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2022.03.06

源頼朝も参加!大河の原作に直結する戦「平治の乱」を3分で解説【鎌倉殿の13人】

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令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、鎌倉時代より前の歴史を学ぼうのコーナー! ヤマトタケルから紹介して、いよいよ大河の原作『吾妻鏡』に直結する戦「平治(へいじ)の乱」だ!!

三浦胤義殿、今回もよろしくお願いします~!

背景

保元元(1156)年の保元(ほうげん)の乱が終結し、後白河天皇の政治の中心を担っていた信西(しんぜい)入道。

入道(にゅうどう)とは、出家したお坊さんのこと。現在とはやや異なる、この時代の仏教の形が垣間見えます。

しかしそこに、後白河天皇の亡き父である鳥羽(とば)法皇の妻、美福門院(びふくもんいん)こと藤原得子(ふじわらの なりこ/とくし)の一族が信西入道を自分たち側に取り込むことに成功! 後白河天皇は美福門院が推していた二条天皇に位を譲ることになった。

しかしこれが原因で、朝廷は反信西派・二条天皇派・後白河天皇派の三つに分かれ、熾烈な争いを極めていた。

勃発! 平治の乱

我らが棟梁・源義朝(みなもと よしとも)様は、信西入道の代わりに後白河天皇が重用した藤原信頼(ふじわら のぶより)卿を後ろ盾にしていた。だから反信西派として戦う事となる。

対して信西入道の軍事の要は平清盛殿率いる平家一門。平家は『平家物語』の影響か、貴族かぶれの弱腰武士ってイメージがあるかもしれないが、当時の平家といったら軍事面でもガチで敵う者が日本にいないレベルだった。

だから信西入道襲撃は、清盛殿が京から離れているタイミングで行われた。それが平治元年12月(1160年1月)だ。

平治の乱の経過

義朝様・信頼殿の反信西派はまず後白河上皇と二条天皇を幽閉する。そして突然の襲撃に遭った信西入道は、追い詰められて自害した。

信頼殿はさっそく朝廷の人事を行い、義朝様も昇進。そして知らせを受けて帰って来た清盛殿は、いったん信頼政権に従うフリをした。ところが清盛殿は水面下で、後白河上皇と二条天皇の脱出計画を進め、成功してしまった。

上皇と天皇を救い出した清盛殿は大義名分を得て、反信西派への反撃に出る。そこで義平殿が率いる少数精鋭の坂東武者たちも合流した!

平治の乱に参加した武士

義朝様方の武士として参加したのは、長男の義平(よしひら)殿。次男の朝長(ともなが)殿。そして我らが将軍こと3男の頼朝様!

そして比企尼(ひきの あま)の娘の夫である平賀義信(ひらが よしのぶ)殿。義朝様の第一の郎党、鎌田政清(かまた まさきよ)殿。

さらに義平殿が選りすぐった、精鋭17騎がこちら!

人を見る目に定評あり! 後藤実基(ごとう さねもと)殿! 佐々木四兄弟の父、佐々木秀義(ささき ひでよし)殿! 関時員(せき ときかず)殿と、片切景重(かたぎり かげしげ)殿!

オレの父上、三浦義澄(みうら よしずみ)!

山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)殿の父、俊通(としみち)殿!

木曽殿の恩人・斎藤実盛(さいとう さねもり)殿!

武蔵七党の猪俣(いのまた)党から猪俣範綱(いのまた のりつな)殿に岡部忠澄(おかべ ただずみ)殿。山村党の金子家忠(かねこ いえただ)殿!

顔がフワフワ! 平山季重(ひらやま すえしげ)殿!

『平家物語』の『敦盛最期』でお馴染み熊谷直実(くまがい なおざね)殿!

のちの13人の合議制の1人、足立区民の英雄・足立遠元(あだち とおもと)殿!

相模国の波多野延景(はたの のぶかげ)殿!……って『平治物語』には書かれているけど、義通(よしみち)殿のことと思われる。

房総半島からは上総広常(かずさ ひろつね)殿!

またもや紹介のクセが、クセが強いんじゃ!

前回の保元(ほうげん)の乱のメンバーと合わせると、ドラマで頼朝様の元に集まったメンバーがなんとなく見えてくるだろう?

平治の乱の後

さて、戦はというと、平清盛殿は、御所が戦場となるのを避け、その手前で義朝様たちを足止めしていた。そこに源頼政(みなもとの よりまさ)殿が清盛殿の援軍としてやってきたんだ。

それで義朝様たちは負けてしまった。藤原信頼殿は捕らえられて処刑され、義朝様たちは東国へと向かった。

親族が敵味方に分かれてしまった経緯は、前回の「保元の乱」記事にて。

その途中、大人数で移動すると目立つからと、義朝様は郎党たちを先に帰らせたんだ。父上たちは最後までお供すると言ったんだが、義朝様の命令で泣く泣く先に帰ったんだって。

そして義朝様は息子たちと東国へ向かう。その途中で、頼朝様ははぐれてしまい行方不明となる。次男の朝長(ともなが)殿は、戦で負った怪我が元で亡くなった。義平殿は義朝様と別れて、東山道から東国に向かっていた。

そして義朝様は、尾張国の野間(現・愛知県知多郡美浜町)に辿り着き、家人である長田(おさだ)父子の元に身を隠す。しかし長田は裏切って義朝様を討ち取ってしまったんだ。

義朝・朝長については、こちらの記事もあわせてお読みください(異なる説をとっています)。平治の乱で父に殺された源朝長。肉親同士の悲劇の連鎖はなぜ起こったのか?

義平殿は東国へ向かう途中にその知らせを受け、単身京都に引き返して清盛殿の暗殺を試みる。しかし失敗し処刑された。

はぐれていた頼朝様は近江の国でとらえられた。死刑になりかけたところを、清盛殿の継母である池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって、伊豆へと流罪になった。

頼朝様の同母弟、希義(まれよし)殿は土佐へ流され、同母妹の坊門(ぼうもん)姫は後藤実基殿の元に預けられ匿われて、都で育った。

5男の範頼(のりより)殿も密かに匿われて育ち、全成(ぜんせい)殿、義円(ぎえん)殿、義経殿は寺に預けられた。

こうして世は平家の時代となり……20年。ついに源氏たちの反撃が始まる!!

続きが気になるんじゃ~~~!!!

アイキャッチ画像:『平治物語絵巻 六波羅行幸巻』(「ColBase」から作成)

▼おすすめ書籍
保元物語・平治物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。