謎の多い前半生
利休は大永2(1522)年に田中与兵衛の長男として、堺に生まれます。父の与兵衛は、商業都市として栄えた堺で魚問屋を営んでいました。豪商ではなく、小商人だったと考えられています。利休は早くから茶の道を志し、北向道陳(きたむきどうちん)に茶の湯を学び、のち、武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事しました。利休の前半生はわからない点が多いのですが、商才があったようで、家業は利休の代で大きな財をなしたようです。
堺の豪商・今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)と共に、織田信長の茶会を取り仕切る茶頭(さどう)※1のひとりとなりましたが、最初は末席でした。信長など権力者たちとの付き合いのなかで、商人としても力をつけていったのでしょう。
権力者に引き立てられた千利休
利休は、やがて織田信長に認められる茶人へと研鑽を深めます。そして信長没後は豊臣秀吉に仕えました。利休は秀吉の信任厚く、茶頭として重用され、政治力も蓄えていきました。当時の茶会は文化的な交流の場であると同時に、大名たちの政治的な場としても機能することがありました。その空間をプロデュースしていたのが利休です。利休は文化人であると同時に、その枠をこえて政治的な力を持つ存在になっていったのです。

天正18(1590)年、豊臣秀吉が行った小田原攻めに同行した利休が、戦いの最中に静岡県・伊豆韮山(にらやま)の竹で作ったと伝わる花入が残されています。正面に自然に入った割れがあるのが特徴で、その景色や弁慶が割ったという寺の鐘の故事にちなんで『園城寺(おんじょうじ)』と銘が付けられました。利休はこのように、簡素で不完全な中に美を見いだす「わび茶」を追求しました。一方の秀吉は、黄金の茶室に代表される豪華絢爛な世界を好みました。この美意識の違いが、後の対立に繋がっていったのかもしれません。
豊臣秀長の死から狂う歯車
秀吉の弟・秀長が大友宗麟(おおともそうりん)をもてなした時に、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀のことは宰相(秀長)に存じ候」と伝えたと、史料に書かれています。秀長は単なる弟としてだけではなく、豊臣政権を支える重要な役割を担っていました。秀吉を補佐し、時には周囲が遠慮して言えない提言も、秀長は伝えることができました。利休はその秀長と波長が合い、信頼されていたことがうかがえます。
天正19(1591)年1月22日、秀長が亡くなります。享年52。兄の秀吉を支え、尽くしてきた裏で、その激務はやがて体をむしばんでいきました。大病を患い、天正18年以降は、たびたび危篤に陥っていたようです。
この秀長の死が、豊臣政権と利休に大きな影響を及ぼすことになります。秀吉は織田信長の家臣時代からの部下や、利休のような独自の権威を持つ人たちに支えられていました。けれども天下統一が目前になると、石田三成(いしだみつなり)ら奉行衆(ぶぎょうしゅう)が、前面に出てくるようになります。彼らは優秀でしたが、秀吉に苦言を呈するのは難しかったことでしょう。そのため、唯一のストッパーだった秀長の死によって、秀吉を諫める人物がいなくなってしまったのです。秀長とのコンビでバランスを取り、茶人として確固たる地位を築いた利休は、秀吉にとって目障りな存在に変化したのでは?そんな風に思えてなりません。
なぜ利休は切腹に追い込まれたのか?
秀長の死から、1か月余りの天正19(1591)年2月28日、秀吉の命により利休は切腹します。享年70。利休が秀吉を怒らせたのは、大徳寺の三門に利休の木像が置かれたことがきっかけとされます。その下を秀吉が通ることになったため不敬であるとされたのです。また、利休が茶器の売買で私腹を肥やしたことが、三門の木像の出来事とともに、秀吉の逆鱗に触れてしまったのだと……。しかし、実のところの真相は、わかっていません。
利休が切腹する前に書いたと思われる手紙が残っています。京都上京の餅屋・川端道喜(かわばたどうき)に宛てたもので、贈られた餅が忘れがたい味であったことなどを伝えています。また文中の「はしたてのつほ(橋立の壺)」は、利休愛蔵の葉茶壺で、将軍足利義政(あしかがよしまさ)ゆかりの名物です。利休が大切にし、茶会記にもしばしば登場しています。秀吉はこの壺を所望したといいますが、利休は受け入れませんでした。
この一件も、利休切腹の要因のひとつと考えられています。利休は切腹する前に、大徳寺の塔頭(たっちゅう)・聚光院(じゅこういん)に壺を預け、「秀吉からの命令でそちらに預けるが、誰にも渡さないでほしい」との書状を添えています。結局、利休亡き後、秀吉はこの壺を召し上げました。そして聚光院に管理をさせた後、聚楽第(じゅらくだい)に収め、さらに加賀の前田利長(まえだとしなが)に下賜(かし)※2しました。

今に伝わる辞世
利休は自害する2日前に辞世をしたためています。それは漢詩の形式の一偈(いちげ)一首と、和歌一首で、独特の構成になっています。
人生七十 力囲希咄
吾這宝剣 祖仏共殺
堤る我得具足の一太刀
今此時ぞ天に抛つ
人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)
吾這宝剣(わがこのほうけん) 祖仏(そぶつ)共殺
堤(ひっさぐ)る我得具足(えぐそく)の一太刀
今此時ぞ天に抛(なげう)つ
意味は、「70年生きてきたが、最後は気合を入れ「えい、やあ!」と叫んで死に赴く。私が持つこの宝の剣で、祖師も仏もすべて斬り捨てて、迷いを断ち切る。我が身に備わった一太刀を携え、今まさにこの時、すべてを天に投げ出す」
おそらく、利休が考えに考えたであろうこの辞世は、今もなお研究者によってさまざまな解釈が論じられています。このような、哲学的な言葉を残して、自ら死を選んだところに、千利休という「天下の茶人」としての生き様を感じずにはいられません。
アイキャッチ画像:《千利休画像》堺市博物館蔵
参考書籍:『千利休と戦国武将』本郷和人著 祥伝社、『軍師 千利休』加治将一著 祥伝社

