今や空前の城ブーム、各地の発掘調査でも次々と新史実が明らかになり、遺構を調査し、復元や整備に力を入れる自治体が増えています。なかでも愛知県小牧市は、人口約15万人と小さな地方自治体ながら、この十数年の間に、発掘調査によって、瞬くように史実が塗り替えられてきました。
小牧山城は信長が最初に築いた近世城郭のルーツだった!
「小牧山山頂から信長が築いたとされる石垣が出土した」。平成16年、このニュースが流れた時、地元市民は、散歩やランニングコース、花見のスポット、はたまたバーベキューやピクニックを楽しんでいた約86mの小牧山が、いきなり歴史の大舞台に名を連ねるようになってしまった、という驚きに包まれました。
当時は、織田信長が清須城から岐阜城へ移る際に使用した出城だったとか、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴(豊臣)秀吉軍とが戦った『小牧・長久手の戦い』で、徳川家康が陣を張ったことなどは知られていましたが、愛知には彼ら三英傑のゆかりの地が多すぎることもあって、それほど注目されることもありませんでした。
しかし、この発掘調査以降、毎年、何らかの発見があり、歴史学者や考古学者たちはもちろん、歴史マニアたちからも目が離せない場所となってしまったのです。
そして、平成30年の発掘調査では、小牧山城の主郭(本丸)近くに屋敷建物があったことを示す礎石や玉石敷が見つかり、またまた大ニュースとなりました。さらに、天目茶碗や青磁の茶碗も出土し、小牧山の山頂一帯に信長一族の居宅があったという可能性が一気に高まったのです。
考古学会のホープが語る発掘調査の魅力
そこで、小牧山城の発掘調査の超本人、今や考古学会のホープとなった小牧市教育委員会の小野友記子さんにいったい小牧山で何が起きているのか、小野さんというスーパースターはどんな人なのか、発掘調査ってそもそもどんなことをしているのかという素人丸出しの質問まで、2019年度の発掘調査が始まったタイミングで、直撃インタビューを敢行してきました。
-令和元年、第12次発掘調査がスタートしたということですが、今回は、どような場所でどんな目的で発掘しているんですか?
小野:今年度は、第9次調査で確認された登城路の脇にそびえる石垣と岩盤の壁や第10次で確認できた山の西麓へ向かうための虎口に接している、小牧山山頂から少し下の南から西の斜面で実施しています。小牧山城のメインルートである大手の登城路がどのような構造・動線を持っているのか。新たに見つかった虎口の石垣はどのようなものかを確認することを目的としています。
※虎口:城郭における出入口のこと
-そうやって、一つずつ、状況把握を積み重ねて、全貌を解き明かしていくんですね。小牧山城はこれまでも毎年、史実を塗り替える遺跡が出てきて、私たち市民の関心もどんどん高まっていますが、最初に小野さんが小牧山城の調査をスタートした時は、どんな状況だったのですか。
小野:平成16年のスタート時点では、「小牧・長久手の戦い」で徳川家康が陣を張った城を再現、復元、整備をしていくというのが大本の方針だったんです。ただ、私はまだ考古学専門員として4年目だったので、国の指定史跡など、とても調査を担当できないと一度はお断りしたんです。それが上司から「1年弱の布陣期間で、陣を張った土の城。皮一枚はがす程度の土を掘って、家康の時代の地形が出てくれば終わる仕事だから」と説得されまして。確かに、その当時はまだ研究や学会でも信長の本拠地は清須にあって、小牧山城は、美濃を攻めるときに、ちょっと立ち寄るぐらいの仮の出城という程度の認識で、重要視されることもなかったんです。
-それがいきなり、出るはずのないところから石垣を築くためであろう裏込石(うらごめいし)や石材がゴロゴロと出てきちゃったんですよね。信長が最初に築いた石垣の城は、安土城と言われていた時代でしたし、中世には土の城しかなかったわけですから。石垣の城郭が小牧山に?と騒然となりましたよね。調査はどんな感じだったんですか?
※裏込石:円滑に排水するために石垣の後ろに積む小石
小野:主郭地区の発掘調査で、小面積で試掘するためのトレンチ調査を実施したところ、地表下から永禄期の石垣が発見されたんです。大手道(おおてみち)にも石積を発見。信長が石垣を築いたとしか考えられない状況になってしまって。考古学専門員は、その場で判断をしないといけないのですが、史実がひっくり変えるような事態だけに、すぐに上司に現場に来てもらうようお願いしました。そうしたら、静かな口調で「小野さんの見解で正しいと思うよ」と。その時は、嬉しいというより、大変なものを当ててしまったという気持ちの方が大きかったんです(笑)。
※トレンチ調査:遺跡の有無や遺構の状況を把握して、遺跡の性質を判断するために掘る溝のこと。
※大手道:大手門(正門)から本丸につなぐ道
小牧山城は名古屋城や熊本城と違い、史料と呼べるものはほとんどなかったのだそうです。頼れるのは、地道な発掘作業から掘り出される出土品や遺構だけ。散歩に来る地元の人たちからは、「掘ったって何も出てこない。税金の無駄」という声すらあったとか。しかし実際は、その後も想定を超える、確かな歴史の事実が次々と出土しています。
「考古学とは記録がないときにこそ力を発揮するものだと思っていたんですが、小牧山城はまさにその連続。土は如実に昔の人の足跡を留めてくれている。土の記憶を辿っていくという考古学の神髄を見せてくれました」と語る小野さん。
出土は偶然の産物。『佐久間』と書かれた墨書
-平成22年度には2段だといわれていた石垣が平成26年度には3段の石垣が築かれていたことがわかります。そして、平成22年度の第3次発掘調査では、出土した石材に墨文字が書かれていたと大ニュースになりました。それはある程度、予想できていたことなんでしょうか。
小野:いえ、もうあれも奇跡というか偶然というか。石垣を支える裏込石があり、上から流れ落ちてきたそれらの石材を取り除いて、その奥にある石垣を見つける作業をしていくんですが、一つだけ大きくて、簡単に動かせない石があったんです。それで作業の邪魔になるから、脇に置いておいた。通り道だからみんな踏んだり、雨にぬれたりしているうちに、土が取れ、石の表面に黒い文字のようなものが見えてきて。直前に名古屋城で石垣の修理・調査現場を見せてもらう機会があり、石垣を作る際の担当場所の番号や名前が書かれている墨書を見ていたので、もしやと思い、水で洗い、さらに赤外線調査をしてもらったら、「佐久間」という墨文字が判読できました。「佐久間」という文字から信長の家臣であり、片腕だった「佐久間信盛」に代表される佐久間氏との関連が推定されます。また一つ、信長が築いた城という可能性が強まる証拠が出てきてしまったんです(笑)。邪魔な石だとみんなに踏まれていたのに(笑)。今では、ガラスケースに入れられて、貴重な遺跡として飾られています。発掘作業というのは、本当に小さなことに気づけるか、気づけないかの違いだけなんです。周りからは出来すぎたストーリーだと言われました。
文化庁から小牧山城で織田信長が築城した石垣についてさらに調査を進めるよう指導があり、もはや歴史に名を遺す発掘作業となっていきました。小さな点を見つけるために、日々地道な作業を繰り返す埋蔵文化財の発掘ですが、その点と点が繋がった時、歴史は私たちに様々な事実を伝えてくれます。
歴史上の言い伝えが事実になる瞬間に立ち会う
-小野さんが発掘調査を行って、改めて気づかされることはどんなことでした?
小野:「信長公記」に、犬山城の支城であった小口城にいた城主織田信清(信長の従兄弟)や家臣たちが、出来上がる様を見て、本城(犬山城)に逃げ帰ったということが書かれているんです。それを最初に読んだ時、城ができる前に攻め込む方が有利なのに、城を見て逃げるなんて、話を盛ってるな~と思っていたんです。でも当時、土の城しかなく、石の城など誰も想像できない時代に、みるみるうちに要塞のような石垣の城郭が出来上がったら。ただただ恐ろしく、逃げ出すのもわかる気がしました。信長が何度攻めても落ちなかった小口城ですが、城を築いたことで攻めずとも、一つの城を落とせたというのは、新たな成功体験になったのではないかと思います。それが、その後の岐阜城、安土城への築城にも繋がるのではないかと思いました。
さらに小野さんは、すぐそばでそれを見ていた家臣、木下藤吉郎(豊臣秀吉)にも影響を与え、築城における戦略を得たのではと語ってくれます。
小野:秀吉の小田原攻めは、石垣山一夜城という城塞を目と鼻の先に突然現すことで、小田原城を落城させました。信長の小牧山城築城の経験が小田原城攻めの一夜城の構想に繋がったのではないかと思うんです。お城そのものが抑止力となり得る。戦わずして威力を放つ築城を知って、自己の力を発揮させる手段としたのではないでしょうか。
小牧山城という小さなお城が、城造りの起点、支配への布石、時代への転換に繋がったことを考えると、わくわくを超えて、武者震いしてしまいます。毎年、半年以上かけて発掘調査を行っている小野さんの話は、お城にまつわる数々のエッセンスといい、まだまだ計り知れない史実があり、期待に胸が膨らみます。
-最後に小野さんにとって発掘調査はどんなものだと思いますか。
小野「日々『宝物』を見つける調査です。それは『私たちの歴史』という宝物です。実際に発掘場所から出てくるのは、土器のかけらや人骨、住居の痕跡などで、それらだけでは当時の社会の様子は見えてきません。担当調査員がそのとき持てるあらゆる知識と経験を動員し、検討を繰り返すことで、始めて遺跡は歴史を語り出してくれるのです。私は考古学を通して、その誠実な聞き手でありたいと思いますし、それが新たな歴史の『発見』に繫がると思っています」
お城は、荘厳な天守の城だけではなく、石垣や堀、土塁などの城址だけであっても、そこに立つだけで何百年もの時を経て、何かを感じ取れるような気がします。それは日本人の目に見えない文化を大切にする心ともいえます。日本には、何万という城があったといわれ、それは一つの村に一つの城といえるほどの数でした。小さな歴史への入り口は、案外近いところにあるのだと気づかされます。皆さんもぜひ、近くの城跡を探して、訪ね歩いてみてはいかかでしょうか。
■れきしるこまき-小牧山城史跡情報館―
2019年4月25日にオープンした「れきしるこまき」は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、それぞれの築城の歴史や小牧山城にまつわる史跡発掘の展示や石垣のシュミレーション動画など、小牧山城をはじめ、尾張・名古屋の城にまつわる歴史まで、映像や模型でわかりやすく紹介しています。小牧山城山頂にある小牧山歴史館と合わせて、見て、楽しんで学べる施設となっています。
◇所在地 小牧市堀の内1丁目2番地
◇電話 (0568)48-4646
◇入場料 一般100円 団体(30人以上)60円
◇開館時間 午前9時~午後5時(入場は午後4時30分まで)
◇休館日 第3水曜日・年末年始(12月29日~1月3日)
◇駐車場 小牧山北駐車場(100円/30分、ただし最初の2時間は無料)
れきしる小牧こまき 公式サイト
史跡小牧山 公式サイト