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2020.06.11

御成敗式目にも「誹謗中傷の罪」があった!?鎌倉時代の法律では島流しなどの重罪だった

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「不悪口(ふあっく)」
乱暴な言葉を使ってはいけないという仏教の教え。

最近SNSでは「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何かという議論が巻き起こっています。

子どもの頃から「悪口をいってはいけません」と教えられていて、法律上でも「名誉棄損罪」や「侮辱罪」などは明確に取り締まられています。

SNSが発達する以前からも、心ない誹謗中傷によって傷つけられた人が多くいました。

それは現代人だけではありません。

屈強なイメージのある中世の武士も、やはり悪口を言われたら傷ついていたのです。

御成敗式目の「悪口の罪」

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代の前期に作られた鎌倉幕府の法律です。

承久の乱に勝利し、鎌倉幕府が行使できる権力が拡大すると、武士たちの統率を取ることが難しくなり、それまで不文律の「慣習」としていたものを「法律」として明文化する必要がありました。

そこで、3代目執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)が定めた51条の法律が御成敗式目です。その後、武士の守るべき心構えとして、江戸時代まで適用されました。

悪口の罪は以下の通り。

第12条 悪口(あっこう)の咎の事
争いや殺人事件の元となるので、悪口を禁止する。重い悪口は流罪とし、軽い場合でも逮捕して牢に入れる。裁判中、悪口を言った場合は負けとなる。また根拠なく訴えた場合は領地を没収し、領地が無い場合は流罪とする。

これは現代の法律と比べると、ずいぶんと重い罪です。

当時は倫理観が現代と異なるので、口喧嘩が殺傷事件に発展することがよくありました。

けれど、現代の口喧嘩が殺傷事件に発展する事がないのかというと「全くない」とは言い切れません。

今まで特にトラブルに巻き込まれた事がない人でも、無神経な一言にムッとして、時には拳をそっと抑えたり、出かかった暴言をぐっと飲みこんだりしたことは、1度や2度ではないはずです。

それができるのは現代のより洗練された「道徳観」「倫理観」もありますが、なによりも「個人の安全が法によって保障されている」からです。

中世はそうではなかったので、安全を脅かされたら相手を排除しない限りは安心できません。

侮辱されたら、徹底的にやり返さないと「あいつはやり返すだけの力を持っていない。つまり領地や財産を簡単に奪える!」と見られてしまいました。

そこで「侮辱されたら相手が悪いってちゃんとルールで決めたから、武力で争わずに、きちんと裁判で争おうね! 執権との約束だよ!」というのがこの条文です。

中世日本人は裁判大好き!

裁判所というのは、公平な立場から双方の訴えを聞いて、法律に基づいて正しいのか正しくないのかを判断し、法に違反していればどのような罰則が適当かを定める場所です。

日本では「犯罪者が裁きを受ける場所」というイメージが強いからか、一般人が気軽に利用できる場所ではないと認識している人が多いでしょう。

けれど、中世の日本人は某訴訟大国並みに、何かあればカジュアルに裁判所に訴えています。そりゃ中世武士も武力で争って死者を出すよりも、話し合いで平和に解決できるなら、それが良いに決まってますよね!

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、多くの裁判の様子が書かれているので、私は判例集のような側面もあったんじゃないかなと思っています。

その中に、とても面白い記録があります。

それは反論じゃなくて、ただの悪口でしょ!

源平合戦が終わると、頼朝は戦の被害にあった東大寺の復興に力を入れていました。しかしその復興費用で、とある僧が付近の民衆たちに施しを与えているという告発が、頼朝の元に届きました。

頼朝は「経費に民衆への施しは含まれていない。これは横領ではないか」として、その僧に弁明を要求します。

そして建久9(1193)年7月28日、その返事が来ました。

「いやぁ、誰かが私に逆恨みしたんじゃないですか? 私を訴えた連中は、きっと仏から見放されて無間地獄へ落ちるでしょうね!」

奈良県立博物館蔵『地獄草紙』

頼朝はこれに「全く弁明になっていないし、悪口しか書かれてないじゃないか」と怒りました。

「地獄に落ちろ」は現代でもシンプルに悪口ですし、ましてや当時は地獄に落ちることは武士にとっても恐怖でしたので、僧侶から言われれば相当なショックだったでしょうね。

悪口を言われたというのなら、証拠を出しなさい!

ルールが決まれば、そのルールを利用して相手をやりこめようとする、悪知恵が働く人も出て来ます。

「あいつがオレの悪口を言った!」ということで、裁判を起こそうとする人が出て来ました。しかし「言った・言わない」の争いは不毛なことこの上ないのは、誰もが経験したことでしょう。

そこで御成敗式目では「証拠がないなら訴えちゃダメ」というルールも定めました。

その判例となりそうなのが、寛元3(1245)年12月25日のエピソードです。

とある武士が「オレの裁判の相手が、裁判中に裁判官の悪口を言っていた!」と訴えました。

当時、裁判中に悪口を言った者は、その時点でどんなに有利だったとしても、ただちに負けとなってしまいます。
しかし、訴えた武士はその裁判で不利な状況が続き、ほぼ負けが確定したタイミングだったので、本当に悪口があったのか裁判所は怪しみました。

しかし当時は録音機器などあろうはずもありません。

そこでその裁判の聴衆となっていた利害関係のない証人を探し出し、確認したところ「悪口は言っていない」と証言したので、訴えた武士は逮捕されてしまいました。

訴える側が証拠を提出しなくてはないらないのは、現在でも同じです。
罪をでっちあげて相手を陥れることは、現在でも「虚偽告訴罪」「名誉棄損罪」という犯罪とされていますね!

誹謗中傷と批判と反論

SNSの発達により、多くの人の「言葉」を目にする機会が多くなりました。
また日本は言論の自由が保障されているため、誰でもどんな言葉も自由に発言できます。

例えその発言で誰かを傷つけてしまっても、中世のように社会から追放されたり、生命を脅かされる事はありません。

だからこそ、今一度自分自身の発言を顧みる必要があります。

日本人は議論や討論に慣れていないとよく耳にします。自分とは違う意見と対立するのを避けがちで、批判・反論を人格への否定と受け取ってしまう人や、批判や反論に人格否定を混ぜて発言する人もいます。

本来の議論・討論とはどのようなものなのか。それは「意見の違う相手と相互理解を目指す事」だと思います。

お互いの意見をぶつけ合って出た結論が「相手の考えは理解したが、やっぱり相容れない」というものでも構いません。「相手の考えが理解できない」状態よりも、格段に進歩している状態だからです。

意見が違うことは理解し認め合えないことではないし、理解するということは自分の考えを捨てて相手に同調するというわけではありません。

誰もが誰かに向けて自由に言葉を発信できるSNSでは今、「誹謗中傷」とは何か、「反論」「批判」とどう違うのかが取沙汰されています。

現代人からたびたび野蛮だと揶揄される鎌倉武士でさえ「健全な議論」の実現を目指していたのですから、それから800年も経った現代人なら、きっと実現できるはずですね!

裁判は被害者側が大変!?現代の誹謗中傷の悪質さを知るには!


誹謗中傷犯に勝訴しました ~障害児の息子を守るため~ (BAMBOO ESSAY SELECTION)

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
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13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)