Culture
2020.04.10

美人すぎて小学校を退学⁉︎絵葉書で人気爆発!芸妓「万龍」の波乱万丈人生

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くっきりとした二重の丸い目で太い眉、少しあどけなさのある丸顔の若い女性の写真。
「実はこれ、人気アイドルグループの〇〇なんだよね。映画の撮影で日本髪にした時に撮影した写真を、わざとセピア加工したんだって! 」
と言ったら、信じてしまう人もいるかもしれません。

実はこの写真の女性、全国的なスターでもあったのですが、それは今から100年以上前の明治時代のこと。彼女は、当時、赤坂の芸妓だった万龍(まんりゅう)なのです!
万龍は、明治末に「日本一の美人」と謳(うた)われ、彼女の写真を使った絵葉書は、まるで現代のアイドルのブロマイドのように大人気。

そして、現代のアイドル同様の悩みを持ち、「普通の女の子になりたい! 」と芸妓をやめて2度の結婚をするものの、2回とも数年後に夫が亡くなるという波乱万丈の人生をおくっていたのです。
(万龍の名前の表記は、万竜、萬龍、萬竜などいくつかあるようですが、この記事では「万龍」で統一しています。)

万龍の生い立ち

万龍の本名は、田向静(たむかう しず)。明治27(1894)年7月、東京・日本橋で運送屋の下請けをしていた田向初太郎と濱の間に生まれました。

父親が肺病となったことで、一家は困窮。静は7歳の時、東京・赤坂花街の芸妓置屋・春本の蛭間そめの養女になり、蛭間静子(ひるま しずこ)となります。
父・初太郎は、万龍が春本の養女になった年に、生まれ故郷の千葉・銚子で亡くなります。母・濱は、再婚して新しい家庭を築きました。

美しすぎて、小学校を退学させられる?

明治半ば、溜池を埋め立てて生まれた赤坂溜池町には、後の赤坂花柳界へとつながる料理屋や芸妓屋が軒を連ねていました。

万龍は、当初、赤坂の小学校に通っていましたが、あまりにも美しく服装が華やかすぎたことから、他の児童に悪影響を及ぼすという理由で除籍になったというエピソードが残っています。

絵葉書美人・万龍

明治40(1907)年、数えの14歳の時に、お披露目をしました。
数えの14、5歳と思われる芸妓見習いの半玉(はんぎょく)時代の万龍の写真には、少女と大人のはざまで、ゆらゆら揺れている、あやうい美しさが漂っています。
 

赤坂春本万龍(加野十次郎著『日本名妓花く良べ 第1集』 便利堂、1908年10月刊より) 国立国会図書館デジタルコレクション

明治33(1900)年、私製の絵葉書の使用が逓信省により認められるようになります。これを機に絵葉書への関心が高まり、後に日露戦争の戦時絵葉書の爆発的ブームもあって、絵葉書専門店は全国に広がっていきます。
様々な絵葉書の中でも人気があったのが「美人絵葉書」。「美人絵葉書」は、もともと日露戦争の時に出征兵士のための慰問用として作られたものでしたが、戦争後も現代のアイドルのブロマイドのようにたくさん作られ、流行。そして、花街の芸妓が全国的な人気になるという現象が生まれました。

当時の芸妓は、美貌のみならず、知識と教養を兼ね備えた社交のプロでもありました。また、女性は、当時のファッションリーダーとして、最新ファッションを身に着けた芸妓の絵葉書を、憧れの気持ちを持って見ていたのではないかと思われます。

その中でも、一番人気が万龍! 美貌の誉れが高く、当時流行の美人絵葉書のモデルとして絶大な人気を誇っていました。
「花柳界に縁がなくても、美人絵葉書の万龍は知っている」と言われるほど、その名は日本中に知れわたっていたのです。

「日本百美人」コンテストで1位を獲得!

万龍は、明治40(1908)年11月、雑誌『文芸倶楽部』が実施した芸妓の人気投票「日本百美人」の読者投票で9万票を獲得して1位となるほどの人気を博しました。
その人気ぶりは、新聞に「萬龍物語」が連載されたほか、花王の前身・長瀬商店の「花王石鹸」、三越呉服店、カブトビールのポスターなどにもモデルとして登場したほどでした。
江戸小唄の「間がいいソング」では、

酒は正宗、芸者は万龍 唄ははやりの間がいいソング……

と歌われたそう。

万龍の名前をまねて、名前に「龍」とつける芸妓も現れました。

明治40年代には、万龍は新橋・照葉(てるは)とともに東京の二名妓と呼ばれ、全盛を極めました。

女流作家・長谷川時雨も絶賛した万龍の美しさ

女流劇作家・小説家の長谷川時雨(はせがわ しぐれ)も『近代美人伝』の中で、「桃の莟のようだった春本万龍」と、万龍の美しさを讃えています。

十四五の彼女の姿が芍薬(しゃくやく)の莟のように私の目にうかぶ。あの首ばかり突出したありふれた芍薬の花の莟のようではなく、五月の末の新緑の茂りのかさぶった木下闇(こしたやみ)の、幽韻なものかげに、ほんのりと、ふっくりと、優に気高くなまめいて、それが牡丹というほどのおもいあがった生彩と富貴がなく、薔薇ほどの悩ましさがなく、全く芍薬のなかの類い稀(たぐいまれ)な絶品を見る気がした。……
あの二重まぶたは、薄霞に包まれた夕星の光のようなやわらかいやさしさ宿していた。ほおは撫でてやりたいようなこんもりとしたふくらみを持っていた。なによりも尊かったのは、彼女の顔には、すこしの媚びもなかったことである。……

一方で、絵葉書美人として知らぬ者のいない全盛の絶頂であった頃に、劇場で見かけた時の万龍の様子を、

髪も芸妓島田であったし着付けも地味なものであったが、何処となく、東坊第一流の妓としては野暮くさい素人じみたところがあった。それに彼女はあまり身長が高くないのに、肉付きのよいさかりとして梢ずんぐりとしているという感を与えた。

とも記しています。

長谷川時雨の文章からは、万龍は、小柄でかわいらしい、丸顔のぽっちゃり美人だったのではないかと推測できます。

実は、万龍は美人ではなかった!?

明治維新以降、一気に流入した西洋文化の影響を受けて、美人の基準も少しずつ変わっていきます。うりざね顔に細い目、おちょぼ口といった浮世絵美人の時代が終わり、ぱっちりした目で、鼻筋が通った、西洋風のくっきりとした顔立ちが美人とされるようになったのです!

そして、明治時代になると写真の時代がやってきます。四角い写真に切り取られたリアルな美人が、メディアを介して人々の注目を浴びるようになります。
最初にその対象となったのは、芸妓でした。宴席にはべり、美しさや芸を売り物にする芸妓は、その姿が写真として世間に公開されることに対しても、一般人のような抵抗感は少なかったのかもしれません。

万龍は、お酌(半玉)時代からその美貌で注目されていましたが、赤坂のある写真師によると、万龍の鼻は少々大きすぎるので、削って修正していたとか。

芸妓になってからも、「性格がおっとりしすぎだ」ととがめる者もいましたが、お客に合わせて話ができる話術の巧みさもあり、人気を集めていました。
贔屓客に言わせると、「万龍は小柄で、よく見ると抜きんでるほどの美人でもなく、芸も接客も大したことがないのに、そういったことをすべて超越する不思議な魅力と雅味(がみ)を持ち合わせていて、普通の美人と異なった美しさを持っていた」のだとか。

万龍のかなわぬ恋

長谷川時雨は『近代美人伝』の中で、「彼女自身の告白ではないので真偽は知らないが、全くの噂とばかりも言えない」と、万龍の失恋話も紹介しています。

一つ目が、眉目秀麗の貴公子・小村侯爵との恋。小村侯爵は若き外交官でした。万龍は、いつかは時めく侯爵夫人となり、海外の社交界で、輝く夫の後ろに立つ花となることを夢見ていましたが、彼女が芸妓であったからか、あえなく破局。

二つ目が地方富豪の若紳士との恋。一緒に三越呉服店で結婚用の晴着を見に行き、「もしかしたら、自分のもの? 」と胸の鼓動を抑えたものの、後になって、それが自分自身のものではなく、嫁として迎える他の女性のものであったことを知ったというもの。

万龍の恋を、長谷川時雨は、「自分が病気がちである上に盛時を過ぎたことで抱え主の扱いが粗末になってきたと感じ、芸妓から足を洗って普通の生活をしたいと思ったため、結婚を夢見たのではないか」と推測しています。

二度結婚するも長続きせず、未亡人に

万龍は、明治43(1910)年の夏、箱根の旅館・福住楼に滞在中に起こった水害に巻き込まれました。貧血を起こし逃げ遅れかけたところを東京帝大学の学生・恒川陽一郎(つねかわ よういちろう)に助けられました。
恒川は、作家・谷崎潤一郎の府立一中、一高以来の同級生であり、同人誌『思潮』に参加する文学志望の青年。父親は海軍技師で、「旧横浜船渠(せんきょ)株式会社第一号船渠(ドック)」(重要文化財)などを建設したことで知られる恒川柳作(つねかわ りゅうさく)です。

翌年、再会した二人は、恋に落ちます。
恒川は足しげく赤坂に通いますが、そんな芸妓遊びをするお金が続くわけもなく、ついに高利貸しから金を借りるようになります。「もう一緒になるしかない」、そう思った二人は、春本の女将に直談判しますが、「万龍の身請けの費用は1万円。その他、引き祝いに5千円が必要」と言われてしまいます。

恒川は、谷崎潤一郎にすがったり、姉婿の代議士・風間礼助を頼るなど、春本へ支払う万龍の身請け金の金策に奔走します。そんな中、前途を悲観した万龍自身も、青インクを飲んで自殺未遂を引き起こす一幕もあったとか。

二人が結婚できたのは、出会って4年後の大正2(1913)年のこと。大学生と芸妓のロマンスは、同年3月27日の『東京朝日新聞』記事で大きく取り上げられました。
この記事では万龍が結婚を決めた理由について、

その身の色香も昔のごとくならず、一二の旦那筋さへ永くは持てじと心細い矢先なるより、心から身をまかせる料簡となりしを見て……

とあります。

大正3(1914)年7月、恒川は東京帝大学法科大学政治学科を卒業。同年、自伝的小説『旧道』を刊行し、評判になりました。

世間を騒がせた挙句やっと結ばれた2人でしたが、大正5(1916)年8月29日、恒川は病死。万龍は、若くして未亡人になってしまいます。

再び万龍として芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めましたが、翌年、亡き夫・陽一郎の弟(早稲田大学建築学科卒)の恩師である建築家・岡田信一郎と再婚します。岡田は、大阪市中央公会堂(原案)や東京府美術館、歌舞伎座、明治生命館などの設計者として知られています。

岡田信一郎の大阪市中央公会堂(原案)(『大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案. 〔本編〕』 公会堂建設事務所、大正2年刊より) 国立国会図書館デジタルコレクション

万龍は結婚して幸せだったのか?

岡田と再婚後、万龍こと岡田静子は、病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念したそう。
岡田は昭和7(1932)年4月4日に、逝去。岡田静子は、再び未亡人となりました。
長谷川時雨は、『近代美人伝』の「万龍」の項の最後に、附記として

岡田工学博士は春秋に富み、早稲田大学講師としてより、日本に有数な建築家であり、京橋釆女町の歌舞伎座の設計は非常に賞賛されたが、悲しくもまた、この人も世を早くし、万龍は姑に孝養をつくしつつ静かな未亡人生活をおくっている。

と記しています。

万龍の後半生は、遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在であったそうです。
そして、昭和48(1973)年12月に亡くなりました。

結婚後の万龍がどのような生活をしたのか、結婚をして幸せだったのか、詳細は不明です。
現在でも、売れっ子アイドルから、「普通の女の子に戻りたい」と引退することがニュースとして駆け巡ることがありますが、万龍はその先駆けだったのかもしれません。

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。