押さえないといけません。美しい所作を自然と促す形になっています。着物は「美しいアフォーダンス」なのかもしれません。
伊藤 本当にそう思います。実家が禅寺で、よく耳にしていた「調身・調息・調心」という言葉があります。座禅では、まず体が整うと呼吸が整い、最後に心が整う。これはまさに着物を纏っているだけで、身体と呼吸が整い、心が整っていきます。このように古来から日本人は、装いを通して内的な調律をしてきたんじゃないかと感じています。
真珠庵で見えた、葉一枚一枚の色の違い
石津 大徳寺の真珠庵で座禅をさせていただいたことがあります。20分ほど座って5分ほど歩く、それを数回行う。1回目は脚が痛くてつらかったのですが、2回目には体が整ってきて呼吸もしやすくなりました。3回目は庭に面した縁側に座っていたんですが、葉っぱ一枚一枚の色がすべて違って見えたんです。

伊藤 すごい。覚醒していますね。
石津 知覚が開いたという感じでした。もともと葉の色は一枚ずつ違うのが当たり前なのに、「葉っぱは緑だ」という思い込みのフィルターで見てしまっていたのでしょう。知覚が「元に戻った」と言ったほうが正しいかもしれません。
これは、いま私が生成AIに対して感じている問題と直結しています。生成AIによって、美しいもの、心地よさそうな映像やテキストが、いくらでも作られる時代になった。こうしたわかりやすく提示されたものは、心理学でいう「処理流暢性」がとても高い。
人間は百パーセント新奇なものを処理するのにコストがかかるので、処理しやすいもの、つまりわかりやすいものに注意が引き寄せられる性質があります。すると、立ち止まって意味を考えないと価値が見えてこない「小さきもの」への意識が、どうしても薄くなってしまうんです。

伊藤 日本的な「小さきもの」「をかし」のような感覚が、いま感じにくくなっているのかもしれませんね。
石津 人間は結局、人間にしか大きな興味を持てないのかもしれません。最も興味を持つ対象である他者の心が、実は不可視で、私たちは小さな表情の機微や所作の間からそれを慮ることでしかふれられない。生成AIの時代は、不可視のものや小さきものへの感受性に、いい影響を与えているとはいえません。その点、お着物には、帯の締め方、柄の組み合わせ、襟元と、いたるところに小さな美が宿っています。すごいシステムだと思います。
伊藤 着物は、心や感性、季節や立ち場などの在り方を、美として表現する装いで「言葉にならない想いを纏うラブレター」のようなものです。
そこにまた隠す美、制限の美といった制約の中から生まれる美しさが、たくさんあります。

(Text by Tomoro Ando/安藤智郎)
(Photos by Yuji Imai/今井裕治)
Profile 伊藤仁美
着物家
京都の禅寺である両足院に生まれ、日本古来の美しさに囲まれて育つ。長年肌で感じてきた稀有な美を、着物を通して未来へ繋ぐため20年に渡り各界の著名人への指導やメディア連載、広告撮影などに携わる。 オリジナルブランド「ensowabi」を展開しながら主宰する「纏う会」では、感性をひらく唯一無二の着付けの世界を展開。その源流はうまれ育った禅寺の教えにある。企業研修や講演、国内外のブランドとのコラボレーションも多数、着物の新たな可能性を追求し続けている。
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和を装い、日々を纏う。Profile 石津智大
神経美学者/関西大学教授
1979年、東京都生まれ。2009年、慶應義塾大学大学院で心理学博士を取得後、渡欧。ウィーン大学心理学部研究員・客員講師、ロンドン大学ユニバーシティカレッジ生命科学部上席研究員などを経て、2020年より日本に活動拠点を移し、大学で教育・研究に従事している。著書に『神経美学—美と芸術の脳科学』(共立出版)、『なぜアートに魅了されるのか』(共立出版/分担執筆)、新著『泣ける消費』(サンマーク出版)など。
Shiseido Beauty Park INFO

Shiseido Beauty Parkは資生堂社の研究開発拠点の1-2階にあり、創業以来受け継がれてきた「Art & Science」のDNAを感じられる体験型施設。1階では、先進サイエンスに基づく未来の美の可能性を、2階では、”Art”の視点から五感を通じて資生堂社の歴史と美意識を体感できます。
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