なぜ「歴史上の美女は悪女」と相場が決まっているのだろうか。今回ご紹介する悪女、もとい、美女も相当な噂をお持ちの方。そんじょそこらの悪口ではない。人格否定も甚だしいものが、後世にまで伝わっている。とりあえず、その内容を以下に挙げてみた。
・「奥羽の鬼姫」というあだ名
・息子の干からびた眼玉を本人の前で食べた
・醜くなった息子を疎んじて毒殺する毒親
・一触即発の戦場へ乗り込んで座り込み
現代であれば、間違いなく名誉棄損で損害賠償請求が可能だろう。意図的であれ、あまりにもひどい言われようだが、噂の内容からみて気性が激しいのは確か。逸話に事欠かないのは、それだけ注目されていた裏返しだ。
さて、ご紹介するのは、奥羽の地で人一倍平和を願った女性。名を「義姫(よしひめ)」(のちの保春院)という。まさしく、戦国時代の女性像をそのまま体現した人物といえるだろう。山形城主、最上義守(もがみよしもり)の娘。そう言われてピンとこない方も、最上義光(よしあき)の妹で、あの「伊達政宗を産んだ母」といえば、納得されるだろうか。東国一の美少女と誉れ高い駒姫の叔母というだけあって、大層美人だったという。
彼女は、実家と婚家の間に立たされながらも、命を懸けて奮闘する。嘆いてなどいられない。貫く信念は「言葉ではなく行動」。義姫ならではのアグレッシブなスタイルを、今回は是非とも皆様にお届けしたい。
戦場に駆け付けて80日間座り込み?
座り込みというと、つい、香港の民主派デモを思い出す。じつは義姫も、香港デモと同じく、戦場での座り込みを敢行。今から戦いが始まるという緊張マックスの場面で、輿(こし)に乗って登場し仲裁に入ったという強者だ。一体、どうしてこんな事態となったのか。
まずは義姫の経歴から簡単に説明していこう。
天文17(1548)年、義姫は、出羽山形城主の最上義守の娘として生まれる。2つ年の離れた兄・最上義光とは仲が良く、晩年には手紙のやりとりも多かったという。非常に男勝りな性格で、どうやら大柄な女性だったとも。そのせいか、周囲からは「奥羽の鬼姫」と呼ばれていたのだとか。噂は本当のようだ。
永禄7(1564)年頃、義姫が18歳(数え年)のときに結婚。嫁いだ先は、同じく出羽の米沢城主・伊達輝宗(てるむね)。これまた豪胆な武将である。もともと最上家は名門の一族であり、実力ある伊達家との縁組は一種の政略結婚である。また、当時、両家はそれぞれの家督争いに介入しては小競り合いを繰り返していた。その解消を兼ねての結婚でもあったと推測される。
伊達家に嫁いだ義姫は、米沢城では館の東に住んでいた。「お東の方」と呼ばれた彼女は、ほどなくして懐妊。永禄10(1567)年8月に、長男を出産。梵天丸と名付けられた子は、のちの伊達政宗。その後、次男の小次郎を出産している。
ただ、輝宗との結婚生活は思いのほか短かった。家督を政宗に譲った翌年、天正13(1585)年、輝宗は二本松城(福島県)城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)に拉致されて命を落とす。義姫にとって、夫の死は悲劇でしかない。なにしろ、救援に向かった息子・政宗らの銃弾が当たって本人は死んだのだから。そういう意味では、身内が関わる争いに、拒否反応があったのかもしれない。
天正16(1588)年、そんな義姫のもとに一つの知らせが届く。息子の伊達政宗が大崎義隆(おおさきよしたか)を攻め、その敵方である大崎側に、なんと兄の最上義光が加勢したというのだ。本来ならば、伊達政宗と最上義光は義姫を接点とする、いわば甥と伯父の関係だ。そんな身内の彼らが敵となり、伊達領と最上領の境である中山(上山市南部)で陣を置き、にらみ合っているとのこと。
そこで、義姫は即行動に出る。なんと、兄と息子が対峙している現場へ、自らが輿(こし)で乗りつけたのだ。そして、両軍が陣を置くその中間地点に仮屋を立て籠城。文字通り、戦場のど真ん中に居座ったのである。
「戦うのであれば、まずは私を殺しなさい」
やべえよ。まじ、鼻血もん。姐さんに惚れちまう。
戦場には、きっと私のように、つばをゴクリとしながら、義姫を思う兵が少なくなかったはずだ。それにしても、義姫は頑として一歩も引かなかった。時間など知ったことかと、兄と息子の間に命懸けで居座り続けたのだ。その日数、数えてみれば、驚くことに約80日。3ヵ月近くになる手前まで、両軍のにらみ合いの中、義姫は仮屋で暮らしたことになる。
義姫に根負けしたのか、最終的には和睦が成立。必要のない戦いは無事に回避され、ようやく義姫は城へ戻ったという。ここは、義姫の粘り勝ちというところであろうか。
息子・伊達政宗毒殺未遂の怪
さて、そんな平和を愛する義姫が、どうして「悪女」といわれるのか。
どうやら義姫の最強悪女伝説を紐解けば、息子殺しの嫌疑に繋がるようだ。はて、息子殺し?と目が点になった方。噂になったアレである。「政宗毒殺未遂事件」のことだ。義姫が息子である伊達政宗を毒殺しようと宴を開き、一口食べて気付いた政宗は解毒剤を飲んで危機回避。そして翌日、母の思惑を見越して、家督争いの火種となる弟・小次郎を殺害。これが「政宗毒殺未遂事件」の全貌である。
この話を知って、正直戸惑った。先ほどの平和愛する義姫とは180度違う女性像が、そこにはあったからだ。「毒親」だ。毒殺未遂事件が起きる2年前、身内の争いを回避させるために、自ら戦場へと乗り込んだ女性。片や、次男の小次郎可愛さに、長男の政宗を毒殺しようと企む自己主張の強い女性。ジキルとハイドも顔負けの二重人格ぶりである。そもそも、この二人は本当に同一人物といえるのか。
伊達政宗に関する書籍のうち、古い時期に出版されているものは、はっきりと義姫が毒殺を企んだと書かれている。もともと疱瘡を患って醜くなった政宗を、義姫は疎んじていたという。政宗から心が離れ、一方で弟の小次郎を溺愛した。ゆえに、家督を小次郎に継がせるため、政宗の毒殺を図ったのだと。
しかし、近年に出版された書籍では「義姫毒殺首謀説」に対しては懐疑的な見方が多い。まず、政宗の毒殺に失敗した義姫は、次男の小次郎を殺され、行き場がなく兄の最上義光を頼ったとされている。すぐに山形城に駆け込み、政宗から逃れたというのだ。
ただ、その日にちにズレがある。毒殺未遂事件が起こったとされるのは天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めのときだ。そして、義姫が山形城へと出奔したのは、文禄3(1594)年11月。これは『伊達鑑(だてかがみ)』にも記されており、近年の研究でも判明している。確かに、何らかの理由で義姫が山形城に移ったのは事実。しかし、それは毒殺未遂事件のタイミングではない。もっと後のこと。つまり、義姫は、最初から毒殺未遂事件とは何の関係もなかった可能性が高くなる。
では、誰があの伊達政宗を毒殺しようとしたのか。
答えは至ってシンプルだ。伊達政宗自身である。
当時、伊達家は豊臣秀吉との間で、関係がギクシャクしていた。既に天下を手にした豊臣秀吉に対して、実力はあるものの少しだけ生まれる時代が遅かった伊達政宗。この紛れもない事実を、残念ながら政宗は気づいていなかったのだ。結果論となるが、強大な権力を持った秀吉と争うには、政宗はあまりにも遅すぎたといえる。
しかし、未だ天下取りの夢を捨てきれずにいた政宗は、その状況下でも無茶な行動に出る。秀吉の私戦停止命令に背いて会津の蘆名(あしな)氏を滅ぼし、挙句の果てに参陣を命ぜられた小田原攻めに遅滞。ここにきて、ようやく政宗は、伊達家が存続の危機に陥ったことを理解するのである。こうして、秀吉の狡猾さに対抗するべく考えられたのが、今回の毒殺未遂事件である。秀吉につけ入る隙を与えないために、予め家中の火種となる弟・小次郎を殺害。大義名分が必要だとして、自ら毒殺未遂事件を引き起こしたというのだ。
こちらの方が、平和を願う義姫像にはしっくりくる。自分の評判よりも、伊達家の存続を願う女性。たとえ自分が悪女として、後世にまで伝えられることになっても、進んで汚名を被ったのではないだろうか。そんな見方もできる「毒殺未遂事件」。真相は藪の中となっている。
手紙だけが知っている母子の愛
さて、ここに一通の手紙がある。まずは冒頭から。
「筑紫(九州)まで手紙を届けるのさえおぼつかないところでございますところに、なんと高麗(こま)・唐土(もろこし)などと音に聞こえる遠方へ手紙を届けてくださったお心遣いがありがたく、母上のお心の内を慮るにつけ、天道も恐ろしく感じられるほど感謝しております」
吉本健二著『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』より一部抜粋
内容からして、子が親に宛てたものと推測できる。それにしても、まあ、恥ずかしげもなく書けるものだ。普通、親子であれば、さらっと「手紙ありがとう」くらいのものではないのか。まだ冒頭ではあるが、あとを読むのを躊躇うほどの手紙である。
じつはコレ、伊達政宗が母の義姫に宛てて書いた手紙なのだ。日付は文禄2(1593)年7月24日。時期はちょうど豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃。文面に高麗、唐土とある。どうやら義姫が戦地に赴いた政宗に、先に手紙を出したようだ。その返信として書かれたのがこちらの手紙だとされている。それにしても「天道も恐ろしいほどの感謝」とは、一体どれくらいのレベルか。分かるようでちっとも分からない政宗の例えである。
先に進めよう。
「わが伊達家は城普請工事を免除していただきましたが、こちらから申し乞いまして石垣の普請工事をいたしました。石垣の出来栄えは、上方連中が普請したものに、ちっとも劣っておりませんぞ。…中略…また、このたびも特別な『手紙の実益』(手紙に同封された金三両)をくだされまして、重臣の鈴木重家が言っていたように、千両万両にすぐれた気遣いで、ありがたく思っております」
同上より一部抜粋
男の子にしてあるあるだ。どうして、息子という生き物はなんでもかんでも母親に自慢したがるのだろう。もともと男のDNAに刻まれているものなのか。そして呼応するかのように、母親という生き物は息子に超絶甘い。これも古今東西あるあるの話。
手紙と共に、何かしら必要だろうと金三両を同封した義姫。その気遣いもさることながら、現代の親子と全く変わらない両者の関係性が、非常に印象的だ。出稼ぎに行った息子を心配してお金を送る母親。今も昔も同じ行為が繰り返されていると思うと、不思議でならない。ちなみに、母・義姫の送金に対して、政宗はそのお返しを一生懸命考える。それが次のくだりだ。
「お返しに、この国の物をなんとしても差し上げたく思いまして、踊り立ち、跳ね上がって訪ねまわりましたけども、珍しい物がございませんでした。自然に手に入りますものも、日本への遠路を飛脚が持って参上できるものはございません。ずいぶんと思案に暮れた結果、この国の木綿を差し上げるよう決めました」
同上より一部抜粋
こうして読んでいくと、手紙の中の政宗は、なんだかとっても「素直なキュートボーイ」である。感情をストレートに表し、その言い回しも独特だ。探し回る様子を「踊り立ち、跳ね上がる」と書き綴る。母親が喜ぶ姿を想像してワクワクする。そんな妄想を楽しんで探したであろう息子・政宗。じつに微笑ましい場面でちょっと安心する。ただ、意外と選んだ品物は渋かった。「木綿」である。実用品をセレクトするだなんて、政宗って堅実なんだーと思うのは私だけだろうか。
ここで、先ほどの「毒殺未遂事件」の疑惑が頭をかすめる。伊達家の正史『貞山公治家記録』にも毒殺未遂事件は記録されている。火のない所に煙は立たぬ。ゆえに、実際に事件自体は起こったのだろう。ただ、手紙の日付は毒殺未遂事件の3年後のこと。こうまで母子の関係が回復するとは、到底思えない。この手紙の存在自体が、毒殺未遂事件の首謀者は義姫ではない証拠となるだろう。実際に、研究者もこの手紙を根拠にしているのだとか。こうなると、やはり政宗の自作自演の可能性が高くなってくる。
ここは難しいところだが、確かに、義姫と政宗親子の間には何かがあったのだろう。息子の判断で夫が亡くなったのだ。もう一人の息子・小次郎が殺されたのだ。確執が全くなかったといえば、ウソになる。しかし、それはどの親子でも同じこと。それなりの争いがあり、それなりの言い分がある。そして、どのような経緯をたどろうとも、最終的に行き着く先は「和解」か「別離」。この2つのどちらかなのだ。
それでは義姫の最期は、どちらだったのか。
元和8(1622)年、政宗は義姫を仙台城に呼び寄せる。義姫75歳、政宗56歳。この翌年、義姫は静かにこの世を去る。
平穏な日々の中で過ごす晩年。
母親としての義姫は、果たして幸せだったのだろうか。
政宗の手紙の最後に、その手掛かりがある。
「命を永らえて帰国できましたならば、きっとそれぞれの大名に休養期間をくださるでありましょうから、母上をいちど拝み申し上げたいと念望しております。そのときは万事よろしく。かしこ」
同上
念望(ねんもう)とは、ある物事の実現を心の中で願い望むこと。政宗が日本から遠く離れた戦地で思ったこと。それは、生きて帰れたならば、もう一度だけ母に会いたいということ。それだけが政宗の願いであった。
親子にはそれぞれの形がある。最強悪女と誰もが口にしようが、彼女は気にしなかっただろう。ただ一人、自分の息子が分かってさえいれば。
それぞれの形は、その親子にだけしか分からない。
政宗の晩年も穏やかであった。母の菩提寺として保春院(宮城県仙台市)を建て、その近くに隠居所を作ったという。
母の近くで過ごす晩年。
息子・政宗は、果たして幸せだったのだろうか。
参考文献
『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』 吉本健二 学習研究社2006年12月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『47都道府県の戦国 姫たちの野望』 八幡和郎著 講談社 2011年6月
『戦国姫物語―城を支えた女たち』 山名美和子著 鳳書院 2012年10月
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月
▼義姫を含む伊達の女性を描いた作品
伊達女