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2020.03.27

主君に物申す家臣たち。徳川家康・伊達政宗・織田信長を命がけでいさめた忠臣たちのエピソードを紹介

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「好き」の反対は「無関心」。
それを聞いて、うーんと唸った記憶がある。「嫌い」じゃないんだ。「怒り」でもない。何の反応もしない「無関心」。

正直、私は口やかましい方だ。彼にもあれやこれやと口を出す。心配で、もう出さずにはいられない。自分でもまあまあ面倒くさい部類だと分かっていても、やめられない、止まらない。かっぱえびせんのような女である。

一体なんなのだ。嫌われることを覚悟しての自己犠牲か。いや、さすがにそれは自分を美化しすぎだろう。ただ、小言が「愛ゆえに」と理解されるくらいの信頼関係は…あると信じている。

彼らもそうだったのではないか。
戦国時代という厳しい世だからこそ、主君への思いは一層強くなる。どうか生き残ってほしい。一族が絶えることなく栄えてほしい。だからこそ、彼らは自身の命を顧みず、諫める(いさめる)ことを選んだのではないか。

今回は、そんな強心臓の持ち主、主君に正面切って物申す家臣たちをご紹介。ちなみに、タイトルの「諌死(かんし)」とは、自身の命を絶って主君など目上の人を諫めることを意味する。自ら死なずとも、主君に物申せば手討ちとなる可能性は高い。そんな危険を冒してさえも、主君を一途に思う「忠臣ぶり」を是非ご覧あれ。

殿!人命よりも鯉が大事であられるか⁈

天下を取り、そのうえ将軍職を15代にわたって世襲させるという快挙を成し遂げた徳川家康。人心掌握術に長け、人の意見をよく聞くと評されることもしばしば。

ただ、岡崎城にいた頃は、家康もそこまでではなかった。どうやら、家臣の言葉に耳を傾けることは少なかったという。

徳川家康像

そんな家康を変える逸話が残されている。「鈴木久三郎」という下級武士が命を懸けて家康に諫言したという話だ。

事の発端は「鯉」である。
じつは、家康は客人用に大きな鯉を生簀(いけす)に飼っていたという。しかし、3匹のうち1匹が見当たらない。訊けば、家臣の鈴木久三郎が勝手に食べたというではないか。家康、さすがに激怒。手討ちにすると、早速、久三郎を呼び寄せたのだとか。

久三郎は、落ち着いて家康に一言。

「覚悟はできております。どうぞお斬り捨てください。しかし、そもそも魚や鳥の命に人命を代えるなど、あってよいことでしょうか。そんなお心では天下など取れるものではございませぬ」
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』より一部抜粋)

ちょうどこの前に、家康は足軽など2名を罰している。まさに、禁猟地で鳥を獲ったことなどが処罰の理由だ。久三郎の言葉で、家康は自分の行いがむざむざと思い出されたのであろう。

主君としての度量が足りない。こんな些細なことで家臣を罰していては天下が取れない。もっと大局で物事を捉えるべきだと。久三郎は自分の命を懸けて、主君である家康が気付けるよう、わざと鯉を食べたのだ。ようやく家康は、目の前の家臣の意図が分かったという。

家康は、即刻、罰した2名を放免。決死の覚悟で諫言した久三郎を褒めたとされている。こうして、以後、家康は身分が低い者の意見も聞くようになったのだとか。これも、久三郎の信念が家康に届いた結果だといえる。

殿!たかが女子(おなご)ひとりのことを…

お次は、伊達政宗をも諫めた「喜多(きた)」をご紹介。

喜多とは、あの伊達政宗の忠臣である片倉小十郎景綱(かげつな)の義理の姉。母の再婚先が片倉家であったため、景綱と共に育てられた。文武両道に長け、兵学の書を好んだというから、なんとも勇ましい女性なのだろう。

はてさて、そんな「喜多」とは、一体何者なのか。
じつは、喜多は政宗の「乳母」。

ただ、乳母とはいっても実際に子供を産んでおらず、未婚でさえある。事実、自分の母乳で育てる乳母は他にいたという。つまり、喜多は、子を身体的に育てるというよりは、精神的に成長させる「養育係」だったといわれている。この関係性は、政宗が成長して実質的な主君になっても、大きく変わらなかったようだ。

伊達政宗像

伊達政宗というと、様々な珍エピソードを持つ大名でも有名だ。なかでも、天下人、豊臣秀吉との逸話は興味深いものが多い。この二人は親子のような年齢差だったからか、政宗が無茶なことをしてはその都度詫びを入れ、秀吉が許すの繰り返し。ある意味、この関係は秀吉だから成り立つのかもしれない。これが、徳川家2代将軍秀忠のように「ルール命」という性格であったならば、即アウトだっただろう。

ただ、そうはいっても、相手は天下人。なんでもかんでも許してくれるわけではない。政宗も従うべきところでは従順な態度を見せていた。例えば、家臣や正室の愛姫(めごひめ)などは、京都・伏見の屋敷に住んでいる。秀吉の命に従い、いうなれば「人質」として差し出されたのである。正室、側室のみならず侍女や従者など、併せれば1000人ほど。奥州の覇者は、規模からして違う。伊達家にまつわる人たちが住んでいたため、できた町は「伊達町」。現在も京都市伏見区の町名として残っているのだとか。

さて、今回もそんな秀吉との間に起きた話。大の女好きで有名な秀吉が、なんと政宗の側室(侍女とも、諸説あり)に目をつけてしまったのだ。ここで、ひと悶着が起きる。どうやら、権力に物言わせ、政宗に側室を献上せよとのこと。政宗はやんわり拒否し続けるも、なかなか秀吉も諦めるようとはしない。

どうやって収めるか。
喜多の出番である。なんと、彼女は自分の身を顧みず、独断で側室を秀吉の元へと送り出したのだ。

それを知って怒り狂う政宗に一言。

「女ひとりのために伊達家を危うくする事はできませぬ」
(小池徹郎編 新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』より一部抜粋)

かっけーよ。姐さん、まじ、かっけー。
ただ、残念ながら政宗はそうは思わなかったらしい。即刻、喜多に対して国元での蟄居(ちっきょ)を命じた。いわゆる、外出禁止令である。家にこもって反省しろということなのだろう。こうして喜多は、片倉景綱の領地である白石(宮城県)にて、出家して庵(いおり)を営み、そのまま死ぬまで暮らしたという。

喜多の行動は、手討ちになってもおかしくないレベルのもの。ただ、政宗も最終的には側室を送るしかないと自認していたのだろう。処罰としては軽い方だ。自ら汚れ役を引き受けた喜多。政宗の性格を十分すぎるほど知り尽くしていたからだといえる。

殿!どうか正しく生きてくだされ!

最後にご紹介するのは、主君のために本当に命をかけてしまった織田信長の家臣、二番家老の平手政秀(ひらてまさひで)である。

平手政秀は、織田信長の父、信秀の命により、信長の傅役(もりやく)として長年仕えてきた武士である。『信長公記』にも、最初の方でなにかと出番が多く、名前を何度も見かける。天文15(1546)年、信長13歳のときの元服にも付き従った。翌年の初陣の際には、支度の手配も行っている。

あの斎藤道三との縁組を実現させたのも平手政秀の働きが大きかったというから、相当苦労したのだろう。一方で、陰で家臣がいかに苦労しようとも、信長は我が道を貫いた。『信長公記』には、信長の日常がこのように綴られている。

「特に見苦しいこともあった。町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶらさがって歩いていた。その頃は世間一般に折り目正しいことが良いとされていた時代だったから、人々は信長を「大馬鹿者」としか言わなかった」

道三の娘を娶っても、信長の日常の振る舞いは変わらなかった。ただ、政秀には希望があったように思う。殿が完全に独り立ちされれば、殿が責任ある立場になればと。きっと、さなぎから蝶のように、信長は華麗に変身すると信じていたのだろう。

しかし、信長は一向に変わらなかった。天文20(1551)年、信長の父、信秀が流行病がもとで、ついに死去(諸説あり)。国中の僧侶を集め、その数300人。盛大な葬儀が執り行われた中、信長は、またもややらかすのである。髪も結わず、袴もはかず。ただ漫然と父の仏前に焼香を投げつけたのだ。

織田信長像

ここに、政秀の淡い期待は一気に崩れ去る。父の死さえも、信長へ影響を及ぼすことはなかったのだ。何をしても主君である信長を変えることはできないのか。まさしく、政秀はそれを悟ったのかもしれない。それとも、最後に一か八かの賭けに出たのか。

長年、信長の側に仕え、何度も諫めてきた政秀がであったが、天文22(1553)年、とうとうある行動に出る。主君を諫めるために死を選んだのだ。
いわゆる「諌死」だ。

この政秀の自刃の理由については、信長との不和や、織田家中をまとめるためなど、幾つかあるようだ。もちろん、責任を感じてという理由もある。真偽は不明だ。ただ『信長公記』にはこのように記されている。

「間もなく、平手政秀は信長の実直でない有様を悔み、『信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない』と言って、腹を切って死んでしまった」

信長は、平手政秀の諌死をどのように受け止めていたのか。

じつは、政秀の死後も、信長の行状は大して変わらず。残念ながら効果はすぐに現われなかったようだ。ただ、小牧山(愛知県)に政秀寺を建立して、菩提を弔ったといわれている。その後、信長は破竹の勢いで勢力を拡大。実力を証明したことで、信長の行動も非難の的にはならず。そのままの信長が世間に受け入れられた形となった。

主君と家臣の関係は、ことのほか難しい。ましてや、主君を諫めるのは、並大抵の覚悟ではできない。一歩間違えれば即刻「死」。そのまま見て見ぬふりをした方が、賢いのかもしれない。それでも、忠臣は主君を第一にと考えて、自分の命と引き換えに諫言する。

そこまで主君を思う。裏を返せば、それは主君の人間性に賭けているということなのかもしれない。忠義を尽くす主君であるからこそ、この覚悟もろとも全て受け止めてくれるのではないかと。だからこそ、徳川家康も伊達政宗も、その諫言を潔く受け入れたのだろう。

では、織田信長はどうか。
じつは、平手政秀の死には後日談がある。
信長が畿内の平定をした折のこと。近臣が、かつて諌死した政秀を馬鹿にしたという。今の権勢誇る信長を知らずに諌死とは短慮だったと。これに対して、信長は激怒。

「今、わしがこのように武人としてあるのは政秀が諌死してくれたおかげなのだ。古今比類ない政秀を短慮だったというお前たちがこのうえなく残念だ」
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』より一部抜粋)

思いのほか、信長の心には政秀の死が深く刻み込まれていたのかもしれない。

大の鷹狩り好きで知られる信長だが、政秀の死後は、しとめた鳥を引き裂いて「政秀、これを食べよ」と空中に投げていたという。

主君の将来を案じ、身を投じた家臣。
その死は、主君の心の錨として、永遠に生き続ける。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月