室町幕府15代目にして最後の将軍、足利義昭(よしあき)。織田信長を頼って将軍になったものの、仲違いから京を追放され、室町幕府は滅亡。「運がない」「傀儡(かいらい)」「貧乏公方」など言われたい放題ですが、私はこの方「わりと好き」です(推しキャラ)。
今回は彼の人生、特にあまり知られていない「追放」後をお伝えしていきます。
足利義昭「わりと好き」松本清張氏の『陰謀将軍』
足利義昭に興味を持ったのは、織田信長に京から「追放」されたからです。当時の信長なら、もっと思い切った行動に出るのでは? と思いました。しかし、その後義昭は歴史の表舞台に出てこないので、疑問は持ちつつ、興味関心は他の時代や他の人物へと移ってしまいました。
私が好きな作家の1人が松本清張氏です。若い頃は長編をじっくり読みましたが、子どもが小さい頃は、まとまった時間が取れないので、短編にシフト。このときに出合ったのが『陰謀将軍』です。あとがきには、
義昭は史家から爪はじきされているが、私はこの将軍がわりと好きだ。
と書かれています。あとがきを先に読む派の私。彼を主人公にした小説は少ないので、「当たり」を引いた気分で読み進めました。
『陰謀将軍』に登場する義昭は、並大抵の精神力ではありません。今風に言えば、「メンタル半端ない」です。「あきらめが悪い人」か「あきらめない人」と取るかで評価は分かれると思いますが、私は後者です。読み終わった後は、「わりと好き」になっていました。
そこで今回は、『陰謀将軍』を参考にしながら、義昭の人生を紹介していきます。
将軍家の次男として誕生。仏門に入る
1537(天文6)年、12代将軍足利義晴(よしはる)の次男・千歳丸が誕生。
足利将軍家の慣例として、次男は仏門に入ることになっていました。後継者争いを防ぐため、そしていざという時血筋を絶やさないためです。千歳丸も6歳で、奈良の興福寺一条院へ。覚慶(かくけい)として、修行に励みます。
ちなみに、この3年前に織田信長が、1年前に豊臣秀吉が産まれています。
1546(天文15)年、覚慶9歳。兄は11歳で、13代将軍足利義輝(よしてる)に。また、信長が元服したのもこの年です。
このときの社会情勢を以下に記します。
1558(永禄元)年、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、信長に仕える。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦い。信長、今川義元を敗る。
1562(永禄5)年、信長、松平元康(徳川家康)と同盟を結び、尾張国(愛知県)を統一
戦乱の世に入っていく中、覚慶は修行に専念。仏に仕える身として、一生を終えるはずでした。
兄が暗殺され運命が大きく変わる
1565(永禄8)年、兄・義輝が松永久秀(まつながひさひで)や三好三人衆に暗殺されます。義輝は幕府の実権を回復しようと奮闘しましたが、家来筋に殺されました。追手は覚慶の下にもやってきましたが、義輝の家臣だった細川藤孝(ほそかわふじたか)の助けを得て脱出。
逃げる道すがら、藤孝は覚慶に「あなたこそ、次の将軍になられるお方です」と説きます。それを受けて覚慶は、
すると今まで朝晩誦していた経文の世界がずっと遠くへ押し退いてしまった。これまでずいぶん無駄骨を折ってきたような気がした。本当に生きる道に傍道からやっと出てきたような心になった。
覚慶の心に大きな変化が生まれたのでした。
「将軍に俺はなる! 」名前を改め決意を固める
1566(永禄9)年、近江国(滋賀県)蒲生郡観音寺城に逃れた覚慶は還俗※1して、義秋(よしあき)と名乗ります。
義秋はしだいに自分が今までの己れではなくなり、第一義的な人物に形成されてゆくような気がした。
このころは、「将軍になるのかな……」とまだ意志が固まっていない様子。各地を転々としたり、大名に上洛の協力を要請する書状を送ったりと、落ち着かない生活をしていたので無理もありません。
しかし、従弟で阿波公方と呼ばれる義栄(よしひで)が14代将軍になるといううわさが、耳に入ってきます。父も兄も将軍だった自分の方が、血統的に正しいのに。そうなると怒りが湧いてきて、「将軍に俺はなる! 」と名前を「義昭」に改め、決意を新たにするのでした。
織田信長と出会い、ついに室町幕府15代将軍に!
2度目の改名の頃、義昭は越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)の下に身を寄せていました。もちろん上洛を期待してのことですが、彼が動く気配はありません。義景に見切りをつけた細川藤孝が提案したのが、織田信長です。放浪の日々は3年に渡っていました。
1568(永禄11)年7月義昭は信長と出会いました。9月に信長は上洛準備、10月に義昭を奉じて上洛。こうして義昭は、室町幕府15代将軍(征夷大将軍)に就任しました。ちなみに、14代義栄は9月に病で亡くなっています。
念願かなった義昭。信長は、三好の残党の襲来を抑えたり、居館を工事したり丁重な対応をしました。義昭は書状に感謝を込めて「父、織田弾正殿」と書くほど。年齢差たった3歳で「父」はおおげさかも。
しかしこの良好な関係は、長く続きません。
信長との不和、京からの追放、そして室町幕府滅亡
義昭は将軍になった以上、信長の力を大いに利用して権力を強大化したいと考えました。しかし京から岐阜に帰る長い行列を見送ったとき、義昭は信長の存在の大きさに圧倒されたのです。
信長は濃尾の一領主ではなく、もはや「天下人」。対して自分は形だけの「将軍」なのか。
義昭は何か欺されたような気がした。自分の頭や肩にべっとりと足型がついたように思った。踏み台にして土足をかけて登ったのは信長である。
幸いというのか、信長は戦に出かけ多忙。義昭はその隙に諸国のめぼしい領主に御内書※2をしきりに送り、味方を着けていきます。
しかし、それを信長が黙っているはずはありません。
書状を送り、義昭にあれこれと指示。「信長の許可なしで、内書を出すな」「今までの命令は一切やり直し」要は、万事を信長に任せて、その指示に従えというものです。
義昭は、もう我慢なりません。
1573(天正元)年2月、味方についた浅井氏や朝倉氏、武田氏の力を借りて挙兵。しかし、最大勢力の武田信玄は現れず。使者が伝えたのは、「信玄死去」の知らせ。「信長包囲網」はあっさり崩れました。4月には信長は義昭の住む二条城を包囲。このころには、細川藤孝はじめ家臣たちは信長に寝返っていました。義昭は逃げるように、京を離れます。これをもって室町幕府は滅亡と言われています。
将軍追放、再び放浪の日々
逃げた先は山城国(京都府)宇治の槙島城。そこもあっさり包囲されます。義昭は腹をくくって降伏。信長はそれを受け入れました。
義昭は、このとき信長が自分を殺したくてならぬ衝動で苛々していることを知った。しかし彼にはできないのである。おれを八つ裂きにしたくても殺せぬ。それをすれば、信長の声望が墜ちるのだ。名分が彼を縛っていた。
信長にとって、将軍義昭は大義名分なのです。できることは「追放」くらい。義昭も、これは十分理解していました。
以前の義昭は、自分には「将軍」の地位しかないと嘆いていました。しかし、周囲から振り回され裏切られているうちに、これが自分の強みであると、理解したのだと思います。実際室町幕府は滅亡しても、彼は「征夷大将軍」でした。
河内国(大阪府)若江城を皮切りに、放浪を続ける義昭。結局毛利氏の勢力下の備後国(広島県)鞆(とも)に落ち着き、ここで幕府再興を目指します。西国には信長に賛同しなかった大名が多く、側を離れなかった家臣もいました。
放浪生活にも根を上げず、支援を取り付ける義昭。精神力が強いだけでなく、外交力もあったようです。
この頃の信長は、朝倉氏や浅井氏を滅亡させたり、長篠の戦で武田氏を敗ったりと多忙。義昭のことは頭になかったのかもしれません。
1578(天正6)年、筆まめな義昭は、上杉謙信にも協力の御内書を出します。しかし、謙信は現れず。やってきた知らせは「謙信死去」。さすがに、義昭も落胆します。
が、まだ負けぬぞ。負けてはならないのだ。
義昭は、ただただ毛利一族の肩を両手かけて揺さぶった。その顔は信長退治の妄執につかれて、妖怪じみていた。
『陰謀将軍』はこれで終わりです。松本清張氏は「波乱万丈ですよね。でもね、義昭の人生はこれからですよ」と言いたかったのかもしれません。
本能寺の変、宿敵の突然の退場
1582(天正10)年、本能寺の変で織田信長は自害。義昭はこれを機に、毛利輝元や柴田勝家、徳川家康から上洛の指示を取りつけます。
義昭は信長に対し恨みもたくさんあったでしょうが、それは横に置いて、上洛に邁進します。
さらに、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従。1585(天正13)年、秀吉は関白に(このころ、豊臣姓を賜る)。「関白豊臣秀吉、将軍足利義昭」という状態が2年半続きます。
再び仏の道へ
義昭は、島津氏に秀吉との和睦を勧めるように促すなど、秀吉にとって好意的に動きました。義昭47歳。幕府再興より、上洛が自分の目的だと気づいたのかもしれません。
この時期は、秀吉にとって天下統一を進めていく大事な時期。協力してくれた義昭に感謝すべく、1587(天正15)年、秀吉は上洛に協力します。
翌1588(天正16)年、義昭は征夷大将軍を辞して受戒※3し、昌山(道休)と名乗ります。朝廷からは、「准三后(じゅさんぐう)」と皇后に次ぐ称号を与えられました。これだけの地位のある人物を粗略に扱うことはできず、秀吉は槙島に1万石の領地を与えます。前将軍だけあって、破格の待遇でした。
秀吉の側近兼話し相手の御伽衆(おとぎしゅう)に加わったり、1592(文禄元)年、文禄の役には軍勢を従えて、自ら肥前国(佐賀県)名護屋まで出陣したりと、持ちつ持たれつの関係でした。
強みである「征夷大将軍」を辞した義昭。この辺りから、執着がなくなり穏やかに生きられたのではないでしょうか。
義昭61歳で死去、翌年に秀吉も死去
1597(慶長2)年8月、義昭は腫物を病み61歳で死去。室町幕府の将軍の中では、一番の長寿です。信長の死から15年が経過していました。
秀吉はちょうど1年後の1598(慶長3)年8月、62歳で死去。
朝鮮出兵、甥豊臣秀次の切腹、キリスト教徒の処刑と、晩年の秀吉にはあまり良いイメージがありません。実際、秀吉の死を機に朝鮮出兵は中止。豊臣政権は弱体化していきます。
信長は自害といわれていますが、遺体は見つかっていません(秀吉は自分が後継者であることをアピールすべく、派手な葬儀を行いました)
生涯、支援してくれる人を探し続けた義昭。依存とも取れますが、30歳前まで仏門に入っていて、「自分一人では何もできない」ことを理解していたのでしょう。弱みをさらせるのは、ある意味強みです。あきらめずに動き、手を貸してくれる人を見つけました。
義昭の死に対し秀吉の関心は薄く(慶長の役継続中のため)、ずっと従っていた家臣たちによる質素な葬儀となりました。
寂しい死に方とも取れるけど、不屈の精神で生き抜いて畳の上で亡くなった義昭の人生は、見事だと私は思います。戦国時代を見届けた、ラスボスなのです。
参考資料
松本清張『松本清張短編全集05 声』より「陰謀将軍」(光文社、2009年)