相撲LOVEの織田信長がつくった? 安土に残る古文書でわかった、大相撲の「東西」の起源

相撲LOVEの織田信長がつくった? 安土に残る古文書でわかった、大相撲の「東西」の起源

大相撲番付の「東」と「西」。物心ついたころから当たり前すぎて、私を含め、深く考えたことのない人も多いと思いますが、なぜ東と西なのでしょうか? 実は意外にも東西の起源は戦国武将の織田信長なんです。信長の居城があった滋賀県の安土に、信長と相撲の東西にまつわる興味深い場所と資料が残っています。

神話の時代にさかのぼる相撲の歴史

相撲に関する記述は『古事記』や『日本書紀』にまでさかのぼります。『日本書紀』に書かれた天覧勝負の伝説では、出雲(現在の島根県)の野見宿禰(のみのすくね)と當麻(現在の奈良県)の當麻蹶速(たいまのけはや)が勝負。この勝負で蹴速は命を落とし、蹴速の持っていた領地(現在の奈良県葛城市當麻)は朝廷に召し上げられ、勝利した野見宿禰に授けられました。

また平安時代には、諸国から召し集められた相撲人(すまいびと)の相撲を天皇が観覧する「相撲節会(すまいのせちえ)」が毎年7月に行われました。現代では、各地の神社で子どもの健康と成長を願って1歳前後の幼児の泣き声を土俵上で競わせる「泣き相撲」が行われ、今でも身近な神事として受け継がれています。子どもはギャン泣きしていますが、あの可愛らしい泣き相撲に笑顔にされている方も多いのではないでしょうか。

現代の大相撲に繋がる江戸時代の勧進相撲

日本の伝統文化であり、国技でもある相撲。テレビ中継でおなじみの現在の大相撲は、江戸時代に確立された勧進相撲(かんじんずもう)が基礎になっています。勧進(かんじん)とは、神社仏閣の建築修復を目的とした寄付のようなもの。その手段として興行が行われることがありましたが、勧進相撲は営利目的として利用され喧嘩沙汰も多く、慶安元(1648)年には「風紀を乱す」という理由で禁止令が出されました。その後数十年をかけて徐々に解禁され、江戸、京、大坂で、「四季勧進相撲」という体制が確立されていきました。

武士に好まれた相撲

今回のお話は、現代に繋がる相撲が確立された江戸時代より少し前、戦国時代のお話です。平安時代に宮中の行事として行われていた相撲は、政権が武士の手に渡ったことから承安4(1174)年に廃絶。鎌倉時代になると日頃の鍛錬(たんれん)という目的や趣味的な要素を持ち、武士の間で盛んになりました。鎌倉幕府を開いた源頼朝も相撲を好み、鶴岡八幡宮祭礼では流鏑馬(やぶさめ)、古式競馬と一緒に相撲を開催していたようです。

大の相撲好きだった信長

信長の相撲好きは歴史ファンの間では有名です。信長は、元亀元(1570)年から天正9(1581)年までの間、たびたび安土の常楽寺で相撲大会を開催しています。勝者を家臣として召し抱えることもあり、力自慢の家臣を増やすチャンスとしても相撲を利用していたようです。相撲大会は年に何度も開催され、まさに “大相撲安土場所” と呼ぶに相応しい賑わいだったと想像できます。

さすが信長、勝者に与えた褒美も超豪華で、金銀飾りの太刀、脇差、衣服、信長の領地の一部、なんと私邸まで!

天正7(1579)年8月6・7日は連日相撲大会が催され、伴正林(ともしょうりん)という18歳ほどの力士が7人抜きの大活躍を見せ信長に召抱えられました。しかし、伴正林は天正10(1582)年の本能寺の変で討ち死にしています。計算すると20歳を少し過ぎたところ。人の運命とはわからないものですね。

画像:安土駅前には近代相撲発祥の地を記念して、白御影石で作られた2人の力士の石像が設置されている

竹相撲で生まれた「東」と「西」

また、現在の大相撲の「東」と「西」は信長が起源といわれています。実際にこの関係を裏付ける場所と資料が近江八幡市の安土に残っており、起源となる逸話に登場する人物の末裔もいらっしゃいます。
天正9(1581)年1月15日、信長は家臣らとともに派手な南蛮装束に身を包み、左義長(正月15日の夜に催した火祭り)で爆竹を楽しんでいました。今でいうならコスプレではしゃいでいた、といったところでしょうか。相撲が大好きな信長はこの時、爆竹の竹を使って「竹相撲」を行わせました。その際、どうしても勝負がつかない力自慢の二人の健闘を讃えて、褒美として姓を与えたという話が残っています。それが東方から土俵にあがった伝蔵(豊浦冠者行實の子孫)と、西方から土俵にあがった常楽寺の右馬次郎(うめじろう)です。この二人にそれぞれ「東」という姓と「西」という姓を与えたと言われています。

「東」の姓を賜った東家では、四十四代目当主の東康彦さんが国登録有形文化財に指定されている建物や資料の保管に努められています。

画像:「豊浦冠者行實」の文字が読み取れる東家の門

画像:東家に伝わる古文書
内容一部抜粋:信長公は伝蔵の勇力の程を御覧成さりたいとのことで、同国常楽寺村の住人西馬次郎と申す者を相手に呼ばれ、青き大竹を引っぱらせた。両人相劣らぬ大力で、大竹は中より引き切れて、(二人は)東西へ分かれた。珍しい御遊興とたいそう感心されて、品々御褒美を下され、今家宝として伝来している。その時伝蔵は東の方、馬次郎ハ西ヘ分かれたので、(信長公は)伝蔵には東という氏、馬次郎は西という氏を下された。

竹相撲というのは、下の写真のように竹の左右の両端を持ってお互い逆方向にねじる力比べのことで、下の写真は新宮大社に巨大絵馬を奉納した際に再現した竹相撲の様子です。

画像提供:安土まちづくり協議会

伝蔵と右馬次郎の勝負では力が拮抗したため竹がねじり切れて、東家にはその竹で作られた花筒が伝わっています。こんなに太い竹が捩じり切れるなんて、相当の力自慢だったということがわかります。

相撲LOVEの信長だからこそ残る起源説の数々

戦国時代に日本でキリスト教の布教活動を行った宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』の中にも、「信長は裸で相撲をとらせることを好んだ」という内容の記述があります。信長と相撲の関係については竹相撲の東西の他にも、「弓取り式は信長が起源」「行司は信長が起源」など、いくつか起源説(諸説あり)を目にします。真偽は別として、信長の相撲好きがうかがえる話として現在まで伝わっているのでしょう。

協力:大河ドラマ「麒麟がくる」近江八幡市推進協議会
参考文献:信長公記

アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより

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