2019年4月1日。新元号の発表に、朝からそわそわしていた人も多いのでは。額縁に入った墨書を菅義偉内閣官房長官が恭しく掲げたのは、「令和」の文字。
「これって平成のときと同じ発表だ」。1989年「平成」の新元号発表当時、中学生だった私の記憶がよみがえりました。インターネットがない当時、家族で食い入るようにテレビの画面を見ていました。
そこで疑問に思ったのが、平成以前はどのように新元号を発表していたのかということ。
ということで、明治以降の新元号の発表にまつわるこぼれ話を紹介します。
前代未聞! 「明治」はくじ引きで決められた!?
慶應4~明治元年
1867(慶應3)年江戸幕府が倒れ、天皇を中心とした新政府がさまざまな政策を打ち立てます。そして人心を一新させるために、「改元」が行われました。
元号は通常候補から議論の上選びますが、このときは何と「くじ引き」で決められました。
明治神宮のwebサイトには、
「…明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶應四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしこどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。」
「くじ」は元々神のお告げを聴く神事の1つであり、古代の日本では頻繁に取り入れられていました。王政復古の大号令により700年以上振りに天皇に政権が戻るのを機に、初心に帰るという意味で、くじ引きが採用されたのかもしれません。また後の明治天皇となる睦仁親王は、当時16歳。元服を直前に済ませた「成人」ですが、まだ自分の意思で決めることに不安だったとも想像できます。ちなみに「くじ引き」によって新元号が決められたのは、後にも先にもこのときだけです。
そしてこの「明治」への改元に合わせて、天皇一代の間は一元号とする「一世一元の制」が立てられます。これがのちに、ややこしい問題になるとは誰も思わなかったのでしょうね。
このころの庶民のメディアといえば、「瓦版」。明治時代に入り新聞が登場しても、20年近くは残っていたらしいので、これを通じて情報を得たのでしょう。
1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法と同日に(旧)皇室典範が制定されます。この中の第二章「践祚即位」第12条に以下の文言が見られます。
「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の制定に従ふ」これが元号の法的根拠となりました。
現代ではありえない!? 新聞社が新元号の読み方を誤報
明治45~大正元年
1912年7月30日、明治天皇の崩御により同日以後を大正元年とする旨の改元の詔書が、枢密院から発せられました。
候補の元号案として、「大正」「天興」「興化」の3つが挙げられました。
このころになると新聞は庶民に広く読まれるようになり、新聞でも明治天皇の崩御と「大正」への改元は大きく取り上げられます。
しかし、東京日日新聞(現毎日新聞)は、7月30日付で「大正」の初報を「たいしやう」(旧仮名遣い)ではなく「たいせい」と誤報してしまいました。しかし翌8月1日付では何事もなかったかのように「たいしやう」と記しています。
しかし、この誤報は序の口でした。
大スクープになるはずが……世紀の大誤報「光文事件」
大正15~昭和元年
1925年12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その数時間後、東京日日新聞(現毎日新聞)は午前4時に号外を出し、「新元号は『光文』」と発表。しかし、午前11時に宮内省が発表したのは「昭和」。完全な誤報でした。「世紀の大スクープ」になるはずが、「世紀の大誤報」と後世に受け継がれることに。
こうなった理由には、2つの説があります。1つは記者が間違った情報を仕入れた説。もう1つは、「光文」で決まっていたのに、情報が漏れたので「昭和」に差し替えた説。
今となってはどちらの説が本当か、わかりません。
しかし、昭和と共に最終候補となったのは「元化」と「同和」で、「光文」はありません。
これら宮内省の案とは別に、内閣も元号案をまとめていました。その中の1つに「光文」は見られます。実際に新元号の作成を進めたのは宮内省で、内閣の案はその後候補から外されました。内閣案の1つが選定作業中に漏れたのを、記者がそのまま報道した説が有力かもしれません。
戦後、法的根拠をなくした元号
1945(昭和20)年、終戦。GHQの指令の元、日本国憲法が制定され、天皇は「象徴」の位置づけに。それに伴い、1947(昭和22)年皇室典範も改定されます。ここで12条に当たる元号の規定はなくなり、元号は法的根拠のない「慣例」として、公的文書や新聞などで用いられます。
その後、1959(昭和34)年の皇太子(現上皇)のご成婚や、1976(昭和51)年の天皇即位五十周年式典などの行事が行われるたびに、「昭和が終わったら元号がなくなるかも?」と国民の不安の声が上がりました。
そこで1976年に世論調査を行ったところ、国民の87.5%が普段は元号を使っていると回答。これにより、元号についての法律を制定しようという動きが出てきました。
「元号法」の制定
元号法は、1979(昭和54)年、6月12日に公布、施行されました。
いたってシンプルなもので、以下の2条で構成されています。
第1条 元号は政令で定める。
第2条 元号は皇位の継承があつた場合に限り改める。
これにより、元号に法的根拠が再度認められました。また、第2条により明治以来の「一世一元制」も改めて確認されています。
初めてのテレビ放送でリアルタイムで「見せる」 を実現!
昭和64~平成元年
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が崩御。同日、「元号法」施行後初の新元号、「平成」が発表されました。
小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた墨書を掲げたのですが、これは小渕氏自身のアイディア。初めてのテレビ放送のもと、「見せる」ことで正確に伝わるようにしました。
発表直前に「辞令専門官」河東純一氏(当時)にひそかに指示し、河東氏が予備を含めて2枚したためました。小渕氏はそのうちの1枚を持参し、記者会見にのぞみました。
その後、発表に使われた原本は竹下登首相(当時)宅へ、予備は小渕氏宅に保管され一般には行方不明となっていました。
ところが、竹下元首相の孫でタレントのDAIGOさんがテレビ番組で、平成の書が竹下家にあると暴露。国立公文書館が竹下家と連絡を取り、2010年3月に寄贈を受けました。
1989年当時は公文書を管理する法律がなく、首相と発表者の官房長官にひとまず保管していただこう、という感じだったのでしょうか?
インターネットでも見られる時代に
平成31~令和元年
2016(平成28)年、天皇陛下(現上皇)は、(生前)退位の意向を示唆されました。さまざまな議論を経て「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(天皇退位特例法)」が可決され、それに基づき天皇の退位に伴う皇位継承と改元が行われました。
元号を改める政令(平成31年政令第143号)の附則には、「この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する」と、例外的な措置であることを記しています。
これまで事前発表ということはなかったのですが、国民生活が混乱しないようにと、2019年4月1日発表、5月1日改元となりました。
さて、新元号の発表は、「平成」と同じように「墨書」を掲げる形になりました。前回と異なり、2011年に「公文書等の管理に関する法律」(通称:公文書管理法)が施行されたことで、事前に公文書として扱われることが決まっていました。
テレビや新聞だけでなくインターネットも登場し、あらゆる場所で瞬時に情報が得られるようになりました。
「平成の書」「令和の書」が見られる国立公文書館は、無料の知的スポット
さて、「平成の書」「令和の書」が「特定歴史公文書」として永久保存されているのが、国立公文書館。行政機関などの公文書のうち歴史資料として認められたものを保存管理し、無料で一般公開しています。公文書館というと、古本屋や図書館のようなイメージを持つかもしれません。実際は、展示室に公文書がすっきりと見やすく並べられている、小さな博物館です。日本国憲法など、教科書で見たことあるものが多数あります。
特別展や企画展も開催。「時代を超えて輝く女性たち」「災害に学ぶ」「病と医療」など身近なテーマも多く、公文書は堅苦しいものではないと、思っていただけるでしょう。
「平成の書」「令和の書」のレプリカは常設展示されています。さらにミュージアムショップには、「平成の書」のクリアファイルが販売。小渕氏のようにポーズをきめて、写真を撮るのもよし。
東京メトロ「竹橋」駅から徒歩5分の、皇居のお堀沿いにある国立公文書館。近くには東京国立近代美術館や科学技術館もあり、知的な一日をすごすのにおスメスポットです。
国立公文書館 基本情報
館名:国立公文書館
住所:102-0091 東京都千代田区北の丸公園3-2
開館時間:9:15~17:00
休館日:日曜日(特別展、企画展開催中は無休)
公式webサイト
参考文献