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Culture
2020.04.08

徳川家康「大坂夏の陣」死亡説とは?大阪・南宗寺に残る墓の謎に迫る

この記事を書いた人

なんとも狐につままれたような話。だって、徳川家康の遺体は、「久野山東照宮」(静岡県)か、「日光東照宮」(栃木県)か、どっちにあるのって議論なら、まだ分かる。でも、そこでいきなり手を挙げたのが、全然関係ない…大阪。

えっ?なんで?

同じ人物の墓が、なぜか日本全国にある。これは別段珍しいことではない。例えば、明智光秀の墓は滋賀県大津市の西教寺にある。こちらでは正室や一族の墓もズラリと勢揃い。一方で、高野山(和歌山県)奥之院に通じる杉並木にも。こちらは、仲良く織田信長の墓所の近くにある。なんでも信長の怨念なのか、光秀の供養塔(丸い石)は、変えても変えても必ず亀裂が入るのだとか。高野山奥之院の七不思議としては有名な話。

もちろん、光秀の墓はそれだけではない。京都には光秀の首塚や胴塚が存在する。岐阜県には、明智光秀の墓である「桔梗塚」がある。どうやら、豊臣秀吉と戦った「山崎の合戦」で死なず、ひそかに岐阜県の中洞に落ち延びたからだという。明智光秀しかり、戦によって亡くなったとされる人物の墓は、複数ある場合が多い。死に至る状況が明確でないため、どこかで生き延びているというシナリオが用意されるからだ。

しかし、だ。
徳川家康は違う。戦で亡くなったわけではない。病名には諸説あるが、布団の上で亡くなったのは確かだ。

なのに、なんで大阪?
でも、嘘や幻ではない。本当にあるんですってば。大阪に。あの徳川家康の墓が。

今回は、この謎多き大阪の徳川家康の墓に迫る。墓があるのは東照宮系列の神社ではない。なんと、大阪の「寺」。家康の墓が大阪に存在する理由、それは彼の奇想天外な人生と深く関わっていたのであった。

正式な家康の墓ってどこにある?

そもそも、徳川家康の死因は何か?そして、どのように埋葬されたのか。大阪にある墓の話よりも、まずはここからだ。

静岡県にある久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)。久能山下から1159段の石段を登ったところにある神社だ。大棟梁・中井正清の晩年の作といわれ、荘厳な造りとなっている。正面には富士山、眼下には三保松原や駿河湾など、そのパノラマビューは絶景なのだとか。そんな久能山東照宮のなかでも、奥のさらに一番奥にあるのが神廟(しんびょう)だ。この場所に、かつて、家康の遺体が埋葬されていたという。創建当時は木造桧皮葺の造りで「御宝塔」と称えられていたようだ。

「久能山東照宮の神廟」最初に家康の遺体が安置された場所である

家康がこの世を去ったのは、元和2(1616)年4月17日。駿府城にて家康死去。享年75歳(数え年)。死因は食中毒や胃がん、寄生虫から膵がんまでバラエティー豊か。がん説が有力だが、それよりも確かなのは、家康が死期をある程度悟っていたということ。というのも、ちょうど死の2週間ほど前、家康の側近らは枕元に集められていたからだ。その顔ぶれは本多正純、南光坊天海、金地院崇伝(こんちいんすうでん)ら。家康は、自分の死後について、彼らに具体的な指示を出していたという。

その内容とは、自身が「神」となるまでのシナリオだった。遺骸は駿河の久能山へ葬ること。葬礼は江戸の増上寺。位牌は三河の大樹寺。1周忌後に、下野の日光山に小堂を建て勧請(かんじょう、分霊や仏神の霊を新たに迎えること)するようにとのこと。また、久能山の神廟についても、西向きに立てるようにと命令していたという。西の方角には、両親ゆかりの鳳来寺、松平家の菩提寺である大樹寺、そして、生誕の地、岡崎城がある。さらに延長線上には、京都が。睨みをきかせるためだともいわれている。

こうして家康の死から1年後。元和3(1617)年4月、家康の霊柩は栃木県の日光東照宮へと遷された。願い通りに、自らが御祭神となるために。じつは大化の改新で名を馳せた藤原鎌足も、同じく摂津の阿威山から1年後に大和の多武峰に遺体を遷しているのだとか。家康は、これを真似たのかもしれない。神号は「権現(ごんげん)」か「大明神」の両者で分かれたようだが、最終的には南光坊天海が推した「権現」に決定した。

なお、日光という土地は、江戸からみてほぼ真北。軍事的にみても、江戸を防衛できる自然の要塞であったという。「神」として江戸を守るという家康の遺志が強く表れた結果ではないだろうか。

大阪に家康の墓がある謎

そんなご立派な日光東照宮があるにもかかわらず、ひっそりとたたずむ大阪の家康の墓。場所は堺。臨済宗大徳寺派の寺院である「南宗寺(なんしゅうじ)」である。

寺の御由緒は、弘治3(1557)年に三好長慶が創建したとされている。なんでも、父の菩提を弔うために開山したのだとか。しかし、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で焼失。のちに、沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが、現在の場所に移して再建したという。そんな南宗寺に、家康の墓があるのだ。普通に考えれば、この近くで家康が死んだというのが妥当な線。はて、この近く?つまり、家康の死因に関係していそうなこと。そうであれば一つしかない。

家康の人生の三大危機の一つといわれる「大坂夏の陣」である。

前年に起きた「大坂冬の陣」で徳川方を苦しめた真田丸

豊臣秀吉の遺児、秀頼らを中心とした豊臣方と、江戸幕府を開いてさらに盤石なものとしたい徳川方。この両者が2回に分けて戦ったのが「大坂の陣」である。戦国時代における最後の大きな戦いといえるだろう。

下馬評は、兵力差からして徳川方が圧勝となるはずだった。が、慶長19(1614)年12月の「大坂冬の陣」では、真田幸村らが籠城した「真田丸」の活躍で徳川方が苦戦。思いのほか多くの死傷者を出してしまう。ただ、講和で大坂城の堀を埋めることに成功。翌年の慶長20(1615)年5月の「大坂夏の陣」では、徳川方は余裕の勝利を予想していた。

そんな中での、真田幸村率いる真田隊の影武者作戦(マトリョーシカ大作戦:命名だいそん)。徳川方はまたもや、真田隊にやりこめられる。3000の兵が捨て身で徳川本陣に攻め込み、家康もあわやの危機に直面。本陣の馬印は倒され、大混乱。一時は自刃も覚悟した家康だったが、体制を立て直して反撃、真田隊は敗走した。

真田幸村像

じつは、このラスト、南宗寺に伝わる話は少し違う。家康は自刃を覚悟しつつ、なんとか徳川本陣から脱出を試みた。その脱出方法は「棺(ひつぎ)」。家康は、棺の中に隠れて、大混乱の中を抜け出そうとしたのだ。

しかし、運悪くというか、目敏かったというか。真田隊の一人、後藤又兵衛がこの棺を怪しんだという。まあ、確かに怪しいわな。だって、大混乱の中、なんで棺よ?って誰だって思うはず。まさかとは思うけど、いっちょ、突いたれってな具合で、棺を槍で一突き。いや、二突きだったかも。とにかく、物言わぬ棺は槍で刺し貫かれたのだという。

もう、アレですよ。マジックのイリュージョン状態ですよ。あのマジックがどんな仕掛けになっているのか詳しくはないが、家康からすればマジ刺しとなったわけだ。いや、マジックよりも。ひょっとしたら、樽からびょーんと飛び出す予定だったのかも。

「黒ひげの ようにはいかず 死んじゃった」byだいそん

非常に残念だが、棺は狭い。足を上げて槍から逃れようとか、体を寄せてやり過ごそうとか、きっともうそんな段階ではなかったのだろう。逃げられない状態での一突き。もちろん、家康は瀕死の重体。なんとか歩くことはできたそうだが、それも虚しく南宗寺でこと切れたという。

えええええええええっ?マジすか?
慌てたのは家臣らである。
戦い自体は大勝であるのに、総大将の家康が討ち死にだなんて。これで豊臣方の残党も一掃でき、本当に盤石な徳川家の時代がやってくるというのに。誰も予想しなかったまさかの結末。残された家臣は大混乱。それと同時に、彼らは今後を憂う。家康の死が広まれば、また再び争いの火種が起きるかもしれないと。

そこで、家臣らの頭をよぎったのはただ一つ。

えいっ。隠してしまえ。
家康の死の秘匿。こうして、急遽、家康の影武者が仕立てられた。いわば、家康の替え玉である。死を知っているのは家康の近臣のみ。この一連の悲劇の一切合切、全てを秘匿して、このまま徳川家の世襲制を続けていこうと決断したという。

南宗寺の家康の墓は、当時の住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)が建てたものだとされている。なお、沢庵漬けで有名なこの人物を、徳川家は厚く庇護したとか。それが「大坂での家康の死」の何よりの証拠だろう。

私個人の見解だが、できることならこのまま調査などしないで頂きたい。だって、それこそ、ロマン溢れる歴史上最大のミステリ―って言えるじゃない?

そもそもミステリ―とは、ギリシア語の「ミューステリオン」が語源だとか。日本語に訳せば「不可思議」くらいだろうか。この「不可思議」は数字の単位にもなっている。「兆」や「京」よりもさらに12桁多い単位で、想像を絶するほど。人の想像も及ばない。そんな結末があったっていいではないか。

さて、これだけ書いて、ラストになんだが。
真偽は不明である。
信じるか信じないかは、あなた次第です。

参考文献
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『徳川家康に学ぶ健康法』 永野次郎編 株式会社メディアソフト 2015年1月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。