この30年の平成時代、コンスタントに雑誌をにぎわせた著名人は誰でしょう? そのうちの1人が「貴乃花光司」。こんなことがパッと調べられるのが、東京・八幡山にある民間の雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」。明治時代から国内で発行された約1万2000種類、80万冊の雑誌を所蔵しています。主要約300誌で取り上げられた著名人の雑誌記事を検索できるユニークな「人物索引」も作っています。デジタル雑誌が増えている今だからこそ、時代を彩ってきた紙の雑誌の魅力に触れてみたいと思い立ちました。そこで、普段は入れないバックヤードを見られる「迷宮書庫探検ツアー」に2020年1月参加して、雑誌の森をさまよってきました。
雑誌は世につれ「人名索引ランキング」
「口コミ」「恐妻家」という言葉。今ではすっかり一般的に使われていますが、元々は造語でした。考案したのは、舌鋒鋭い社会批評で知られた評論家・大宅壮一(1900〜70年)。大宅壮一文庫は、彼が遺した雑誌コレクションを引き継いで、71年5月に開館しました。
「雑誌には、庶民の生きた資料、時代の空気が記録されている。ごく一般の人たちがどんな興味や欲望、本音を抱き、どんな生活を送っていたのか。そういうことは、学術書を読んでも分からないと考えていたのでしょうね」
探検ツアーで案内をしてくれたスタッフの黒澤岳さんがそう話してくれました。今回のツアー参加者は、私を含め女性ばかり5人。最初に大宅の書斎を再現した応接室へ通されました。三方の本棚に書籍が所狭しと並ぶ中で、説明を受けました。
大学在学中から評論活動を始めた大宅は、「本は読むものではなく、引くものである」との考えから、資料や古書の収集にも力を入れたそうです。それらを踏まえた上で、「無思想人」として健筆を振るいました。
収集方針は、大宅の個人的な好みが反映されています。戦後直後の混乱期、大量に出回った大衆娯楽雑誌「カストリ雑誌」まで含まれる一方、漫画やスポーツ雑誌にはあまり興味を示さなかったようです。
雑誌記事の分類法も「大宅式」と呼ばれる独特のもの。人物情報は「人名索引」(現在では約15万人、300万件)、事件や話題になった出来事については「件名索引」(384万件)に分類して、資料を素早く探せるようにしたのです。索引作成は当初、カードが用いられていましたが、1990年代からはデータベース化され、Web版がネットでも検索できるようになっています。
例えば、「樹木希林さんが結婚生活について語ったインタビュー記事を読みた」」と思ったら、人名検索で「樹木希林」、キーワードで「結婚」、記事種類で「インタビュー」を入力すれば、お目当ての記事にすぐにたどり着けます。
「人物索引」件数のランキングをひもとくと、世の中の動きが見えてきます。平成元(1989)年の1位は「美空ひばり」。その年の6月に52歳で世を去った昭和の歌姫でした。平成31/令和元(2019)年までの30年間、トップ10に最多12回ランクインしたのは、雑誌に多くの連載を抱える作家「佐藤優」。2位は8回の「貴乃花光司」。そういえば「貴乃花」は婚約会見や破局、父の死、兄との確執、離婚と、土俵の外でもいろいろありましたね。
浮き沈みの激しいアイドルはどうでしょうか。「AKB48」は平成22(2010)年に初登場して以来、8年連続トップ10入りしてきましたが、平成30(2018)年に途切れ、人気の陰りを反映。その一方、躍進する「King & Prince」が平成30年からトップ10に仲間入りをしています。
Magagineを「雑誌」に訳した人は?
大宅文庫のもう一つの特色が、創刊号コレクションです。大宅は「その時代の最先端の人物が携わり、その時代の知識、考え方が凝縮されている」という信念から積極的に集め、現在では明治8(1875)年から現在まで約7000誌の創刊号を所蔵しています。それにならって、創刊号を拾い読みしながら、雑誌の歴史をたどってみます。
大宅文庫は、大宅が自宅に創設した資料室が基になっています。増改築を繰り返しているため迷宮のよう。閲覧室や検索室の奥に、来館者が入れない書庫が広がっていました。地下1階から地上2階にかけ全部で8室。細い階段や狭い通路をくねくね通って巡る途中、ガイドの黒澤さんとはぐれ、間違って事務室に入ってしまいました。
書庫には、床から天井まで雑誌がびっしり。圧巻だったのは、大宅が特注で作らせた週刊誌専用の木製書架で、現在も現役です。重さの余り、たわんでいる棚板も。2011年3月の東日本大震災の時は、ぎゅうぎゅう詰めのおかげか、書架は崩れなかったとか。
そもそも、「雑誌」という言葉は誰が名付けたのでしょう? それは日本最初の雑誌とされる『西洋雑誌』を、明治元年前年の慶応3(1867)年に創刊した幕末の洋学者・柳河春三(しゅんさん)です。「貯蔵庫」が原義であるMagagineの訳語に「雑誌」を当て、誌名としたのがきっかけでした。
それ以前は「宝凾(ほうかん)」や「志林」と訳されていたそうですが、どこか高尚な印象を受けます。「雑」を入れたところに、雑多な魅力を放つ雑誌の未来が予告されていたように思います。
『西洋雑誌』創刊号の編集後記には、マガジンのことを「マガセイン」と呼び、出版の目的については「廣く天下の奇説を集めて耳目を新たにせんが為」と書かれています。
明治維新を機に急速な近代化が推し進められていた当時、西洋から得た新知識を紹介する啓蒙雑誌が主流でした。福沢諭吉や森有礼らによる学術団体の機関誌『明六雑誌』をはじめ、洋行帰りの知識人や政治家が発行人でした。
商業雑誌の幕開けは、明治後半になってから。普通教育の普及で知識欲が高まったほか、出版社と書店をつなぐ出版取次業の形成、鉄道網の発達で、全国に雑誌が行き渡る仕組みが整備された土壌がありました。日清、日露の2度の戦争を経て、雑誌の創刊ブームが起こります。児童や女性、文芸と雑誌のジャンルも多様化しました。
現在でも刊行されている長命雑誌が発刊されたのもこの頃。明治20(1887)年に『中央公論』の前身の『反省会雑誌』、明治37(1904)年に『新潮』(新潮社)、明治38(1905)年には『婦人画報』(婦人画報社)が創刊されています。
関東大震災の年に創刊された『文藝春秋』
雑誌が一気に大衆化したのは、光と影に彩られた大正時代。第一次世界大戦(1914〜18)後の好景気で工業化と近代化が進み、市民意識が高まり、「大正デモクラシー」のもと、自由主義や社会主義などの思想、運動が芽吹きました。その一方で、好況から一転して起きた大正9(1920)年の戦後恐慌、大正12(1923)年9月1日の関東大震災が、社会的不安や混乱をもたらしました。
その関東大震災が発生した年の1月に、作家・菊池寛が月刊誌『文藝春秋』を創刊しました。菊池による有名な「創刊の辞」をご紹介します。
「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云つて見たい」
創刊当初は文芸雑誌でしたが、次第に総合雑誌に変わっていきます。座談会という新スタイル、巻頭随筆や論文、軽妙な読み物と、硬軟織り交ぜた巧みな編集で、出版界をリードしてきました。立花隆氏によるルポ「田中角栄研究ーその金脈と人脈」(1974年11月号掲載)で、雑誌ジャーナリズムの金字塔を打ち立てたのは有名です。
この他に『文藝春秋』のスゴさとは何だろう? 書架で出会った大宅文庫職員の下村芳央さんに伺いました。
「僕は軟らかさと硬さを兼ね備えていて、その中には芯があるのが雑誌の良いところだと思っています。その好例がこの2冊の『文藝春秋』ではないでしょうか」
下村さんが差し出したのは、大正12(1923)年11月特集号と、平成24(2012)年3月臨時増刊号。前者は関東大震災、後者は東日本大震災を体験した作家たちが寄せた「震災文章」が掲載されています。前者の「震災文章」には、菊池自身が「災後雑感」と題し、「地震は、われわれの人生を、もっとも端的な姿で見せてくれた。(中略)われわれは、生命の安全と、その日の寝食との外は何も考へなかった」と率直な思いをつづっています。この時の「震災文章」は2012年3月号に採録されました。2冊を見比べると、89年の時を経ても変わらない人々の生々しい証言が刻まれた長命雑誌の力を感じました。
雑誌界の『キング』 初のミリオンセラー
関東大震災の混乱を経て、文字通り、雑誌界に君臨する「王者」が登場します。大日本雄弁会講談社(現・講談社)の創立者・野間清治が、大正14(1925)年1月に創刊した総合雑誌『キング』です。
キャッチコピーは、「日本一面白い!」「日本一為になる!」「日本一安い!」。莫大な広告費をかけて大規模な販売促進を繰り広げました。354ページのボリュームがあるのに大量発行で価格を抑え、定価は50銭。当時だと並の鰻重ぐらいの値段だったそうです。
創刊号を手に取ってみると、なかなか「本編」が始まらないのにビックリ。発刊のお祝いや刊行物の広告、与謝野晶子ら「賛助会諸先生」の顔写真入りの名前がずらりと並び、ようやく「発刊の辞」にたどりつきます。そこには「燦たりキングの出現」のタイトルが躍り、「『キング』は雑誌界の王者(キング)である」と高らかに宣言。創刊準備に5年間を費やした野間の心意気が伝わってきます。
「一家に一冊」の編集方針で、万人向けに目配りしたラインアップ。高橋是清蔵相の随筆、貧農の息子が世界学界の大権威となった成功美談、童話に長編小説、家庭小説、落語と何でもあり。「百歳以上長寿者健康法競べ」では、「楽天主義で押し通した113歳女性」を紹介。イマドキの週刊誌に載っていてもおかしくない内容で、世間の関心事は今も昔も変わらないものですね。
私のお気に入りは、「世界珍聞新知識」コーナーのアメリカ・シカゴ市の動く人道(じんどう)の記事。今で言う歩く歩道」ですが、通行人が歩道に設置してある椅子に座って移動するのがミソ。速度が違う3種類の歩道がモーターでグルグル回っていて、好きな速度の歩道を選んで使えるというトンデモ設備。実用化されたのか、気になるところです。
創刊号は74万部を発行。創刊2年後の昭和2(1927)年1月号では、日本初のミリオンセラーを記録して、国民的雑誌となります。昭和3(1928)年11月号では発行部数150万部を突破。この『キング』の成功を見て、『平凡』(平凡社)、『日の出』(新潮社)など似たような総合雑誌が後を追いますが、王座はビクともしませんでした。
しかし、隆盛を誇った『キング』も、戦時色強まる時代の波には逆らえず、昭和18(1943)年、『キング』の誌名が敵性語であるとして『富士』への改題を余儀なくされました。「『キング』なら『王者』でしょ」とツアーの女性たちが突っ込んでいましたが。『キング』が並ぶ書架を見れば、雑誌の厚さが薄くなっていくのが一目瞭然。手で触ってみると、紙の質もどんどん粗悪になっていったのが分かりました。戦後、『キング』に再び誌名を戻しますが、勢いを取り戻せずに昭和32(1957)年に終刊しました。
『主婦之友』からアンノン族へ
昭和10年代、発行部数が100万部を超えていたのは3誌ありました。都市部で『キング』、農村部では『家の光』(産業組合中央会)が人気を集める中、女性たちに支持された『主婦之友』(のちに『主婦の友』と改題、主婦之友社)です。
『主婦之友』は大正6(1917)年2月に創刊され、良妻賢母の主婦向けに実用的な情報を提供していました。女性解放を唱えていた『婦人公論』(中央公論社)が「急進派」とすれば、『主婦之友』は「穏健派」といったところでしょうか。
復刻された創刊号の次号を広げてみると、グラビアで「恰好のよい丸髷(まるまげ)と銀杏返し」という日本髪の結い方を紹介。「家計の実験」の懸賞作文や「子爵家の花嫁の資格」、足袋の底の洗い方を載せた「主婦重宝記」コーナーなど。「女子供にも出来る有利な副業」として養蜂を挙げた記事も。筆者の表記は例えば「山田太郎氏夫人 花子」。女性の存在は、夫の属性で認知されていたんですね。
その中で目を引いたのが、「新婚の娘に送った母の手紙」という記事。家父長制家族制度の悪習を指摘しつつも、「堪へて行けるだけに、己れ自身を練ることが急務」。その上で「一々不平をいってゐた日には、とても生きて行かれるものにあらざれば、或る程度までは悪制度にも譲歩して、それに服従しているゆくだけの寛量と忍耐とが必要」と説いてます。今よりもずっと女性が生きづらかった時代。したたかに生き抜く術を、現実路線で伝えようとしていたのでしょう。そこにミリオンセラーになった秘密があるような気がしました。
『主婦之友』のほか、『婦人倶楽部』(講談社)、『主婦と生活』(主婦と生活社)、『婦人生活』(婦人生活社)が、4大婦人雑誌としてリードする時代が戦後まで続きます。
しかし、1970年代に入って女性の社会進出が進むと、若い未婚女性を対象とした女性雑誌『an・an』(1970年創刊、平凡出版、現・マガジンハウス)と『non-no』(1971年創刊、集英社)が次々と登場。これまでにはない旅やグルメ、カルチャー情報などを、カラー写真入りで紹介して一世を風靡、「アンノン族」という流行を生みます。
このうち、『an・an』創刊号を拾い読みしてみます。パリ、ロンドンを訪ねる旅行記が華々しく誌面を飾り、パリ・コレクションの最新モードを紹介。ロバート・レッドフォード特集やジャンヌ・モローら9人のスターへの「ちょっと意地悪な質問」も。欧米へのあこがれが色濃く出ています。三島由紀夫のエッセイ「女の色気と男の色気」も掲載されていて、「意識高い系」の印象を受けました。
その一方で、未婚女性に結婚前の貯蓄をPRする銀行3社の広告にふと目が留まりました。コピーを列挙すると、「わたしの王子さまは、どこにいるの…」「しあわせな結婚を夢みるあなたに(略)積立をおすすめします」「サインなれするころ 思いがけない幸せが訪れるかも」。自ら道を切り開く女性を打ち出す誌面づくりで時代を先取りしながら、広告では「白馬の王子様を待ちわびる女の子」。そのアンバランスさを包み込むところが、雑誌の面白いところです。
雑誌メディアの栄枯盛衰
話を戦後に戻しますと、新しい時代を迎え、出版界は、復刊・創刊ラッシュに。週刊誌といえば大正11(1922)年に創刊された『週刊朝日』(当初は『旬刊朝日』)、『サンデー毎日』の新聞社系2誌が草分けでした。そこへ昭和31(1956)年、出版社系の『週刊新潮』が新たに加わり、グラビア記事をトップに据えた誌面で新風を吹き込み、好評を得るや週刊誌ブームが起きます。
初の女性週刊雑誌として『週刊女性』(河出書房、のちに主婦と生活社)が昭和32(1957)年に発刊されると、『女性自身』(光文社)『女性セブン』(小学館)が続きました。スクープを連発している『週刊文春』(文藝春秋)と『週刊現代』(講談社)はともに昭和34年の創刊。それから10年後に『週刊ポスト』(小学館)が創刊されました。
ライフスタイルの多様化、生き方の選択の広がりなどから、雑誌ジャンルの主流は総合雑誌から、年齢・趣味に対象を絞り込んだ雑誌へと細分化。雑誌の銘柄は増えていきましたが、出版不況で2000年以降、雑誌の休刊・終刊が相次ぐようになりました。2008年に『主婦の友』も91年の歴史に幕を閉じ、四大婦人雑誌がすべて姿を消しました。出版科学研究所によると、雑誌市場(紙)は月刊誌、週刊誌ともに1997年の1兆5644億円をピークに右肩下がりで、2019年には5637億円まで減少しています。
雑誌メディアは今も苦境にありますが、「出版関係の人たちは知恵を絞り、情熱を傾けて奮闘していますよ。読んでいるとそう感じます」とツアーの案内人・黒澤さん。10数年ほど前からの新しい動きの中で「非常に面白い」と話すのは、豪華な付録がつく女性ファッション誌。「最近では、本誌の内容はほぼ同じなのに、通常号や別冊、臨時増刊号といろいろなバージョンが出ています。何でだろうと思ったら、付録を変えていたんです。なるほど、こういうやり方もあるのかなと感心しました」
実は、雑誌と共にある大宅文庫も、ネットの普及などで利用者が減って、経営難に直面しています。施設の老朽化に加え、年間1万冊ずつ増え続ける雑誌で「書庫もほぼ限界に近づいています」と黒澤さんは窮状を語ります。
そこで、大宅文庫では2019年8月に、個人や企業・団体などから広く寄付を募る支援組織「パトロネージュ」を新たに発足させました。
現在では、デジタル雑誌も人気ですが、紙媒体の雑誌ならではの良さがあると、黒澤さんは強調します。「読みたい記事だけではなくて、隣のページや表紙、広告に目をやれば、これまで関心外だったことに目を開くきっかけにもなります」
大宅文庫では、雑誌をまとめて製本化する合本にはせず、当時のままの姿で閲覧できます。「紙の雑誌は、デジタルデータではなく、モノとしてその時代の記憶を伝えることができます。証拠として残す必要があると信じています」と黒澤さん。そのためにも、施設存続への協力を呼びかけています。「大宅文庫のことをまず知って頂きたい。書庫探検ツアーも毎月やっているので、好奇心のある方、大歓迎です!」
あなたも今度、雑誌の森を訪ねてみませんか?
大宅壮一文庫
住所:〒156-0056 東京都世田谷区八幡山3-10-20
電話番号:03-3303-2000(代表)
開館時間:10:00 〜 18:00
入館料:一般(会員以外)500円(税込み)
「迷宮書庫探検ツアー」は毎月第2土曜日開催(先着10人、参加費無料)
「パトロネージュ」の入会方法など詳しくは、
大宅壮一文庫公式サイト
参考文献
『ミリオンセラー誕生へ! 明治・大正の雑誌メディア』 印刷博物館・編著 東京書籍 2008年
『雑誌100年の歩み 1874-1990 』 塩澤実信・著 グリーンアロー出版社 1994年
『岩波書店と文藝春秋 『世界』・『文藝春秋』に見る戦後思潮』 毎日新聞社・編 1996年
『〈主婦〉の誕生 婦人雑誌と女性たちの近代』木村 涼子・著 吉川弘文館 2010年