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2020.05.20

鋭い刃先で小さく切る!テルモ株式会社の「痛くない注射針」の秘密

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年間1000回以上――。糖尿病患者が治療のために打つ注射の回数です。血糖の状態を安定させるためにはインスリンを1日に数回(多い時は4~5回)注射せねばなりません。ですから、年間では単純計算でも軽く1000回を超えてしまうのです。

注射器はたいてい、薬剤などを入れる筒の部分と注射針とでできています。体内に薬を入れたり、血管から血を抜いたりするときに欠かせない医療機器です。しかし、針を刺される際の痛みが苦手で注射を嫌う人は少なくありません。

ふだん健康な人が注射をするのは1年のうちでも健康診断時の採血かインフルエンザなどの予防接種くらいでしょう。しかし、Ⅰ型糖尿病という病気の子どもたちは、インスリンを病院のみならず自分でも注射しなければなりません。日に何回も。
痛くない注射針「ナノパス」の製品構成
そのことを知った医療機器製造会社、テルモ株式会社(東京)の技術者は、なんとか痛みを感じにくくする注射針を提供できないかと考えました。

痛みに耐える患者さんの負担を減らしたい

開発にあたって技術者たちが目指したのは「インスリン注射のたびに痛みをこらえる患者さんの負担を少しでも減らす」ことでした。この心意気がすべての始まりです。

針が刺さる時の痛みを軽減するにはどうすればよいのか。さまざまな研究を重ねた結果、技術陣は「針を細くする」という至って簡単な方法に辿り着きます。

よく知られているように、皮膚の表面には痛みを感じ、脳に知らせるためのセンサー「痛点」が分布しています。個人差はありますが、その数は1平方センチあたり100~200。「痛点に触れなければ痛みを感じない。だから、分布する痛点の間隔よりも細い針を作ればよい」。「針を細くする」ことに開発の狙いを定めた技術陣の理屈です。

しかし、直径を細くすればするほど、針の中に薬液は通りにくくなります。なかなかうまくいきません。相反する2つの条件をいかに実現していくか。技術陣は毎日、このジレンマに向き合わねばなりませんでした。

世界で最も細いインスリン用の注射針

さらに研究を続けた末に導き出されたのは「針の形を先端に向かってより細くなる『テーパー針』にすれば、痛みを減らす一方で薬も通りやすくすることができる」という考えです。

ようやく方向性を固め、図面に起こしたものの、それを実現する技術が社内にはありません。なければ協力者を探すのがビジネスの常道です。同社は自分たちの設計を形にしてくれるパートナーを求めてさまざまな企業や工場に問い合わせたり訪問したりしました。その数は合わせて100社以上に及びます。

なかなか色よい返事がもらえず、ひるむ気持ちを何度も味わった担当者は心が折れそうになると「痛みをこらえる患者さんの負担を減らしたい」という原点に立ち返りました。そんな願いが通じたのか、東京都墨田区の町工場が引き受けてくれることになりました。

筋金入りの職人気質で知られるその町工場は持ち前の工夫と独自の金型によるプレス加工技術を駆使して、テルモが望む、先端が細い「テーパー針」を見事に作り上げました。

こうして同社は2005年にまず細さ0.2ミリ、長さ5ミリの「世界でも最も細いインスリン用の注射針」ナノパスを発売。2012年にはさらに細い0.18ミリ、長さ4ミリのシリーズ製品を世に問いました。最も細い針の記録を自ら塗り替えることに成功したのです。
最も細い針の記録を自ら塗り替えた「ナノパス」の先端部

一つずつ丸めて仕上げる「ダブルテーパー」

では、先端が細く、根本が太い針はどのように形にすることができたのでしょうか。通常の注射針は長いパイプを切って作ります。当然、先端から根本までの太さは一定です。
長いパイプを切断していた従来の方法(上)と一つずつ丸める「ナノパス」の製法
これに対し、ナノパスは台形のステンレスを金型に押し当てて一つずつ丸めて仕上げています。この方法が優れているのは、針の内径も外径も先端に向かって細くなる「ダブルテーパー」構造を施せることです。
薬剤注入の抵抗を少なくする「ナノパス」のダブルテーパー構造
ダブルテーパー構造の利点は皮膚に挿入する部分は細いまま、薬を押し込むときの注入抵抗を減らすことができることです。加えて、先端部は左右対称でなく、独自の非対称刀面構造で「針を突き刺すのではなく、刀のような鋭い刃先で小さく切る」設計を採用。「痛くない」を支える独自技術です。
鋭い刃先で小さく切る先端部の形状

「痛くない」に続く「こわくない注射針」

ナノパスは2005年以降、これまでに国内で累計15億本以上を販売。2019年にはこれまでの長さ4ミリを1ミリ短くした「ナノパスJr.」を発売しました。
「ナノパスJr.」のパッケージ(上)と針ケース
これは「こわくない針」をコンセプトに開発されたもの。先端の太さはこれまでと同じ0.18ミリですが、子どもややせ型の患者にはより使いやすくなっています。たとえ1ミリとはいえ短くすることで威圧感を和らげ、心理的な不安を減らす効果が期待されています。

糖尿病患者の治療に寄り添った新製品も

糖尿病患者の心身両面の負担を減らしたいという所期の目的はナノパスシリーズの開発と普及で一応の成果をもたらしました。しかし、糖尿病の治療は日進月歩。

さまざまな医薬品や医療機器、運動、食事を組み合わせた新たな治療も行われています。「それでも私たちのナノパスがインスリン注射の痛みや怖さ、不安を少しでも和らげることにつながっていればとても嬉しく思います」(同社広報室)。
世界一細いインスリン用の注射針「ナノパス」の先端部
必要は発明の母という言葉があります。ナノパスの開発を推し進めたのも糖尿病の子どもたちの姿を目の当たりにした技術者の「なんとかしたい」という、純粋な気持ちからでした。それは医療機器製造会社としての使命感でもあったでしょう。

同社はナノパスの他にも、皮下に留置したプラスチック製の細い管を介してインスリンを持続的に注入する貼り付け型機器(パッチ式インスリンポンプ)や血糖値を測定する機器などの関連製品を展開。糖尿病患者の生活に寄り添うという思いを形に変えてきました。
パッチ式インスリンポンプ「メディセーフウィズ」のリモコン及び本体(上)と装着イメージ

新型コロナウイルス禍を契機とする「新しい生活様式」が医療の世界をどのように変え、前に進めていくのか。第二、第三のナノパス(的な製品)が登場するのはそう遠い日のことではないような気がします。

書いた人

新聞記者、雑誌編集者を経て小さな編プロを営む。医療、製造業、経営分野を長く担当。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に』(©井上ひさし)書くことを心がける。東京五輪64、大阪万博70のリアルな体験者。人生で大抵のことはしてきた。愛知県生まれ。日々是自然体。