Culture
2020.03.14

父の死に「盛大な葬儀をしている場合か!」若き大うつけ織田信長の尾張統一物語

この記事を書いた人

馬鹿者という意味の「うつけ」という言葉は、「空(うつ)ける(からっぽである)」が語源だという。そこから暗愚な者、常識から外れた者を指すようになった。戦国時代、尾張(現、愛知県西部)で「大うつけ」と陰口を叩(たた)かれる若者がいた。織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(ちゃくなん)、信長(のぶなが)である。父・信秀は尾張守護代(しゅごだい、守護の補佐役)に仕える奉行の一人だが、尾張半国に及ぶ勢力を持ち、他国の大名からも一目置かれていた。一方の信長は子分たちを従え、若殿らしからぬ格好で山野を駆け回り、町を歩きながら瓜(うり)やら餅にかぶりつく悪童である。

そんな信長が19歳の折、信秀が病没。とたんに尾張国内は争いの巷(ちまた)と化す。それまで信秀を黙認してきた二つの守護代家が、信長を攻撃。また、信長の兄弟が当主の座を奪おうと画策する。その背後には、隣国美濃(現、岐阜県)の斎藤(さいとう)氏の謀略や、東海の雄・今川(いまがわ)氏の圧力もあった。それらを相手に、信長はいかにして父を超え、一国を平定したのか。本記事では、大うつけが逆境をものともせず尾張統一に至った、若き日の信長の「原点」を紹介する。

織田家家紋の「五つ木瓜(もっこう)」

「尾張の虎」と呼ばれた父・織田信秀

津島湊と信長誕生

尾張西部、津島湊(つしまみなと、現、津島市)は、尾張と伊勢(現、三重県)を結ぶ天王川(てんのうがわ)舟運の川湊として栄えた。またここは、「津島の天王さま」と呼ばれる津島天王社(現、津島神社)の門前町(もんぜんまち)でもある。ご祭神は牛頭天王(ごずてんのう)ことスサノヲノミコト。津島湊の賑わいは、和泉(現、大坂府)の堺湊に匹敵するとまでいわれた。戦国期、この津島湊を掌握し、近くに居城・勝幡(しょばた)城を構えていたのが、織田備後守(びんごのかみ)信秀である。

津島神社(津島市神明町)

当時、尾張国の守護(しゅご、室町幕府が認めた領国支配者)は、足利(あしかが)氏一門の斯波(しば)氏である。しかし、すでにその実権は補佐役である守護代(しゅごだい)織田氏の手に移っていた。さらに守護代織田家は二つに割れ、尾張8郡のうち、上4郡を岩倉(いわくら)城の織田伊勢守信安(いせのかものぶやす)が、下4郡は清須(きよす)城の織田大和守達勝(やまとのかみみちかつ)が支配し、守護の斯波氏は清須城にいた。なお、信秀は守護代大和守達勝配下の3人の奉行の一人にすぎず、織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家と呼ばれている。そんな信秀が、主家の守護代や守護をもしのぐ勢力を得た理由は、何より津島湊がもたらす莫大な利益にあった。

勝幡城模型(愛西市勝幡町)

天文3年(1534)、信秀の嫡男が勝幡城で誕生する。幼名、吉法師(きっぽうし)。のちの信長である。生母は信秀正室の土田(どた)御前。信秀は子宝に恵まれ、12人の男子、10人以上の女子がいたという。従来、信長は庶長子(側室が生んだ長男)の信広(のぶひろ)に次ぐ二男とされてきたが、実際は信広と信長の間に庶子の秀俊(ひでとし)がいて、信長は三男であるらしい。とはいえ、正室土田御前が生んだ男子、つまり信秀の後継者候補となるのは12人のうち、まず三男信長、四男信勝(のぶかつ、信行とも)であり、六男信包(のぶかね)も土田御前の子ではないかといわれる。

織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像(愛西市勝幡町)

那古野城を奪い、熱田湊を掌握

信長が生まれた頃、すでに信秀は尾張における実力者だったが、この頃から急速に勢力を伸ばし始める。居城の勝幡城は、尾張西端に近い。すぐ西の海西(かいさい)郡は一向一揆(いっこういっき)の勢力が強く、敵に回すと厄介だった。北は主家である織田大和守の勢力圏である。そこで信秀は東を目指す。当時、東方には駿河(現、静岡県)今川氏の同族である那古野(なごや)今川氏が那古野城を構え、その南に熱田(あつた)湊があった。三種の神器の一つ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を祀る熱田神宮の門前町であり、後年、東海道一の宿場となる熱田宿(宮〈みや〉の宿)である。信秀は勢力拡大のターゲットをここに定めた。

熱田神宮(名古屋市熱田区)

天文7年(1538)、信秀は今川氏豊(うじとよ)の那古野城を乗っ取る。那古野城は、現在の名古屋城跡の二の丸付近にあった。軍記物の『名古屋合戦記』によると、信秀と今川氏豊は連歌(れんが)を通じて親しい間柄だったが、信秀が那古野城で開かれる連歌会に招かれた際、仮病を用いて勝幡城の家臣らを多数呼び寄せ、まんまと乗っ取ったのだという。真偽のほどはともかく、信秀は同時に熱田湊を支配下に置いた。津島湊とともに熱田湊も掌握したことで、信秀の経済力は飛躍的に増大する。信秀は勝幡城に城代(城主の代理)を置き、本拠を那古野城に移した。

那古野城跡とされる名古屋城二の丸跡(名古屋市中区)

三河への進攻と今川氏との対立

熱田湊を押さえた信秀の目は、さらに東の三河(現、愛知県東部)へと向けられる。三河では松平(まつだいら)氏が最大勢力で、松平清康(きよやす、徳川家康の祖父)が三河をほぽ統一し、さらに尾張を窺っていたが、信長が生まれた翌年の天文4年(1535)、陣中で家臣に殺されてしまう。以来、三河は混乱状態となり、信秀がつけ入る隙は十分にあった。

天文9年(1540)、信秀は三河に進攻、松平勢を破って西三河の要衝・安城(あんじょう)城を奪う。これにより三河湾に注ぐ矢作(やはぎ)川の西まで、信秀の勢力が及んだ。信秀は「尾張の虎」と呼ばれていたが、異名にふさわしい暴れぶりだろう。しかしそれは、東から三河を呑み込もうとする駿河の今川義元(よしもと)との衝突を招くことにもなった。天文11年(1542)、西三河に攻め込んできた今川軍を、安城城から出撃した織田軍が破ったという(信長の家臣太田牛一〈おおたぎゅういち〉が著した信長の一代記『信長公記〈しんちょうこうき〉』による)。第一次小豆坂(あずきざか)合戦と呼ばれるものだが、史実であるか定かでない。

信秀の前に立ちはだかる3つの敵

11歳の吉法師

司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公は前半が斎藤道三(さいとうどうさん)、後半が信長だが、信長が初めて登場する場面が印象的である。天文13年(1544)、織田信秀は越前(現、福井県)の朝倉(あさくら)氏と連携して、隣国美濃(現、岐阜県)の斎藤道三の居城・稲葉山(いなばやま)城を攻めた。ところが道三に逆襲されて惨敗。一人で居城に逃げ帰り、門を入ろうとしてふと見ると、堀に河童(かっぱ)がいる。「ほほう」と驚いて馬を止めると、それは泥だらけの吉法師11歳だった。

そういう父親の笑顔を、吉法師はじろりと横目で見、
「お父(てい)は、負けて帰ったのう」と、無表情に言った。
これには信秀はあきれ、噴(ふ)きあげるように高笑いをすると、
「負けたわい。命からがら帰ったわ」
「相手はたれじゃ」
と、小便をおさめ、たらたらと滴(しずく)をたらした。
「美濃の蝮(まむし)というやつよ」
「斎藤道三か」
と笑わず、
「お父もつよいが、そいつも強いらしい」               
         司馬遼太郎『国盗り物語』より

信長元服と小豆坂合戦

小説『国盗り物語』では、この時の信秀の居城は那古野城の南、熱田の近くに新たに築いた古渡(ふるわたり)城としているが、実際に信秀が古渡城に移ったのは、美濃で大敗を喫してから2年後の天文15年(1546)であったようだ。同年、吉法師は13歳で元服し、織田三郎信長と名乗る。三郎は、信秀も用いていた通称であった。また信長は信秀より那古野城を託され、翌年には三河方面で初陣を飾っている。信秀が信長を後継者として扱っていたと見ていいだろう。

さて、信長初陣の翌年、天文17年(1548)という年は、信秀にとって大きな転換点となる。
同年3月、信秀は三河岡崎(おかざき)城を奪うべく、安城城より兵を繰り出した。大将を務めるのは信広(信長の庶兄)である。一方、三河の松平氏を傘下に置く駿河の今川義元は、太原雪斎(たいげんせっさい)を主将とする軍を送り、両者は小豆坂(現、岡崎市)で激突した。6年前にも同地で両軍が戦ったかどうかは定かでないが、この時の戦いは多くの記録に残る。結果、織田軍は敗れ、信秀は安城城に信広を残して引き上げた。東方面における信秀の初めての作戦失敗だった。

小豆坂古戦場(岡崎市戸崎町)

今川義元、斎藤道三、そして……

同年11月、斎藤道三が西美濃の大柿城(現、大垣城跡)に攻め寄せる。大柿城は、美濃を浸食する信秀が押さえていた。信秀は三河を攻める一方、美濃もうかがっていたのである。この時、信秀は大柿城救援のため道三の背後を衝くべく出陣。その攻勢に、道三は兵を退いた。が、尾張で思わぬことが起きる。留守の古渡城を、主君である清須城の守護代・織田達勝(みちかつ)の軍勢が攻めたのだ。信秀と達勝はそれまで協力関係にあり、他国への遠征の際も、信秀の下には達勝の家臣も加わって、信秀が達勝の名代(みょうだい)的な立場で指揮を執っていた。その関係を、達勝の方から壊したのである。おそらく斎藤道三による達勝への調略もあったろうが、何より守護代として、これ以上信秀が力を伸ばすことを快く思わなかったのだろう。

古渡城跡(現、真宗大谷派名古屋別院、名古屋市中区)

信秀は尾張にとって返し、ことなきを得るが、これによって信秀は同時に3つの敵と対することになった。三河における今川、美濃における斎藤、そして尾張国内の守護代である。もちろん同時にすべてを相手にするのは得策でなく、最も警戒すべきは、今川と斎藤が結んで尾張に攻め込むことであった。それを防ぎ、尾張国内をまず平定させるために、斎藤道三との同盟を模索するに至る。

若き日の信長はなぜ「大うつけ」なのか

帰蝶との結婚

信秀の重臣に平手政秀(ひらてまさひで)がいる。和歌や茶の道に造詣が深く、外交面で活躍した。信秀が朝廷に内裏築地(だいりついじ)修繕費として4,000貫(かん、現在の約4億8,000万円)を献上した際の、交渉役も務めている。また信長の傅役(もりやく、養育係)を任され、元服後は家老となっていた。この平手が動き、斎藤道三との和睦(わぼく)をとりまとめる。そして和睦の条件として、道三の娘・帰蝶(きちょう、濃姫)が信長に嫁ぐことになった。輿入(こしい)れは天文18年(1549)に行われ、信長は16歳、帰蝶は15歳であったという。

濃姫像(清須市一場)

大うつけの素顔

さて、若い頃の信長が「大うつけ」と呼ばれていたことはよく知られる。当時の信長の身なりといえば「湯帷子(ゆかたびら、単衣(ひとえ)物のこと)の袖(そで)をはずし、半袴(はんばかま)で、腰に火打ち袋などさまざまなものを下げ、髪は茶筅(ちゃせん)にして、もとどりを紅糸や萌黄(もえぎ、黄緑色)糸で巻き、太刀は朱鞘(しゅざや)。供の者にも朱色の武具を着けさせた」と『信長公記』が記す姿のイメージだろう。尾張の実力者の息子としては、破天荒な風体(ふうてい)である。しかもそれは16歳から18歳頃の姿だというから、帰蝶と結婚してからも、そんな格好をしていたことになる。

岐阜公園の若き日の織田信長像(岐阜市大宮町)

一方で信長は、朝夕の馬の稽古を欠かさず、夏から秋は川で泳ぎ、師匠について弓や鉄砲を鍛錬したという。また槍は長い方が有利と見きわめ、三間柄(さんげんえ、約5.4m)、三間半柄(約6.3m)のものを採用している。さらに兵法を学び、その一環として鷹狩も好んだ。こうして見ると、武術の鍛錬と研究に熱心な若武者であり、決して暗愚な意味での「うつけ」ではない。

ただし、『信長公記』はこう続ける。「町を通る際、人目をはばからず柿や栗、瓜をがぶりと食べ、町中で立ったまま餅をほおばり、人に寄りかかったり、肩にぶら下がるような歩き方しかしない」。そんな行儀の悪さから、世間の人は「大うつけ」と呼んだのだという。常識外れの行動に、後ろ指をさされたわけだ。これは信長だけでなく、前田犬千代(まえだいぬちよ、のちの利家)ら取り巻き連中もそうだが、「傾(かぶ)いて」いたのだろう。若さゆえと生来の気性の激しさから、反骨心をむき出しにし、奇矯な格好と振る舞いをせずにはいられない。それが若き日の信長ではなかっただろうか。

信秀の死と信長の怒り

尾張の虎、死す

天文18年、信秀は東に新たに築いた末森(すえもり、末盛とも)城に移る。熱田から見ると、古渡城は北西だが、末森城は北東にあたる。より東に城を築いたのは、安城城のある三河を意識してのことだろう。ところが、この頃から信秀は体調を崩す。同年11月には庶子信広の守る安城城を今川軍が攻めるが、信秀は救援に赴くことができず、城は落とされ、信広は捕虜となった。その後、信広は、訳あって信秀のもとにいた松平広忠(ひろただ)の嫡男竹千代(たけちよ)との交換条件で、今川から解放されることになる。なお、今川のもとに赴いた幼い竹千代が、のちの徳川家康である。

末森城跡(名古屋市千種区)

安城城が落ちても信秀が出て来ないので、翌天文19年(1550)、今川軍は尾張へと攻め込んだ。病床の信秀はこの時も出陣できず、迎え撃つ織田軍を誰が指揮したのかはわからない。織田軍は今川勢が尾張深くに侵攻することは食い止めるが、追い払うことはできず、今川勢は年末まで知多(ちた)郡に居座った。この時、信秀に救いの手を差し伸べたのが、京都の将軍足利義輝(あしかがよしてる)である。義輝は織田・今川両家の和睦を仲介し、天文20年(1551)に戦いは一応収まった。これに安堵したのか、信秀は翌天文21年(1552)3月に息を引き取ってしまう。享年42。

盛大な葬儀をしている場合か

信秀の葬儀は、菩提寺の萬松寺(ばんしょうじ)で盛大に営まれたが、喪主である信長の意向ではなかったようだ。弟の信勝(のぶかつ)らが正装で参列する中、信長は姿を見せず、焼香の段になってようやく現れるが、身なりは茶筅に結った髪は乱れたままで袴もはかず、太刀や脇差を三五縄(しめなわ)で巻いていた。そして抹香(まっこう)をわしづかみにするや、「くわっ」と吼えて仏前に投げつけて出て行ってしまう。人々は「やはり、うつけ殿よ」とささやき合うが、筑紫(ちくし、現、福岡県)から来た客僧のみは「あのお方こそ国持ち大名ともなるお人よ」と語ったという。

萬松寺(名古屋市中区)

この時の信長の心情を想像すると、「お父(てい)、よくもこの多難な時に逝(い)ってしまわれたな」という信秀に対する不満と、「国内外の敵が様子をうかがいながら爪を研いでいるのに、父の死を盛大な葬儀で喧伝している場合か」という、織田家中への怒りが込められていたのではないか。また家臣たちの中には、信長が後継者となることを歓迎しない者も少なくなく、家中は一枚岩ではない。そうした信長の不安は、すぐに現実のものとなる。信秀が目をかけていた者が裏切ったのだ。

父の死の直後に起きた二つの合戦

後継者としてのデビュー戦となった赤塚の戦い

末森城の南、愛知郡と知多郡の境に鳴海(なるみ)城がある。その城主、山口左馬助教継(やまぐちさまのすけのりつぐ)は信秀に信頼され、城を任されていたが、信秀の死を機に今川へ寝返った。三河国境に近い鳴海城は、今川勢の尾張侵攻の際には真っ先に標的となる。新当主の信長では、いざという時に救援を期待できるかわからず、そうなる前に今川に通じたのだろう。左馬助は鳴海城を息子の九郎二郎(くろうじろう)に預け、付近に数ヵ所の砦(とりで)を築いて今川の将兵を入れると、自らも砦の一つを守った。

鳴海城跡公園(名古屋市緑区)

これに対し信長は、父の葬儀の翌月である4月17日、直属の兵およそ800を率いて那古野城を出陣。山口九郎二郎も1,500の兵で城から討って出て、鳴海城の北方、赤塚で合戦となった。一刻(約2時間)ほど両軍入り乱れて戦うが決着はつかず、痛み分けとなり、信長の鳴海城攻略はならなかった。合戦後、互いの捕虜や敵陣にまぎれ込んだ馬の交換が行われている。もともと両軍は信秀の下にいたため顔見知りが多く、徹底的な戦いにはならなかったのかもしれない。ただし山口左馬助が南の大高(おおたか)城(現、名古屋市緑区)、東の沓掛(くつかけ)城(現、豊明市)も味方に引き入れたため、さらに今川の勢力が尾張を侵食することになる。亡父・信秀の後継者として、初めての戦(いくさ)で成果を上げられず、信長は苦しい立場となった。

「信長、侮りがたし」を印象づけた萱津の戦い

鳴海城の山口父子の謀叛を見て、清須城の守護代家が信長を倒すべく動く。守護代は織田達勝の後継者、織田信友(のぶとも)に代替わりしているが、実権を握っていたのは小(こ)守護代(守護代の家老)と呼ばれた坂井大膳(さかいだいぜん)らであった。坂井らは同年8月15日、清須城の南にある深田(ふかだ)城(現、あま市)、松葉(まつば)城(現、海部郡大治町)を攻め、それぞれ城将を人質にとって占領。どちらも信秀以来の配下の城である。守護代家による攻撃は、4年前に信秀が留守中の古渡城を攻めて以来であった。信長は翌16日に那古野城を出陣。途中で守山(もりやま)城の叔父・織田信光(のぶみつ)の手勢と、末森城で弟・信勝に仕える柴田勝家(しばたかついえ)の手勢が合流した。信長軍は敵の本拠、北の清須城を目指す。

萱津の戦い

一方、清須城からは坂井大膳に次ぐ実力者の坂井甚介(じんすけ)が出陣。両軍は午前8時頃、萱津(かやつ)の原(現、あま市)で衝突した。数刻に及ぶ激闘の末、清須勢は主だった者50人が討ち取られ、さらに主将の坂井甚介が柴田勝家と中条家忠(ちゅうじょういえただ)に討たれると、一気に崩れた。萱津の敗報はすぐに深田城、松葉城にも伝わり、両城の清須勢が戦場に駆けつけてくるが、信長軍はこれも撃退。結局、敵勢はすべて清須城に逃げ帰り、深田、松葉の二城は信長の手に戻った。信長はさらに清須城に迫り、城下を焼いて裸城にする。この萱津の戦いの勝利は、信長が侮れない武将であることを守護代だけでなく、国中に印象づけることになった。

理解者の死とマムシの道三

平手政秀の切腹

萱津の戦いに勝利し、ようやく信長が新当主としての一歩を踏み出した矢先の天文22年(1553)閏(うるう)1月、家老の平手政秀が切腹する。信長の幼少より傅役を務め、数少ない理解者であった。理由はよくわからない。一説に、改まらない信長のうつけぶりを諫(いさ)めるためであったとも、平手の息子の馬を信長が欲しがり、息子が断ったため、信長と不和になったためともいう。しかし、どちらも腑に落ちない。想像するに、自らの死で信長を守ろうとしたのではなかったかと思うのだが、背景は不明である。信長は政秀寺(せいしゅうじ)を建立(こんりゅう)し、手厚く弔(とむら)っている。

マムシとの出会い

平手の死からおよそ3ヵ月後、生前の平手も関わっていたはずの案件が実現した。信長と、舅(しゅうと)の斎藤道三との初会見である。信長にとって大きな意味のある出来事だが、あまりに有名な話なので、概略のみ紹介しよう。娘婿の信長が「うつけ」であるとの噂は、美濃にまで聞こえていた。道三は信長の人物を確かめるべく、会見を望む。場所は濃尾国境の聖徳(正徳)寺。会見前、道三が道脇の小屋にひそんで通過する信長を確認すると、噂通りのうつけた姿で馬に乗っていた。

道三が憮然(ぶぜん)として会見場で待っていると、なんと信長は見違えるような、折髷(おりまげ)の折り目正しい礼装で現れる。(こやつ、只者ではない)。道三は、そう直観した。会見は短時間で終わるが、さらに道三を驚かせたのが信長の供衆である。槍隊の槍はすべて美濃衆よりも長く、またおびただしい数の鉄砲を揃えていた。美濃に帰る道すがら、道三が家臣に「わしの息子らは、あのたわけの門前に馬をつなぐ(家臣になる)であろうよ」と苦々しげに語ったという。「美濃のマムシ」の異名を持つ道三は、信長の器量を見抜いたのである。道三は以後、娘婿の信長を全面的に支援し、信長にすれば、またとない強力な味方を得ることになった。

今川勢の出鼻をくじいた村木砦の速攻

清須城内の下剋上

道三との会見からまた3ヵ月後の天文22年7月12日、清須城内で一大変事が起こる。尾張守護・斯波義統(しばよしむね)が小守護代・坂井大膳らによって殺害されたのだ。かたちの上では坂井らが仕える守護代・織田彦五郎(ひこごろう)信友による下剋上(げこくじょう、下位の者による上位の者の打倒)だが、実行犯は坂井の手の者である。この時、斯波義統の息子・義銀(よしかね)は家臣らと外出しており、変事を知るや、那古野城の信長に助けを求めた。守護の後継者を保護したことで信長は、清須城の織田信友、坂井大膳らを討つ大義名分を得ることになる。まず信長は柴田勝家に命じて清須勢に挑ませ、7月18日の安食(あじき)の戦いで清須勢を破った。

機動力の勝利! 村木砦の戦い

信長が清須勢との本格的な戦いを準備する中、南で敵が動く。天文23年(1554)1月、水野信元(みずののぶもと)の緒川(おがわ)城(知多郡東浦町)を今川勢が攻め、付城(つけじろ、攻撃拠点とする城)として村木(むらき)砦を築いた。ねらいは尾張での勢力拡大である。水野信元は織田・今川の勢力の境目に位置し、織田に味方している貴重な存在だった。見殺しにするわけにはいかない。しかし那古野城を留守にすれば、清須勢が襲ってくるだろう。そこで信長は、斎藤道三に援軍を要請。道三はこれを快く承知し、派遣された1,000の美濃兵が那古野城を守ることになった。


村木砦攻め

1月21日、信長は叔父の信光とともに、村木砦へ出陣する。が、陸路は鳴海城や大高城などが今川方であるため、進軍が困難だった。信長は熱田から強風をついて海路、知多半島に渡り、23日に緒川城で水野勢と合流。24日早朝より村木砦を攻めた。水野勢は東大手を、信光は西搦手(からめて)を攻め、信長は南側から鉄砲の連射による猛攻を仕掛ける。結果、村木砦は1日で陥落、今川の出鼻をくじき、水野は危地を脱した。信長は翌25日、敵方の寺本城の城下を焼いて、那古野城に帰還している。その後、美濃に帰国した将兵から信長の機動力と鮮やかな手際を聞いた斎藤道三は、「すさまじき男。隣にはいやなる人にて候よ」とつぶやいたという。

清須城奪取と尾張半国支配へ

謀略に対する謀略

一方、守護を討ったものの信長に押され気味の清須勢は、調略を仕掛ける。萱津の戦い、村木砦の戦いで信長を助けた叔父・信光を味方に誘ったのだ。条件は信光を織田信友と並ぶもう一人の守護代とし、尾張下4郡のうち2郡を譲るというもの。信光はこれを承諾し、天文23年4月に、守山城から清須城南櫓(みなみやぐら)に入った。信長にすれば信頼する味方を失ったことになる。しかし、実はこれは信長と信光が、あらかじめ示しあわせた上でのことだった。清須勢からの調略を信長に知らせた信光は、承諾したふりをして清須城に入り、城を奪う計画を立てたのである。成功した暁には、庄内川を境に清須城及び西2郡を信長、東2郡を信光で分けあう取り決めであった。

清須城跡に隣接して建つ模擬天守(清須市一場)

クーデターの成功と信光の死

4月20日、信光は清須城内で蜂起し、守護代織田信友を切腹に追い込む。異変に気づいた小守護代の坂井大膳は城外に脱出、駿河今川家のもとへ逃げたという。信光のクーデターは成功し、清須城を奪取、信長に敵対した清須の守護代は滅亡することになった。信長は約束通り、信光に那古野城と東2郡を与え、自らは新守護となる斯波義銀とともに清須城に移り、新たな本拠とする。

ところが信光は同年11月、那古野城内で不慮の死を遂げた。信光の正室と密通していた、坂井孫八郎(さかいまごはちろう)に討たれたのだという。ただし一方で、野心家の信光を信長は警戒していたともいい、信長による謀略であった可能性も捨てきれない。信光の息子は信長に従い、これで信光の東2郡も信長のものとなった。信長は、尾張半国を押さえるに至ったのである。

マムシの死と新たな敵

斎藤義龍の決起

同じ頃、隣国の美濃でも異変が起きていた。斎藤道三の息子・義龍が後継者問題で道三と対立、弘治元年(1555)に道三が目をかけている二人の弟を討ったのである。道三はすでに家督を義龍に譲っていたが、政治の実権は握ったままであり、それが義龍の疑心暗鬼を呼んだらしい。また義龍は、信長と結んで今川を敵に回す道三の方針には反対だった。義龍の決起に、道三は居城の稲葉山城を離れ、北方の大桑(おおが)城(山県市)に退避する。

長良川の戦いと岩倉織田家の敵対

翌弘治2年(1556)4月、道三は義龍を討つべく挙兵、信長にも援軍を要請した。信長は後ろ盾(だて)である道三を救うべく、美濃に向かおうとするが、斎藤義龍から調略を受けたらしいもう一人の尾張守護代、岩倉城(岩倉市)の織田信安(のぶやす)の動きが不穏であった。信長は清須城の備えを固め、後方を気にしながらの美濃出兵となる。

長良川

4月20日、道三と義龍は長良川で戦い、兵力で圧倒する義龍軍が道三を討ち取ると、続いて大良(おおら)まで来ていた信長軍に攻めかかった。信長のもとには道三敗死の知らせと、予想通り岩倉勢が清須城近くまで侵攻しているとの急報も届く。そこで信長は自ら殿軍(しんがり)を務め、鉄砲で義龍軍の追撃を振り切り尾張へ撤退、清須城に帰った。これまで支援してくれていた道三の死は、新たに斎藤義龍及び岩倉織田家との敵対をもたらすことになり、信長には大きな痛手だった。

足元を揺るがす兄弟たちの反逆

弟・信勝の策謀

東からの今川の圧力に加え、隣国美濃の斎藤、尾張北方の岩倉織田が敵に回る中、さらに信長の足元を揺るがす事態が起きる。兄弟たちの背反であった。引き金となったのは、やはり斎藤道三の死である。強力な後ろ盾を失うと同時に、今川、斎藤、岩倉織田と敵対することになった信長を当主の座から下ろし、代わりに末森城の弟・信勝(四男)を新当主にして、事態の打開を図ろうとする動きが生まれたのだ。首謀者は信勝自身であり、それを家臣の柴田勝家らが支持している。

柴田勝家像(福井市中央1丁目)

信勝は、那古野城を預かる信長の家老・林秀貞(はやしひでさだ)とその弟・美作守(みまさかのかみ)を味方に引き入れた。また守山城を預かっていた信長の庶兄・秀俊をその家臣に討たせ、城に反信長派の勢力を入れる。さらに信勝は信長の直轄領の一部を横領。弟のあからさまな敵対行為に、信長は庄内川を渡った名塚(なつか)に砦を築き、佐久間大学(さくまだいがく)に守らせた。

信長の気迫! 稲生の戦いの逆転

佐久間大学が名塚砦に入った翌日の弘治2年8月23日、信勝が挙兵。柴田勝家を主将とする1,000が末森城を出陣すると、那古野城の林秀貞が700の手勢で合流した。信勝は出陣せず、末森城に留まる。これに対し信長は翌24日、700に満たない兵力で清須城を飛び出す。兵の数では信勝方の半分にも満たない。両軍は正午頃、清須南東の稲生原(いのうはら)で衝突した。

稲生の戦い

藪(やぶ)際に布陣した信長に、柴田勢は東から、林勢は南から攻めかかる。信長軍はまず柴田勢と交戦するが、猛将柴田の将兵は手ごわく、本陣近くまで攻め込まれた。この時、織田信房(のぶふさ)や森可成(もりよしなり)らが敵の前に立ちはだかって奮戦、さらに怒った信長が大音声(だいおんじょう)で叱咤すると、柴田の兵は威(い)に打たれて逃げ崩れたと『信長公記』は記す。これを機に信長軍は林勢を叩き、信長自ら林美作守を討ち取ると、敵は総崩れとなった。まさに信長の気迫の勝利といっていい。信長は那古野城、末森城の城下を焼き払い、そのまま首謀者の弟・信勝を討とうとするが、末森城にいる実母・土田御前のとりなしで、信勝の命だけは許した。この戦いで柴田勝家や林秀貞らは、陣頭指揮を執った信長の実力を再認識し、以後、従うことになる。

美濃の調略

しかし、兄弟の離反は続く。その背後には、美濃の斎藤義龍がいた。義龍の調略の手は、信長の庶兄・信広に伸びる。安城城落城で今川の捕虜となってから日の目を見ない信広に、清須城奪取を勧めたのだ。敵が侵攻すると、信長は常に自ら出陣する。そこで美濃勢が国境を侵し、信長が出陣したところで信広が清須城を奪って、背後から信長を撃つという計略だった。しかし、美濃勢の動きに不審を抱いた信長はすぐに信広の意図を見抜き、計略は空振りに終わっている。

続いて義龍は、稲生の戦いで敗れた信勝に弘治3年(1557)、再起を勧める。不遇をかこつ信勝はこれに乗り、岩倉織田家とも通じて、新たに龍泉寺(りゅうせんじ)城(名古屋市守山区)を築いた。さらに、信長の直轄領の一部を再び横領。しかし、信勝の叛意はすぐに柴田勝家が信長に伝えた。信勝は、病を装った信長の見舞いに清須城を訪れた際、城内にて謀殺されてしまう。信長が実の弟を討ったことで、ようやく身内の反逆は終息したのである。

尾張統一へ! 岩倉織田氏との対決

尾張最大の敵との決戦! 浮野の戦い

兄弟の反逆もさることながら、捨て置けないのが、美濃斎藤氏や弟・信勝と結んで信長と敵対する守護代・岩倉織田家である。もう一つの守護代、清須の織田大和守を滅ぼし、尾張下4郡を手にした信長にすれば、上4郡を支配する尾張最大の敵・岩倉織田家との戦いは避けられなかった。

この頃、岩倉織田家内部で内紛が起こり、当主の織田信安が息子の信賢(のぶかた)に追放される。信安が信賢ではなく、その弟を後継者にしようとしたためで、どこの家でも家督争いは起きていたようだ。信長はこれを好機ととらえ、岩倉の北方、犬山(いぬやま)城(犬山市)の織田信清(のぶきよ)に姉を嫁がせて味方にすると、永禄元年(1558)7月、2.000の軍勢で岩倉織田家に挑む。一方、岩倉の信賢は3,000の兵を集め、岩倉城の西北、浮野(うきの)で両軍は衝突した。

浮野の戦い

尾張統一へ

戦いは激闘となるが、実戦慣れした信長軍に分(ぶ)があったようだ。途中で犬山の信清が1,000を率いて信長の援軍に駆けつけると、次第に一方的な展開となり、信賢は兵力の1/3を失う大損害を出して城に逃げ帰る。信長軍の圧勝だった。壊滅的な打撃を受けた信賢は立ち上がれず、翌年、信長に岩倉城を攻められて籠城するも、降伏。かくして永禄2年(1559)、信長は尾張を統一するのである。父・信秀の死から7年後、信長26歳のことであった。

「信長の原点」から何を読み取るか

以上、織田信秀の活躍と死から、父の勢力を受け継いだ若き信長が、尾張統一に至るまでの波乱の歩みを紹介したが、どのようにお感じになっただろうか。

一ついえるのは、信長が父・信秀から多くのものを学んでいたと思われることだろう。信秀の勢力拡大の鍵は、津島湊や熱田湊を掌握したことによる経済力である。信長はそれを受け継ぎ、のちの天下布武の過程でも交易や流通を重視して他に抜きんでた経済力、イコール軍事力を手にした。また、四面楚歌(しめんそか)となった時の対処法も、信秀の影響を受けたかもしれない。信秀は今川、斎藤、守護代を同時に敵に回した際、まず斎藤と同盟を結び、尾張国内に対処するという選択をした。標的を絞り込み、優先順位をつけたのである。信長も尾張統一の過程で何度も似た状況を迎えるが、協力者を活用しながら一つひとつ標的をつぶしていった。それはのちに「信長包囲網」に苦しめられた時の対処法となる、各個撃破戦術の原型だったようにも思える。

もう一つ特徴的なのは、信長が大半の戦いで自ら指揮し、数で勝る敵を破っている点だ。戦いというものが、指揮官の采配と気迫で左右されることを実戦の中でつかんでいたのだろう。自ら指揮を執るスタイルは、その後も変わらなかった。また、数百の手勢で戦うこともままあったが、その面々は「うつけ」の時代をともにした、信頼できる親衛隊だったという。固い結束をもってすれば、数だけを集めた敵を破ることはできると計算していたのかもしれない。ただしそれが通用するのは小規模戦闘であることも信長は承知しており、数千規模以上の合戦では、そうした戦法は決してとらなかった。いずれにせよ戦国の覇者・信長は、「信長 THE ORIJIN」の時代を経ずには生まれなかったといえるだろう。

なお、信長の試練はこののちも続く。今川義元が大軍で尾張に攻め寄せる、あの桶狭間の合戦が、尾張統一の翌年に迫っていた。

参考文献:太田牛一原著、榊山潤訳『原本現代訳 信長公記(上)』(ニュートンプレス)、谷口克広『天下人の父・織田信秀』(祥伝社)、小和田哲男監修『戦況図解 信長戦記』(三栄)、木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。