Culture
2020.04.01

今川義元はどうして「まろ顔」?メイク男子の歴史と理由・国内最古の男性メイクも紹介

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タレント・マットのマネキン風メイクは、すっかり市民権を得られたようです。スマホの写真加工アプリを使い、色白でお目々ぱっちりのマットメイクに変換する「マット化」なる言葉まで生み出しました。

最近では、芸能人ではない一般の若い男性がメイクする姿も見かけられます。「メイク男子」と呼ばれる彼らは、自撮りしたメイク顔をSNSにアップするなど、とっても積極的!そこには、男子たるものこうあるべきという古い概念や、後ろめたさは感じません。いかにも現代的な現象なのかと思いきや、男性のメイクには古い歴史があるようです。そこでメイク男子のルーツを探ってみました。

大河ドラマ「麒麟がくる」登場人物・今川義元は、なぜメイク顔?

大河ドラマ「麒麟がくる」で、東海の最強戦国武将として登場している今川義元。片岡愛之助演じる今川義元は従来の印象とは違い、威厳があって勇敢な武将の風情。多くの人が持っていたイメージは、お歯黒をして公家風な姿で、馬にも乗れなかった軟弱な武将というものではないでしょうか。

そんな、なよなよした印象が強いのは、やはり白粉化粧を施していたことが大きいと思います。なぜ公家ではないのに今川義元は、メイク顔だったのでしょうか?ゲームやアニメなどのキャラクターとして登場するときも、必ずといっていいほど白塗りの姿です。

その理由は諸説ありますが、今川義元の母、寿桂尼(じゅけいに)が京の藤原北家の公家出身だったのが影響していると言われています。今川義元自身、若い時期に僧として京で学んだことがあり、公家文化にも親しんでいました。今川家は、足利将軍家の一門で格式の高い家柄でした。身分の高い者しか許されなかった輿(こし)に乗ることも、例外的に許されていました。馬に乗れないのではなく、乗る必要がなかったのですね。格式の高い公家と同格であることを周辺の豪族に見せつけることで、権威を示して従属させたい思惑もあったようです。今川義元は、戦国の荒々しい時代にメイクをうまく利用した策略家だった訳です。

男性メイクの始まりは、聖徳太子のお歯黒!

今から約1400年前の飛鳥時代、かの聖徳太子はお歯黒をしていたと伝えられています。お歯黒の成分は、鉄奨水(かねみず)と五倍子紛(ふしこ)。ふしこは、うるし科のふしこと言う木をアブラムシが刺激して出来た樹液の固まりを蒸して粉にしたものです。かねみずの主成分の酢酸第一鉄と、ふしこの主成分のタンニン酸が、歯のエナメル質に浸透して虫歯予防に効果があったと考えられています。装いのメイクというよりは、強力な歯のコーティングの役目だったのかもしれません。しかし、お歯黒の材料が高価なことから、広がることはなかったようです。女帝・持統天皇が、大陸から伝えられた白粉や紅を使っていたという記述もあるようですが、男性についてはこの時代はまだ、本格的なメイク男子誕生には至りませんでした。

お内裏様に見られる「まろ顔」が流行

時代が流れ平安時代になると、貴族の間では白粉を塗って顔を白くする文化が生まれます。これは、当時貴族が暮らしていた寝殿造りの建物が影響しています。昼でも薄暗い室内だったために、白くすることで顔が美しく映えるようにとの工夫だったようです。白粉は高価だったので、白粉化粧をすることは、貴族の地位の象徴でもありました。

特徴的なのは「殿上眉」と呼ばれる、眉を本来の位置より上に描いていることです。メイクの方法としては、まず眉毛を抜いたり、そり落としたりする「引き眉」を行い、白い粉を塗った後に、「眉墨」で楕円形のような眉を描きました。「殿上眉」は、「麻呂眉」とも呼ばれ、貴族の間でブームとなります。

当時の様子を今に伝えるのが、おひな様とお内裏様です。美人の代名詞となった白い肌の化粧は、おひな様に見られるように、貴族の女性に広がったようです。一方のお内裏様の白い肌でわかるように、貴族の男性達も当たり前に化粧を施していました。白粉に麻呂眉、そして口紅にお歯黒というトータルメイクがセットになっていたようです。寝殿造り映えを狙ったメイク男子の誕生と言えるでしょう。

女性の成人のお祝いの儀式、裳着(もぎ)で、裳を付けて白粉化粧、殿上眉、口紅、お歯黒を施す風習が定まったと言われています。

語り継がれる平家の合戦での死化粧

平安時代後期になると武士団が登場しますが、宮廷文化に憧れて、平安貴族そのままの化粧を取り入れた平家が繁栄します。対する源氏は、平家とは正反対に質実剛健をモットーとして化粧を施すことはなかったようです。

源氏の勢力が増してきた寿永2(1183)年5月11日、源平両軍は越中国倶利伽羅峠(くりからとうげ)で激突します。源氏の策略で平家勢は狭い谷へと追い詰められて、壊滅的な打撃を受けます。追撃する源氏・木曾義仲(きそよしなか)率いる勢は、加賀国篠原で平氏軍を捉えます。

山林へ逃亡する者もいる中で、ただ1人踏みとどまっている武士がいました。赤地に錦の直垂(ひたたれ)を付け、立派で華やかな鎧(よろい)兜(かぶと)姿。しかし、後ろに控える家来はいないのです。名前を名乗らずに散っていった1人の武士。最後の花道として身を飾り、死化粧をしていたこの武士のエピソードは、多くの人の涙を誘いました。見どころの多い平家物語の中でも、屈指の名場面と言われています。

世阿弥の傑作能、「実盛」にも登場

この実在した武士、斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)のエピソードは、能を大成させた世阿弥・作「実盛(さねもり)」でも描かれています。修羅能(しゅらのう・武人が主役の演目)の代表作で、実盛を演じるシテ役(主役)には、経験と力量が必要な難曲と言われています。

能「実盛」あらすじ:念仏の指導者である遊行上人(ゆぎょうしょうにん)は、加賀国篠原で数日間の説法をしていました。上人はいつも説法の前後に独り言をつぶやいていて、聴衆の人々は不思議に思います。実は毎日老人がやってきて上人と会話しているのですが、その姿は上人以外には見えないのです。中々名前を名乗らないその老人は、実はこの地の合戦で木曾義仲に討たれた平家方の武将・斎藤別当実盛の幽霊でした。夜になると錦の直垂をまとった実盛の幽霊が現れて、髪を黒く染めて出陣したこと、最期の戦いに臨むために錦の直垂を平宗盛から賜ったこと、死闘の末に討ち取られたことを物語るのでした。

見どころは、70歳に近い年齢だった実盛が、生涯最期の戦として臨んだことがわかる場面。実盛を討ち取った手塚太郎は、木曾義仲のもとへ帰り、首を見せつつ「大将のような出で立ちなのに下級の武士のようで、関東なまりの者でした。名前も名乗りませんでした」と語ります。木曾義仲は実盛ではないかと察しますが、老人のはずなのに髪が黒いのを不審に思い、池の水で洗わせると、黒かった髪は真っ白になります。実盛は元は源氏側の武士であったことから、源氏の陣営は実盛の心情を理解します。若い者と先陣を争うのも大人げない、また老いぼれた姿を笑われるのも悔しいと、髪や髭を墨で黒く染め、若々しい姿で出陣して散った老武者のプライド。散り際の美学がテーマの哀愁漂う作品です。

現代の男性メイク事情

最近では、様々なブランドから男性用コスメが販売されています。肌を美しく保つための基礎化粧品から、メンズファンデーションなどのアイテムがラインナップ。その種類の多さに驚かされます。現代の男性メイクの主流は、しているかしていないかわからない程度のナチュラルメイク。メンズファンデーションのテレビコマーシャルでも、サラリーマン風の若手イケメン俳優が登場して自然な印象です。就職活動など、ここ一番の時にメイクを利用する若者も多いとか。さあ、これから日本のメイク男子は進化していくのか、どうなのか?そのうち、居酒屋で上司と部下の会話が、お勧めコスメについて、なんてこともあるかもしれませんね。

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書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。