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2020.04.11

12歳で和睦の仲介?戦国時代最初の天下人・三好長慶のポテンシャルが半端ない!

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織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。私たちがイメージする「戦国の覇者」といえば、この3人の名前がすぐに挙がるでしょう。彼らが戦国の世を動かし、後世に多大な影響を与えたことは間違いありません。そのため、一般に彼らを「三英傑」と呼ぶことが多いです。

しかしながら、秀吉・家康の主君として2人の道を切り開いたとされる「最初の天下人」織田信長の前に、もう1人「知られざる天下人」がいたことを皆さんはご存じでしょうか? その男の名は、三好長慶(みよしながよし)。私は、彼こそ最初の天下人ではないかと思うのです。

現代では三英傑に比べると知名度で大きく劣る長慶ですが、彼の生涯を振り返ってみると「こいつぁスゲえや……」と思わず唸ってしまうような思想やエピソードが隠されています。

そこで、この記事では近年の研究で注目されてきた「三好長慶のココがスゴイ!」というポイントを、某大学のコマーシャル風にご紹介していきます。

※アイキャッチ画像はイメージです。出典:アムステルダム美術館

敗者の息子ながら、12歳にして和睦を斡旋した

長慶が生まれた三好家は、もともと室町幕府でも強大な権力を誇る役職・管領を務めた細川京兆家の当主に仕える家柄でした。彼の父・三好元長も細川京兆家の当主・細川晴元に仕え、混沌とした幕府内の権力争いを制して実権を握りました。ところが、やがて晴元と元長は対立し合うようになり、最終的に元長は晴元の手によって討たれてしまうのです。長慶は三好家の故郷である阿波へと逃がされ、わずか11歳にして「敗者の息子」という汚名を背負わされました。「これから長い雌伏の時を過ごすのだろう…」と誰もが思ったことでしょう。

ところが、時代は敗北者である長慶を見捨てませんでした。なんと、晴元が元長を倒すために協力を願った本願寺派の勢力が制御不能になってしまい、逆に晴元の命が脅かされてしまったのです! 

「ふええ…藪をつついたら蛇が出てきちゃったよう…」と言ったかどうかはさておき、晴元の苦境は別の反対勢力をも活気づけてしまいます。追い込まれていく彼は、なんとかして本願寺との戦いを止めなければならなくなります。

そこで晴元と本願寺の間に立った「和睦の使者」こそが、本記事の主人公・三好長慶だったのです! 彼は弱冠12歳という若さながら首尾よく和睦を斡旋し、見事に戦乱を片付けてしまいました。いくら戦国時代は平均的に若くから活動していたとはいえ、今でいう小学6年生の行動とはとても考えられません。やはり長慶はスゴかった……。

父の仇に従いながら反逆の時をうかがう

晴元の窮地を救ったことで中央政界に復帰することができた長慶。しかし、ここで考えてみてほしいことが1つあります。長慶の父・元長を殺害した人物は誰だったでしょうか?

そう、その人物こそ長慶が救った張本人である晴元。つまり、彼は「父の仇を助けることで、再起のチャンスを得た」というなんとも皮肉な経験をしたことになります。私たちの感覚からすれば「自分が死んでもいいから晴元を殺してやりたい」と思っても不思議はありませんが、戦国時代は今よりもずっとクレバーな世界だったのです。さらに、長慶は晴元の家臣として位置づけられ、彼の政権を支えるために命懸けで奔走していきます。泣く泣く晴元を助けるだけならまだしも、家臣として彼を守るために行動するのはとても信じられません。

しかしながら、ここには言うまでもなく晴元に従わざるを得ない事情がありました。当時の室町幕府において将軍の権力は失墜しており、最大の権力は将軍を補佐するはずの晴元が握っていたのです。まだ当時の三好家に彼を打倒する力はありませんでしたから、彼に従うほかに生き残る道は考えられませんでした。いくら乱世とはいえ実父との絆がなかったわけではなく、長慶にとって晴元のもとでの出世は必ずしも喜ばしいものではなかったでしょう。

それでも懸命に晴元を支えるうちに、いつしか長慶をトップとする三好一族の力がなければ晴元は生き残れないほどの勢力を手にすることとなりました。

ついに晴元を裏切り、「将軍なき政権」を目指した

いつの間にか強大な力を手にした長慶は、やがて「あれっ、もうオレ晴元に従っている理由なくね?」と思うようになりました。晴元本人にはなんの力もなく、彼を支えているのが自分自身であると気づいたからでしょう。

そして、天文17(1548)年にはついに挙兵。周辺勢力の多くを味方につけて晴元軍を追い込むと、翌年には江口の戦いで大勝を収めました。その後は晴元だけでなく京を追われていた将軍・足利義輝とも争い続けますが、勝利と和平を繰り返しながら着々と自身の政権を築き上げていきます。長慶方はとにかく戦に強かったため、いつしか彼に勝てる勢力は消え去っていました。そこで長慶は主君として仰いでいた細川氏綱(当時の細川京兆家当主)を飛び越え、自分をトップにする支配体制を確立させたのです。権力のピラミッドからつまはじきにされた義輝は大いに焦り、なんとか長慶と和睦することで形式的な権力を保持することしかできませんでした。

このように形成された長慶政権ですが、「ココがスゴイ!」というポイントは「自分自身が政治の最高権力者になろうとした」こと。「えっ、そりゃ自分がトップになることを目指すのは普通じゃね?」と思いたくなりますが、長慶が登場するまでは考えられない発想だったと言われています。

なぜなら、晴元も含めて室町幕府に仕えていた幕臣たちは「将軍を補佐し、自分は側近として権力を握る」という考えに囚われていたから。晴元は強大な権力を手にしていましたが、たとえ傀儡であっても将軍に成り代わって自分が政権のトップに立つことはなかったのです。彼らは「将軍>家臣」という先入観から抜け出しきれず、自分が一番になるという小学生でもわかる発想に思い至らなかったのだと考えられています。その壁を打破したのが長慶であり、彼は将軍に成り代わろうとしたのです。

長慶の思想は実に先進的なもので、あの織田信長よりも進んだ考えをもっていました。

織田信長像

信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭と対立し、やがて彼を追放したことはよく知られていますが、彼を担ぎ出して将軍の座につけたのは他でもない信長自身。つまり、この時点では信長も「将軍>家臣」の考えから抜け出せていなかったことを意味します。最終的に将軍との対立や自身の勢力拡大を振り返って義昭を追放する際、似たようなシチュエーションで将軍なき政権を築こうとした長慶の前例を見習ったと考えるのが自然でしょう。したがって、「長慶がいなければ今の信長はなかった」とさえ言えてしまうかもしれません。

長慶はそれだけ偉大な人物だったのです。

連歌にも優れ、文武両道の教養人だった

長慶がもっていたのは、強大な力と先進的な考えだけではありません。彼は当代屈指の文化人としても知られており、様々な面で功績を残しました。

まず、長慶はとにかく連歌が好きであったとされます。彼は実に32回もの連歌会に参加したとされ、連歌師や自分の家臣だけでなく天下の様々な人物たちと交流を図りました。同時に文学者という側面もあったようで、自分自身で紫式部や清少納言、在原業平といった王朝時代の作品までをも研究していた様子が伝わっています。それゆえに彼は同時代から「文学ばかりにかまけた軟弱者だ」と小馬鹿にされていましたが、

歌連歌 ぬるき物ぞと いう人の あづさ弓矢を 取たるものなし(歌や連歌を「軟弱だ」というヤツに限って、戦もてんでダメなものだ)

という和歌で反論しています。「戦で強くなるために、戦のことだけを考えていてはダメなのだ」という考え方は個人的にけっこう好みで、スポーツ好きとしては現代のスポーツ選手たちにも見習ってほしいものです。

また、刀剣の収集にも熱心であり、彼を含めて三好一族は後世に多くの名刀を残しました。徳川吉宗が作成した「刀剣名物帳」には一族に由来する様々な名刀が記録されており、その意義は大きなものがあります。

徳川吉宗像

刀剣女子の皆さんは、ぜひ長慶に感謝してみてください。

おわりに

本記事では「三好長慶のスゴいところ」だけに焦点を当てて解説してきました。しかし、言うまでもなく「スゴくないところ」がないわけではありません。しばしば批判される「軟弱者」「優柔不断」という側面も完全には否めませんし、三好政権が彼の死後すぐに崩壊していることを考えても安定的な政権を築けたとは言い難いです。

それでも、後の三英傑につながる「新時代の先駆け」となった一面は、もっと評価されてもよいのではないでしょうか。少々大げさに言えば、彼がいなければ今の日本は全く違った形をしていたのかもしれないのですから。

【参考文献】
長江正一『三好長慶』吉川弘文館 1968年
今谷明『戦国三好一族』新人物往来社 1985年
天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房 2014年

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?