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2020.01.16

終戦の日にも磨かれて。日本で現存するのは一機のみ、戦闘機「飛燕」の数奇な運命

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薄暗い照明の中で、ひっそりとたたずむ戦闘機。
急に主翼に描かれた「日の丸」が消え、くすみがかった銀色の機体だけが残る。なんだか、不思議だ。戦闘機なのに、戦闘機ではない。ただの飛行機に見える。いや、飛行機というよりは、オブジェのような芸術作品といった方が近いかもしれない。

私には、正直これが何かもわからない。どのような性能の戦闘機なのか。終戦後にどうしてこの場所で展示されるに至ったのか。全く知識がない。にもかかわらず、自ずと足を止め、耳を澄ましてしまう。何かが聞こえてくるような、そんな得も言われぬ存在感が、この戦闘機にはあるのだ。暫くすると、突然、機体の横に「日の丸」が現れた。よく見ると、銀色と思っていた機体は、これまでに施された全ての塗装がはがされたあとだと分かる。日の丸は照明で作り出されたもので、本来はむき出しの機体なのだ。

太平洋戦争中に使用された旧日本陸軍の戦闘機、その名も「飛燕(ひえん)」。日本国内で唯一現存する「三式戦闘機二型」である。戦時中に岐阜県各務原(かかみがはら)において、約3,000機と一番多く製造された飛行機でありながら、残ったのはこの一機のみ。今回は、この「飛燕」がたどる数奇な運命を追いながら、歴史にどう向き合うかを考えたい。

三式戦闘機二型「飛燕」とは?

訪れたのは、岐阜県各務原市にある「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」。「空博(そらはく)」の愛称で親しまれている専門博物館である。

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館

「この『飛燕』は、液冷式エンジンを搭載した戦闘機で、国内で唯一現存している一機です」
こう話すのは、同博物館学芸課長の竹村宗近(たけむらむねちか)氏だ。

竹村宗近(たけむらむねちか)氏

「飛燕」は左右一対の主翼構造となっている。当時の戦闘機の多くが、左右の主翼は別々だったことからすれば珍しい。また、重心移動にも優れ、旋回性能も高い。時速510キロから530キロが当時の戦闘機の最高速度だが、昭和16年(1941年)に「飛燕」が初飛行したときは、590キロを記録したという。じつに優れた戦闘機なのだ。見た目はスッとしたシルエット。空気抵抗の少ない設計の胴体と、細長い主翼が特徴的だ。戦時中は、実際にB29爆撃機の迎撃を行っていたのだとか。

陸軍 三式戦闘機二型「飛燕」(川崎キ61-Ⅱ改)17番目に作られた機体

「じつは、昭和18年(1943年)、液冷式エンジンを採用した『飛燕』が制式採用されました」

当時の飛行機のエンジンは、車と同様にガソリンを燃焼して運動エネルギーに変える仕組みのもの。バイクのエンジンのように、むき出しで直接風に当てて冷やすタイプのものが「空冷式」エンジンだ。これに対して、「飛燕」のエンジンは「液冷式」。エンジンの周りに水管を通して水などで冷やす。ドイツのダイムラーベンツ社より、川崎航空機が液冷式エンジンのライセンスを取って、製造したという。このエンジンが『ハ40(ヨンマル)』である。これを搭載したのが一型だ。

「このときのエンジンは1100馬力。当時の戦闘機は600キロを目標にしていたので、川崎航空機(現在の川崎重工)が改良して馬力アップを図ります。具体的には、1400馬力まで高めてエンジンを改良します。それが『ハ140(イチヨンマル)』。搭載したのが、この二型です」

川崎ハ140エンジン(液冷式)

つまり、この「飛燕」は、液冷式の改良エンジンを積んでいたことになる。そんな二型だが、生産はというと順調ではなかった。なかなか原材料のニッケルが手に入らず、液冷式のエンジンが完成しても、その審査が突破できない。そのため、機体だけがどんどん完成するが、エンジンが間に合わないという状況に陥っていた。記録では、昭和19年(1944年)12月までに229機の機体が完成するも、飛行試験を完了して納入されたのはゼロだったという。ちなみに当時、「飛燕」の首なし機体が、現在の国道21号線沿いに一時は300機近く並ぶという光景もあったようだ。

「最終的に、陸軍は戦闘機が欲しいので、機体設計は一緒で空冷式のエンジンを積ませます。これが最後の制式戦闘機となりました。」

やむにやまれず昭和20年(1945年)、エンジン未搭載の首無し機体の多くに、空冷式のエンジンを搭載し、「五式戦闘機」として再生する。結果的に、液冷式の改良エンジンを積んで完成した三式戦闘機二型「飛燕」は、希少価値が高くなった。そのため、一型の「飛燕」は特攻でも使われていたが、この二型に限っては内地で使われることになる。

決して奢らず感謝し続けた設計技師、土井武夫氏

さて、この「飛燕」の設計技師だったのが、土井武夫(どいたけお)氏。特攻として有名な「零戦(ぜろせん)」の設計技師、堀越二郎(ほりこしじろう)氏とは、東京帝国大学工学部航空学科の同級生だ。会社は別だったので、ライバルであり親友でもあったという。

大学卒業時の写真 左から2番目が土井武夫氏、右から2番目が堀越二郎氏

木工やブリキ細工が大好きで、飛行機にはあまり興味がなかった土井少年。しかし、掲示板の大学入試案内を見て、東京帝大に「航空学科」があるのを知る。早速、願書を出したところ見事合格。大学卒業後は、飛行機製造の最先端である川崎造船所飛行機部に入社する。

当時は、ドイツの有能な飛行機技師が祖国を離れ、その多くが日本に招聘されていた。というのも、第一次世界大戦で敗戦したドイツは、ベルサイユ条約により、軍用機の製造が禁止されていたからだ。土井氏も、運よくドイツ人技師リヒャルト・フォークト氏から直接指導を受けることができ、日々鍛えられていく。そうして、ようやく結果を出せたのが、昭和8年(1933年)。土井氏28歳のとき、初めて単独で設計主務を担当することとなる。

土井武夫氏

日本で最も多くの飛行機を設計したといわれている土井武夫氏。なかでも、戦時中において、この「飛燕」を完成させた功績は非常に大きい。土井氏は、速度性能を最も重視していたが、主翼面積を小さくすれば旋回性能が劣化するというジレンマに陥っていた。これに対して翼長を伸ばして、速度、運動性能ともに高度な戦闘機を作り出すことに成功する。

「土井武夫さん、時の陸軍大臣、東條英機(とうじょうひでき)から『陸軍技術有功章』として表彰され、勲章と賞金ももらっているんです」

現在でいえば相当な金額だったとか。ただ、親族は誰も知らなかったという。どうやら、川崎航空機に勤めていた方、お一人お一人を招待して食事をし、残ったお金で国債を購入。課長職以上の方に一人ずつ配って『皆さんのお陰です』と言われた、そんな逸話も残っている。

「各務原のモノづくりの魂の一つといえます。表彰状をみると、線が入ってますね。二つ折りになっていたんです。これは、お亡くなりになった後、ご家族の方が整理をしているときに、整理棚の中から二つ折りにしまわれた表彰状を発見なさったんです。そこで初めてご存じになりました」

陸軍技術有功章の表彰状

ご家族の方も「親父らしい」といわれたとか。自分だけが作った実績ではない。決して奢らず人への感謝を忘れない。なんとも、土井武夫氏の人柄がにじみでるような話である。そんな土井氏も戦後7年間は、GHQの「航空禁止令」により、航空機の研究、生産、飛行は全て禁止され、非常に辛い期間があったようだ。しかし、その後は国産旅客機の国家プロジェクトに携わり、後進の育成にも尽力した。平成8年(1996年)、享年92歳でこの世を去っている。

終戦の日にも磨かれて

さて、それでは、土井氏が作った「飛燕」はどうなったのか。

「当時は毎日東京でB29の爆撃があって、『飛燕』も上空へ上がっていたようです」

川崎航空機の技師がメンテナンスのために一緒に飛行場まで同行し、万全の状態で飛べるように整備をしていたという。毎日、1万メートルまで上昇して空戦し戻ってくる、その繰り返しだったようだ。実際の飛行データは軍部にフィードバックされていた。

「8月15日、終戦当日もピカピカに磨かれて、万全の態勢で朝に出発する準備をしていた機体です」

終戦後、日本の飛行機は悲惨だった。GHQにより、戦闘機や爆撃機などすべてガソリンをまかれて燃やされ、タンクで圧し潰された。いわゆるスクラップ処分だ。この「飛燕」は処分されぬまま、しばらくの間、米軍の横田基地で保管されていたようだ。その後、昭和28年(1953年)、占領軍が撤収する際に「飛燕」は返還される。引き取り手になったのは「日本航空協会」だ。ただ、引き取ったのはいいが、敗戦したばかりなので格納庫もない。「飛燕」をどうしたのか。

「『戦争で悪いモノ』なんですが、日本国民にとっては、やっと技術面で欧米に追い付き、B29爆撃機を打ち落とした高揚心あふれる機体でした。そのため、『見世物』にされるんです。デパートや百貨店が開店すると、屋上に運ばれて見世物にされる、スーパーのバーゲンがあると、駐車場に運ばれて見世物にされる。十数年、悲しい運命をたどります」

ちなみに、「飛燕」をよく見ると、主翼に展開するための可動部分があり、その根元が切られている跡がある。運ばれて組み立てられて見世物になる。また切られて組み立てられての繰り返し。それは「飛燕」がたどった悲しき運命の痛々しい証拠なのだ。

悲しき運命の飛燕のその後

その後の「飛燕」はというと、縁あって、昭和61年(1986年)より、知覧特攻平和会館(鹿児島県)で展示されるようになる。そこで静かに幕を閉じる予定だったが、まさかの「飛燕」を作った現在の川崎重工から、復元の申し出がなされたのだ。というのも、創立120周年事業として、「飛燕」を里帰りさせようとのプロジェクトが立ち上がったという。平成27年(2015年)に、ようやく川崎重工岐阜工場(各務原市)に里帰りし、約1年かけて修復がなされる。かかった費用は川崎重工が負担し、現在の姿へと戻された。

なお、復元は難航したという。日本には残された資料が少ないからだ。オリジナリティを失わず、戦後に加えられた無関係な改変箇所を取り除き、本来の姿に戻す。そのため、イギリスに保管されている兄弟機を調査し、3D計測など最新の技術を用いて、プロジェクトは進められた。こうして、里帰り後は、平成30年(2018年)3月より、リニューアルしたこの岐阜かかみがはら航空宇宙博物館にて常設展示されているというワケだ。

ネジは、空気抵抗にならないように頭を出さない特別な打ち方がされている。ただの金属ねじが90か所埋め込まれていたのを全て取り除いた

ボコボコしたのは傷ではない。木型や金型だった翼の局面に板を当てて、木槌や金槌で叩いて延ばしたあと

ジェラルミンという軽い金属を使用しているが、機銃の発射で溶け落ちるため、この部分のみ鉄を使用している。錆びて変色している

翼が動くため隙間ができる。隙間を埋めるために比重の軽い木材が使用されている

翼の可動域の部分には麻布が張られ、軽量化されている

博物館では、集めた部品を再度組み立てた計器盤の展示もされている。じつは、アメリカ軍にとって「飛燕」はライバル。GHQによって米軍基地に保管されていた際に、多くのパイロットが「飛燕」を見学しに来たのだとか。その際に、計器盤などの部品の一部を取り外して、土産として持って帰ってしまうパイロットが相次いだという。

日本には、計器盤の資料がほとんどないため複製は難しかったが、逆にアメリカ側には多くの部品が残っていた。そのためコレクターなどから少しずつ取り戻し、ようやく復元までこぎつけたという。なお、展示の計器盤は、実際に同じ機種のものだが、別の複数の機体から部品を寄せ集めて、リビルドしたもの。レプリカではなく、全て本物だ。

三式戦闘機一型乙「飛燕」計器盤(リビルドしたもの)

「ある意味、戦争のモノですが、敗戦からの復興の時代を支えた産物でもあるんです」
それにしても、どうしてこの「飛燕」のみ処分されなかったのか。今となっては謎のまま。現在は、経済産業省が認定する「近代化産業遺産群」の一つとされている。

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の存在意義

復元された「飛燕」をはじめ、航空機の歴史を支えた貴重な名機が、この岐阜かかみがはら航空宇宙博物館には多く展示されている。

多くの機体が、時系列に展示されている

屋外にも展示されている

どうして、各務原なのか。
もともと、岐阜県の各務原市は、幕府の直轄領だった。ただ、御嶽山の火山灰により13メートルほど高い台地となっており、酸性の土壌のために作物には適さない土地だった。明治9年(1876年)に陸軍の砲兵練習場となるも、大砲の実弾が演習場外へ飛び出し、やはり練習場にも適さない。そこで、大正6年(1917年)に、埼玉県所沢市に次いで、日本で2番目となる飛行場が開かれる。

各務原は「空都(くうと)」と呼ばれていた。プロジェクションマッピングで分かりやすく説明がなされている

飛行場だけではない。この各務原市は、飛行機の材料となる檜(ひのき)などが手に入りやすく、加えて飛騨高山の宮大工や指物師など、木材加工に優れた作り手が揃った土地でもあった。こうして、各務原は土地の特性が認められ、陸軍の飛行場となり、また川崎造船所(のちの川崎航空機)の生産場所となっていく。その後、各務原で多くの飛行機が生産され、初飛行が繰り返された。ちなみに、所沢の飛行場はすぐに閉鎖され、この各務原飛行場は、現時点で、最古の飛行場となっているのだとか。つまり、この各務原こそ、航空機の歴史にふさわしいうってつけの場所だといえる。

「じつは、この博物館は『飛鳥(あすか)』を展示することが目的で作られました」

「飛鳥」

「高揚力の試験機の集大成が『飛鳥』です。500~600メートルの離着陸が可能。長い滑走路がいりません。大きな特徴はエンジンを主翼の上に配置し、排気を主翼上面に流して、揚力を高めたことです」

「飛鳥」は、昭和60年(1985年)10月28日に初飛行を行い、飛行回数97回、飛行時間167時間10分という記録を作り、平成元年(1989年)3月30日に飛行実験を終了した。NASAも興味を持って、NASAのパイロットが試験飛行しているほど。当時は、非常に大きなプロジェクトだったという。しかし時代は変わった。飛行実験を終えた「飛鳥」を筆頭に、様々な航空遺産となる名機の収蔵を目的に、この博物館が作られたのだ。

「飛鳥」

各務原で最初に量産された複葉機「乙式一型偵察機(サルムソン2A2)」

戦後に初めて各務原で設計・製造された航空機「川崎 KAL-1連絡機」

「UF-SX実験飛行艇」 着水に際してデータ取得のために、機体に方眼を描き写真測定をした(当時はビデオ撮影などできなかった)

 

博物館にはミュージアムショップが併設されている

竹村氏はこう話す。
「飛行機作りは、現場に入ればその意思は引き継がれていきますが、現場でない人に見えない世界です。だからマスコミに紹介したいし、小学校の社会見学のときにはアピールしたい。『車かっこいい、飛行機かっこいい』ではなくて、モノが作られ、それが人々の生活に様々なものを提供していく。これが大切だと伝えてきたいです」

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館をあとにして、ふと考えた。
それでは、どうして航空機を集めるのか。

海軍 十二試艦上戦闘機「零戦(ぜろせん)試作機」三菱A6M1

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の立ち上げに尽力された横山晋太郎(よこやましんたろう)氏は、著書『航空機を後世に遺す』の中で、このように説明されている。

博物館に展示されている航空機はそれ自体言葉を持たず発しない。当時の社会を、その歴史を記憶しているだけである。しかし人が航空機と対峙し、航空機に問いかけた時、語りかけた時、記憶装置にスイッチが入り、社会と歴史を語り出す。語る手助けをするのが博物館である。不朽の名作といわれる文学作品や美術作品を時を経て読み返し、鑑賞する時に新たな気づきや啓示が訪れるように、そのモノ自体、貌(かたち)は変わらないが、時に応じて人々に新たな視点を提示する。航空機も同じなのだ

なるほど。確かにそうだ。「飛燕」自体は変わらない。いつまでたっても三式戦闘機の「飛燕」だ。しかし、取り巻く環境は自ずと変わる。それは時代の流れだけではない。社会や人々の持つ価値感が大きく変化し、多様化するからだ。

そして、今の日本はというと「失われた30年」と揶揄され、未だ出口が見えずにいる。こんな「今」だからこそ、航空機は人々に新たな視点を提示する。人間の持つ「可能性」という視点だ。

この博物館に収蔵されている多くの機体は、過去に試験機として作られ、その都度、改良を重ね進化してきた。つまり、先人がトライ&エラーを繰り返してきた証でもあるのだ。並んだ機体には、目に見えずとも気の遠くなるような努力の積み重ねが刻まれている。それを知ることで、人は、どんな世の中であっても、人間の持つ「可能性」をほんの少し信じてみたいと思えるのではないだろうか。

「まだ、できる。まだ、やれる。」

物言わぬ機体たち。
だが、そっと背中を押してくれる、そんな気がするのだ。

撮影:大村健太

基本情報

名称: 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館
住所:岐阜県各務原市下切町5丁目1番地
公式webサイト:http://www.sorahaku.net/

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。