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2020.02.18

愛なき結婚?大富豪の美人妻が若者と駆け落ちした理由とは。柳原白蓮の恋と人生

この記事を書いた人

あなたに永遠のお別れを告げます。
私は、私の個性の自由と尊貴を守り培うために、
あなたのもとを離れます。

大正10(1921)年秋、世間を揺るがすニュースが報道されました。『大阪朝日新聞』に、とある女性の書いた絶縁状が公開されたのです。「愛なき結婚と夫の無理解が生んだ 妻の苦悩と悲惨の告白」と題された記事には、冒頭のような内容が記されていました。さらにこの記事の発表後、女性は大富豪である夫のもとを離れ、7歳下の男性と駆け落ちします。妻から夫へマスメディアを使った縁切りの宣言、そして駆け落ち。これはまさに、前代未聞の大事件でした。

出典:Wikipedia

事件を起こした女性でこの記事の主人公。彼女の名は、柳原白蓮(びゃくれん)。

NHKの連続テレビ小説『花子とアン』で仲間由紀恵さんが演じた蓮子のモデルと聞いてピンときた方もいるでしょう。白蓮は、歌人としてはもちろん「大正三美人」としても名高い美貌の持ち主でした。この記事では、明治から昭和にかけて熱く駆けぬけた、彼女の80年余りの生涯に迫ります。

柳原白蓮の幼少期

明治18(1885)年、華族である柳原前光伯爵とその愛人の間に生まれた、白蓮こと柳原燁子(あきこ)。生まれてまもなく正妻の娘として引き取られました。その後すぐに里子に出され、里親家族の愛情のもと自然豊かな環境で育てられます。

明治27(1894)年、燁子は10歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養子となりました。明治31(1898)年には、14歳で華族女学校(現在の学習院女子中等科)に入学。北小路家は経済的に苦しかったため、養父母は女学校入学に難色を示しましたが、燁子の強い願いから「(車を使わず)徒歩通学すること」を条件に実現したといわれています。

16歳、最初の結婚

実は、この養子縁組には理由がありました。北小路家は、燁子を息子である資武(すけたけ)の妻にする条件で迎え入れたのです。そんな条件など知らず、養子となった燁子。7歳年上の資武は、彼女が他の男性と同席するだけでも、嫉妬して手をあげるなど容赦無く暴力をふるう男でした。次第に燁子は資武の言動が恐ろしくなり、結婚を急がせる養父母に、泣いて抗議するようになります。そんな抵抗も虚しく、華族令とそれをもとに定められた「柳原家範」の管理下にある燁子。選択の余地はなく、明治33(1900)年、16歳のときに資武と結婚します。
間もなく妊娠した燁子は、念願の思いで入学した女学校を、わずか1年余りで退学することとなります。子育ては養父母に取り上げられ、暴力をふるう夫との間には愛情もなく、燁子は、孤独な生活を強いられたことでしょう。

北小路家時代、16歳の燁子。出典:Wikipedia

離婚、幽閉同然の4年間

結婚から5年後、燁子の訴えでようやく内情を知った柳原家と話し合いが持たれ、明治38(1905)年、ついに離婚が成立。21歳で実家に戻ります。

行くにあらず 帰るにあらず 戻るにあらず 生けるかこの身 死せるかこの身

燁子が詠んだこの歌に、当時の慟哭をうかがい知ることができます。

苦難の日々は、実家に戻ってからも続きました。燁子は「出戻り」として柳原家の本邸へ入れてもらえず、隠居所で監督下に置かれ、門外へ出ることを許されなかったのです。そんな幽閉同然の生活の中、唯一味方となってくれたのが、姉の信子でした。彼女の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、読書に明け暮れる日々が4年間続いたといわれています。

念願の学生生活

幽閉同然の生活の間にも、再び燁子の知らないところで縁談が進められ、燁子はついに耐えきれず、家出を決行します。その後すぐに連れ戻されますが、信子が燁子を庇い、兄の義光夫妻の元に預けられることになりました。
明治41(1908)年、燁子が24歳の頃。兄嫁の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院高等部)に編入学し、寄宿舎生活を送り始めます。望まない妊娠により、しかたなく女学校を退学した燁子にとって、2度目の学校生活は幸せに満ちていました。自分よりも若い同級生たちともすぐに打ち解け、中でも後に翻訳者となり『赤毛のアン』の翻訳でも知られる村岡花子とは特に親交を深め「腹心の友」となります。また、信子の紹介で短歌の「竹柏会(ちくはくかい)」に入門し、歌人としての一歩を踏み出しました。

27歳、2度目の結婚

明治43(1910)年、26歳の燁子に、またも予期せぬ縁談が持ちかけられます。縁談の相手は、九州の炭鉱王と呼ばれる伊藤伝右衛門(でんえもん)。話は当事者を抜きに、仲介の人々によって早々にまとめられたもので、お見合いの当日、燁子はそれが自分のお見合いであることさえ知らされていませんでした。しかも伝右衛門は当時50歳。炭鉱労働者からの叩き上げで、妻を亡くした直後です。燁子は身分も歳も大きく異なる伝右衛門に対して不安を抱きながらも、兄嫁たちの説得と「今度の結婚は、きっとうまくいくはず…」という淡い期待から、明治44(1911)年に伝右衛門と結婚します。大富豪とはいえ、地方の一介の炭鉱主が伯爵家から妻をもらうことは、前代未聞。『東京日日新聞』では、結婚式までの3日間にわたり、ふたりの細かい経歴などを書いた記事などが掲載され「華族の令嬢が炭鉱王の妻に!」と世間で大きく話題となりました。

複雑な大家族

燁子の淡い期待は、結婚直後にあっさりと裏切られることになります。伊藤伝右衛門の屋敷に入り、そこで初めて伊藤家の複雑な家族構成を知らされた燁子。伝右衛門から「前妻との間に子どもはいない」と聞かされていましたが、実は愛人との間に娘がいたのです。さらに養嗣子であり妹の子どもでもある長男と次男、さらに伝右衛門の父が愛人に生ませた異母妹や母方の従弟なども屋敷で暮らしていました。

また、派手な女性関係のあった伝右衛門は、燁子との結婚にあたり長年にわたる愛人とも別れていましたが、愛人のひとりである女中頭のサキは「家を仕切るのに必要だ」と家に置かれたままでした。屋敷に住まう愛人と燁子の関係はこじれ、燁子をいったん実家へ預ける話合いが持たれるまでに発展します。

社交界の華、筑紫の女王

思い描いていた幸せな結婚生活とは、ほど遠い暮らし。歪んだ結婚生活は、燁子を否応無く苦しめました。燁子はこの頃から自分を慰めるかのように、短歌に情熱を注ぎ始めます。「竹柏会」の機関誌『心の花』に発表した短歌を見た師は、私生活を赤裸々に歌いあげた内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧めました。「日蓮にちなんで白蓮はいかがだろう?」これが、歌人・柳原白蓮の誕生でした。

白蓮は夫を恐れ、気を遣う生活を送っていましたが、一方で歌人の久保猪之吉、その妻で俳人の久保より江らと交流し、福岡社交界の華としても活動しました。大正4(1915)年、31歳の頃には、画家・竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の歌集『踏絵』を自費出版します。この年、大分県に広大な別荘が完成し、多くの文化人が訪れる白蓮のサロンとなりました。この別荘を訪れた菊池寛が、大正9(1920)年に出版した『真珠夫人』は白蓮がモデルと言われ、ベストセラーになっています。

菊池寛『真珠夫人』文春文庫

白蓮は、歌人や新聞記者など男性たちと手紙や歌を交わします。仮装恋愛のように駆け引きを楽しみ、心の救いを求めたのかもしれません。そして大正6(1917)年には、『大阪朝日新聞』で「筑紫の女王燁子」というタイトルの連載記事を載せ、大きな反響を呼びます。その内容は、大富豪ではあるが不幸な結婚生活を嘆く赤裸々なものでした。そこに白蓮の歌が引用されていたことから「燁子=白蓮」であることが、全国的に知られるようになったのです。

龍介との出会い

大正9(1920)年、36歳となった白蓮に、運命の出会いが訪れます。新たな書籍の出版が決まり、打ち合わせのために編集担当の宮崎龍介(りゅうすけ)が白蓮のもとを訪れます。龍介は彼女よりも7つ下の29歳。孫文を支援した宮崎滔天(とうてん)の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成し、労働運動に打ち込んでいた龍介。社会変革の夢を語る龍介は、白蓮がこれまでに出会ったことのないタイプの男性でした。龍介もまた、気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を語る白蓮に魅力を感じたのでしょう。やがて事務的な連絡の中に少しずつ恋文めいた言葉が混じるようになり、白蓮が上京するタイミングを狙って逢瀬を重ねるようになりました。ふたりの文通は年間で700を超えたといわれています。

命がけの駆け落ち

大正10(1921)年、ふたりの関係は噂となって広まり、ついに龍介は編集から解任、新人会からも除名されてしまいます。道ならぬ命がけの恋は、熱く燃え上がり、同年に白蓮は龍介の子を身ごもりました。白蓮は、いよいよ伊藤家を去る覚悟を決めます。龍介は新人会時代の新聞記者の仲間に相談して、駆け落ちの計画を練り、決行に移しました。一般的な絶縁の申し出では、きっと離婚も家出も叶わないだろうと知恵を振り絞ったのでしょう。これが冒頭のニュース「白蓮事件」の全貌です。

3度目の結婚

なんとか伝右衛門との離婚が成立し、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男と共に宮崎家の一員となった白蓮。ようやく手に入れた龍介との結婚生活は、真の愛に包まれ幸せであったものの、経済的には非常に苦しいものでした。龍介が結核で病床に伏していある3年間、白蓮は、小説の執筆や歌集の出版、講演の依頼など、筆一本で家計を支えたといわれています。経済的困窮の中、大正14(1925)年には長女が誕生。昭和9(1934)年には、自らの歌の場として歌誌『ことたま』を刊行しました。

柳原白蓮 『ことたま』 河出書房新社

平和運動家としての晩年

昭和19(1944)年、大学生となった長男が学徒出陣し、翌年に爆撃を受けて戦死します。終戦のわずか4日前、あまりにも悲しいできごとに白蓮はしばらくその事実を受け入れられなかったといいます。この経験から晩年は、平和を願う活動にも注力するようになりました。昭和21(1946)年にはラジオで子どもの死の悲しみと平和を訴え、「悲母の会」を結成。この会は外国とも連携して「国際悲母の会」となり「世界連邦運動婦人部」へと発展しました。

龍介の手厚い介護のもと、歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年。昭和42(1967)年、81歳でその生涯に幕を下ろしました。

白蓮の死後、竜介は、このように語ったといわれています。

私のところに来てどれだけ私が幸せにしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は伊藤や柳原の人々よりは、燁子の個性を理解し援助してやることができたと思っております。波乱に富んだ風雪の前半生をくぐり抜け、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだと思います

参考:中江克己 『明治・大正を生きた女性 逸話辞典』第三文明社、「熊本県公式観光サイト もっと、もーっと!くまもっと」https://kumamoto.guide/look/terakoya/074.html