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2024.02.27

家族同士で争った「保元の乱」は後白河天皇がカギ? 3分で解説

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令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、鎌倉時代より前の歴史を学ぼうのコーナー! 今回は保元(ほうげん)の乱だ!

歴史はその時代よりさかのぼると、もっとよく分かる!レッツ遡上!

この乱は上から下まで家族が敵味方に分かれてしまった戦だなぁ。ちなみに三浦は、前回の大蔵合戦(おおくら がっせん)の戦後処理の為か、この戦には参加してない。

皇族の事情

まず、戦の主導権を握っていた朝廷の事情から。当時の最高権力者は鳥羽(とば)法皇。鳥羽法皇には2人の息子がいた。それが崇徳(すとく)上皇と後白河(ごしらかわ)天皇だ。

実は、崇徳上皇は鳥羽法皇の実の息子ではないのではという噂があってな。だから鳥羽法皇は後白河法皇を可愛がっていた……と、言われている。

その鳥羽法皇が保元元(1156)年7月に亡くなった。そこで崇徳上皇は、後白河天皇を排除して自分の子を天皇にしようとする。

しかしそれに後白河天皇が抵抗。朝廷内も崇徳上皇派・後白河天皇派に真っ二つに分かれてしまった。激化する派閥争いはやがて武力争いに発展してしまったのだ!

崇徳上皇派と後白河天皇派、2つに分かれてしまった後、一体どうなる!?

摂関家の事情

摂関家は、天皇を補佐する藤原氏の一族。その長だった藤原忠通(ふじわら ただみち)卿は男児に恵まれなかった。そのため、異母弟の頼長卿を養子にして後継者にしようとしていた。ところがその後、実子で男児が産まれてしまった。となると忠通卿は実の子こそを後継者にしたくなってしまったんだ。

戦国時代の豊臣家にも、同じようなことが起こりましたね……。豊臣秀吉は子を溺愛したって?親バカすぎて神様にまで文句を言った破天荒ぶり!

鳥羽法皇はこのご家庭事情に関わりたくなかったのか、どっちつかずな態度を取っていたらしい。そんなわけでこの2人の対立も、鳥羽法皇の死後に崇徳上皇と後白河天皇の対立に乗っかる形で激化していた。

平家の事情

平清盛殿は父の代から鳥羽法皇に仕えていた。しかし清盛殿叔父にあたる平忠正(たいらの ただまさ)殿は鳥羽法皇によってクビになってしまってな。それ以来、藤原頼長卿に仕えていたんだ。保元の乱では頼長卿と一緒に崇徳上皇方に付くことになる。

一方、清盛殿は鳥羽法皇の後継者である、後白河天皇側に付くこととなった。

源氏の事情

そして我らが源義朝様が、父の為義殿と不仲になってしまった事は前回紹介した通り。為義殿は多くの息子たちと一緒に崇徳上皇方に付き、義朝様は後白河天皇方に付いた。

どの家も、身内が敵味方に分かれてしまったんですね……。

戦の様子

戦については、まぁ色んな所で言及されているだろう。だから義朝様の元で戦った坂東武者を紹介する。

まず義朝様の第1の郎党、鎌田義清(かまた よしきよ)殿!!

佐々木四兄弟の父、佐々木秀義(ささき ひでよし)殿!

山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)殿の父・俊通(としみち)殿と、経俊殿の兄・俊綱(としつな)殿。

義朝様の2番目の妻の兄、波多野義通(はたの よしみち)殿。

大庭景親(おおばかげちか)とその兄景義(かげよし)殿。

木曽義仲殿の命の恩人、斎藤実盛(さいとう さねもり)殿。

顔がフワフワしている平山季重(ひらやま すえしげ)殿。

『平家物語』の『敦盛最期』でお馴染み、熊谷直実(くまがい なおざね)殿。

源義経殿の正妻の父、川越重頼(かわごえ しげより)殿。

坂東が誇るおじじ、上総広常(かずさ ひろつね)殿と千葉常胤(ちば つねたね)殿!

13人の合議制の1人。キャスト発表はまだか!? 八田知家(はった ともいえ)殿。

もちもちもちみつ、工藤茂光(くどう もちみつ)殿!

紹介のクセがすごいんじゃ~! それぞれの人物記事も、どれも楽しく読めるのでぜひ!

見よ、このオールスター感!! 他にも別勢力として、足利氏の祖である源義康(みなもとの よしやす)殿や、摂津源氏の源頼政(みなもとの よりまさ)殿も後白河天皇側として参戦している。

戦後処理

結果としては、後白河法皇側の勝利だった。

負けた崇徳上皇は讃岐へ流罪となる。天皇もしくは上皇が流罪にされるのは400年ぶりの事だった。

崇徳上皇方で指揮を執った左大臣の藤原頼長卿は、乱の最中に首に矢を受けて重傷を負いながらも3日間逃亡を続けた。そして奈良に避難していた実父の元に辿り着くが、面会を拒絶され、失意の中力尽きて亡くなった。

平正盛殿は清盛殿に、源為義殿は義朝殿によって斬首刑となった。身内の刑を自らの手で行うのは、武士の相続法にも関係があってさ。戦で負けた場合、負けた側の所領は勝った側に没収される。そしてその土地を恩賞として手柄を上げた武士に再配分するんだが、基本的に討ち取った者に配分されるんだ。

もし一族が敵側に回ったとき、他の家の者に討ち取られてしまうと、一族の所領がその分減ってしまうというわけだ。だから積極的に同族を討ち取りに行く。ちょっとこのルールを頭の片隅で覚えておいてくれな。

わっ……そうだったんだ。こういった時代ごとの常識やルールを理解していないと、現代の感覚で考えて歴史上の出来事を見誤ってしまいそう。

でも貴族からしたら、実の親を斬首するというのは、あまりに残酷な所業に見えたらしい。義朝様は非難されていたようだ。

平家と源氏

多くの犠牲を払いつつも、世は後白河天皇の天下となる。さっそく新しい政治体制を作るが、その中心となったのが後白河天皇の側近である信西(しんぜい)という元貴族の坊さんだ。信西入道は仲が良かった平家一門を重用し、都の軍事の要として平家が台頭しはじめる事となる。

ところがその信西の政治に口を挟み、自分たちの有利な方へと誘導する一派が登場。後白河天皇は不利な状況に追いこまれてしまう! そしてまた信西派VS反信西派として戦が始まる!! ということで次回に続く!!

うう、いいところで……! 続き、頼みますよ、胤義どの!

アイキャッチ画像:『保元平治合戦図』 「ColBase」を元に作成

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保元物語・平治物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

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鎌倉殿の13人 前編 NHK大河ドラマ・ガイド

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。