「結婚式で二人の馴れ初めを紹介するところで、『アプリで知り合いました』って言うワケ。そんなコト言っても平気らしい、今の若者って」
これは私の親友談。もう20年来の男友達である。彼と私がいう「そんなコト」には、ある種の意味合いが込められている。「アプリで知り合って結婚って世間的にはアリなのか……?」という、いらぬお節介。全く、結婚する当人にとっては、有難迷惑の範疇でしかないのだが。
遥か彼方、私たちの青春時代はというと、きっかけは「直接」が当たり前だった。気になれば直接話をする、直接声をかける。それができない、もしくはそんな声がかからない場合に、第三者の手を借りるという感覚だ。だから、プロフィールだけで判断する、AIがマッチングしてくれるなんて、夢の話。頼みの綱は我が直感だけ。当然、失敗もするし、裏切られもする。こうして、自分の直感を磨いて、運命の相手を手繰り寄せるしかなかった。
しかし、現在の若者からすれば、逆にそれが相当ダサいというのだ。「肉食系」「草食系」などの言葉が生まれた現代。異性を求めて積極的に動くことなんて節操もない、なんだかねえ的な感じ。「『そんなコト』に興味津々って……(汗)」という表面を保ちつつ、こそっとアプリで相手を探すのだという。もちろん、物理的、時間的制約で出会いがないなどの理由で探す場合も。もはや、私とは感覚が違うのだ。多種多様なニーズのお陰で、今やアプリでの相手探しは「普通のコト」だという。
一方で、さらに時代を遡れば、とんでもない探し方も。
それが、今回のテーマとなる「華族女学校」である。
明治時代に存在した華族の子女だけが通う魅惑の女子学校。じつは、そこでは予想もしない「嫁探し」が繰り広げられていたという。今回は、そんな「華族女学校」の内側を、まとめてご紹介していこう。
「華族女学校」で全員が上位評価を叩き出す謎の科目
まずは、簡単に「華族女学校」の歴史から。
弘化4(1847)年3月、京都御所の東側に学問所が設置。こちらは、朝廷の権威復活を強く意識された教育機関である。講義が開始されたのち、嘉永2(1849)年には「学習院」の名称が下賜されることに。これがそもそもの「学習院」のルーツである。
そして、時代は江戸から明治へ。版籍奉還後、大名や公家たちは「華族」と称し、明治10(1877)年には華族学校が開設。このとき、明治天皇より、校名をあの京都の「学習院」とする旨の勅諭があったという。現在の学習院は、こちらを創立した年としている。
当初は男女ともに門戸を開き、共学として設立されていた。しかし、女性にも教育をという気運の高まりを受け、明治18(1885)年、四谷に「華族女学校」を開校。こうして、華族の子女に対する本格的な教育機関が設立されたのである。この華族女学校は、のちの明治39(1906)年に学習院と再び合併、名称も「学習院女学部」となる。ただ、「徳育」を重んじる校風は、華族女学校からそのまま引き継がれているといえる。
こちらは『学習院女子部一覧』である。いうなれば、学則のようなもの。「学生心得」より一部抜粋しよう。
學生心得(明治44年3月改正)
第二章 禮法及び儀容等
第四條
「自ら驕慢游情の心を制し奢侈華美の風を戒めて専ら學業を勉勵すべし」
第十五條
「談話は常に話題に注意し決して他人の身上に關して批評を試むるが如きことある可らず」
『学習院女学部一覧』(国立国会図書館デジタルコレクションより一部抜粋)
さすが、華族の令嬢である。他人の身の上に関する噂話の禁止など、なかなか学則ではお目にかかれない内容だろう。
さて、この華族女学校を率いた中心人物が、下田歌子(しもだうたこ)。ハイカラさんでもお馴染みの「袴とブーツ」。この「女袴」の考案者としても有名な方である。なんでも、洋装が定着しないなかで、和服かつ動きやすい服装として考え出されたのだとか。また、現津田塾大学の創設者である津田梅子(つだうめこ)は、この華族女学校で英語を教えていた。こちらは、女子高等教育の道を切り開いた人物だ。こうみれば、華族女学校の講師陣はパワフルな方ばかりである。
華族女学校の開校初年度は133名が在籍した。小学科は満6歳以上12歳未満、中学科は満12歳以上18歳以下と幅広い。習得する科目はというと、現在の学校とさほど変わらないものばかり。国語は「和文学」、外国語は「欧語学」として、こちらは主に会話重視の内容だったという。また、現在では珍しい「裁縫」や「礼式」などの科目も、当時は見受けられた。
成績の評価は4段階。時期によっては、学則の内容も異なり100点満点法だったことも。基準は「甲・乙・丙・丁」の4種類で評価されたという。とはいっても、いずれも生徒は華族出身。上流階級の子女ということもあり、幼い頃からたしなんでいたものもある。そのため、科目によっては、結果的に全員が上位評価の「甲」となることもあったようだ。
例えば「習字」。まさしく、全員が甲評価になったという奇跡の科目である。
じつは、「習字」「和歌」「琴」の3つは、令嬢であればマストのたしなみ。誰もが幼少期よりお師匠さんについて学び、なかには一流のレベルに達する者も。そのため、これらは学校の教育以前の教養として位置づけられていた。他にも「裁縫」や「手芸」、「図画」も同じテリトリーの科目である。
いずれにしても、華族の子女という身分で、多種多様な芸事に秀でていた彼女たち。そんな彼女らを到底、放っておくことなどできぬと、考える者たちが現われるのは、時間の問題であった。
「授業参観」に隠された真の目的とは?
華族女学校の内容がある程度把握できたことろで、話を戻そう。
ここに、不思議な条項がある。
さきほどご紹介した『学習院女学部一覧』である。
明治39(1906)年に学習院と合併した華族女学校は、「学習院女学部」と呼ばれた。合併との言葉が使われているが、実際は男女それぞれの学校が並存するスタイル。つまり、女学部は学習院と別の学校として扱われ、これまでの華族女学校の慣例が引き継がれているところもあるという。
そんな学習院女学部の学則の中に、摩訶不思議な「参観人心得」という項目が。早速、一部を抜粋しよう。
参觀人心得(明治44年7月23日改)
第三
「参觀人ハ『フロックコート』若クハ羽織袴ヲ着用スベシ婦人ハ之ニ準ズルモノトス」
第四
「同一教室ニ同時ニ四名以上ノ参觀者ノ入ルコトヲ許サズ」
第五
「参觀人ハ教場ニ在リテハ殊ニ態度ヲ慎ミ姿勢ニ注意シ且ツ談話若クハ筆記ナド爲スベカラズ」
『学習院女学部一覧』(国立国会図書館デジタルコレクションより一部抜粋)
「参観人」とは、いわゆる授業参観をする人たちのこと。
それにしても、なんだかとっても、違和感がぬぐい切れない。授業参観って父母が集まるアレ……だよな?ってか、教室に同時に4名以上の入室が不可ってどうよ?全然入りきれないではないか。もう、参観というよりは、入場制限がかかるディズニーのアトラクション状態である。それに加え、授業参観する際の着用する衣服まで指定されるとは恐れ入る。現在の私たちからは、全く理解不能な規則である。
しかし、驚くことなかれ。
この条文は、全く異なる状況を想定しているのだ。
もちろん、授業参加に関する規定ではあるのだが、前提がことごとく間違っている。父母は父母でも、生徒当人の父母を指しているわけではない。息子の嫁探しをする父母やその息子本人ら。彼らに対する規定なのである。
どうしてこのような「授業参観」が許されるに至ったのか。
そもそも、華族女学校の設立目的は「良家の子女が新時代に向けて生きるべく近代教育を身につけること」。本来であれば「近代教育」という部分がクローズアップされるべきである、しかし、予想外にも「良家の子女」という部分にフォーカスした輩たちがいた。
上流階級の男性諸君とその身内である。
なんといっても華族女学校なのだから、彼女たちの出身は「華族」ということになる。これ以上ないほど、身元がしっかりとしているワケだ。詳細な身元確認など不要。どの家かさえ分かればよい。そのうえ、言葉は悪いが、よりどりみどり。同じ上流階級の子女が集まっていることもあって、比較することもできる。だったらと、見本市に出かけるくらいのお手軽さで、次期当主の嫁を探そうとする人々が続出したのである。
こうして、当時の華族女学校への立ち入りは、生徒の保護者や家族でなくても可能。部外者でも、学校へ申請さえすれば、学内へ立ち入りすることが許されたのだ(先ほどご紹介した「参観人心得」にも規定があり)。なお、注意すべきは、参観人となれる対象が限定されていたということ。具体的には、皇族、華族、政府高官などに限られていたのだとか。本当に上流階級からすれば、便利な制度であったといえる。
それでは、実際に彼らはどのようにして授業参観を活用したのだろうか。
まず、授業参観と称して彼女たちを「嫁候補」として観察する。真っ先に注目されるのは、やはり容姿である。「当家にふさわしい感じ」などと四の五の並べても、要は好みである。また、容姿だけでなく、立ち居振る舞いにも重点が置かれた。
さらに、授業参観ならではの内容も。授業を受ける様子、例えば声や言葉遣い、雰囲気や発言する内容など。また、学校での成績なども考慮して、慎重に選び出していたという。そうなると、先ほどの「参観人心得」の内容も納得できる。第5の条文には、教室で談話もしくは筆記などが禁止されていた。ズバリ、「メモるな」ということである。彼女たちを観察しながら、様々な項目で点数化していきたい、そんな欲求は捨てろということなのだろう。
実際に授業参観で見初められ、縁談の話が来たということも多かったのだとか。卒業する前に晴れて結婚、学校は退学しますなどのパターンも珍しくなかったという。現在では考えられないような制度だが、その需要はとても大きかった。
なお、経緯は少し異なるが、「授業参観」で妃候補に挙がったといわれるのが、大正天皇妃。かの貞明皇后(ていめいこうごう)である。
華族出身の女性たちが集う明治時代の華族女学校。そこは、効率のよい「嫁探しの場」でもあったのだ。
最後に。
上流階級の女性について、全く別の視点をご紹介しておこう。
明治時代の女性について書かれた書籍がある。著者は、華族女学校で1年の間、英語を教えていたというアメリカ人女性、アリス・ベーコン。日本からの女子留学生、山川捨松(すてまつ)のホストファミリーで、津田梅子とも知り合ったという人物だ。彼女は、明治15(1888)年と明治26(1899)年、2回にわたって日本を訪れた。
日本に滞在中、彼女は非常に多くの日本人女性と交流を持ったという。その範囲は広く、上流階級から、都会の中流家庭の主婦、農婦、女学生まで。多彩な日本人女性との触れ合いがあったようだ。そんな彼女が著した『明治日本の女たち』の一部がこちら。
「日本の上流婦人は、結婚と同時に自由を放棄し、夫と義理の両親に服従し、かれらの召使いとなる。年がたつにつれ、その表情には、あきらめと、自己犠牲ばかりが続く人生の苦労の痕跡がみられるようになる。一方、農民の女性は、結婚した後も夫と一緒に仕事をすることで、単調な家事以外の興味深いことも経験するようになる。裕福であまり働かない上流階級の女性と比べて、農家の女性の表情からは苦悩や失望は感じられなくなり、歳をとるにつれかえって個性豊かになり、人生をより楽しんでいるように見えてくるのだ」
アリス・ベーコン著『明治日本の女たち』より一部抜粋
一体、何が幸せなのかと、考えさせられる内容だ。それこそ、知り合う手段など関係ない。直接だろうが、アプリだろうが、華族女学校だろうが、それは本質ではないと気付かされる。
どんな人生も、一長一短。完璧な人生などないのだ。
だからこそ、いつの時代も「自分」と真摯に向き合っていきたい。
これが、案外、人生を楽しむ秘訣なのかもしれない。
参考文献
『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月
『明治日本の女たち』 アリス・ベーコン著 みすず書房 2003年9月
『100年前の三面記事』 大沢悠里のゆうゆうワイド選 株式会社角川 2016年1月