歌舞伎では、衣裳や鬘(かつら)、小道具を身に着けた役の扮装を「拵え(こしらえ)」と言います。役により印象がガラリと変わり、様々な表情をみせる歌舞伎俳優の皆さんに思い出の拵えや気分がアガる衣裳、そのエピソードを伺います。
第7回は、江戸の荒事から上方の和事、家の芸から新作まで、幅広い役に挑まれる松本幸四郎(まつもと・こうしろう)さんです。
十代目 松本幸四郎(まつもと・こうしろう)
つぎはぎの主人公を、歌舞伎らしい見せ方で
「祖父から父へ受け継がれた衣裳を着るとやはり特別な気持ちになります。どの役にもそれぞれの思いがあります」と幸四郎さん。『勧進帳』武蔵坊弁慶や『菅原伝授手習鑑 寺子屋』松王丸など、古典の大きな役をつとめています。
数々の役の中から今回は「こだわりを詰め込んだ拵え」として、『蝙蝠(こうもり)の安(やす)さん』についてお話いただきました。
チャップリンを歌舞伎にした『蝙蝠の安さん』
『蝙蝠の安さん』は、チャップリンの喜劇映画『街の灯』を題材にした歌舞伎です。1931年に初演されたきり映像も残っていませんでしたが、2019年に新たな演出で復活。拵えも一新して、幸四郎さんならではの主人公の“安さん”を創り、評判となりました。
チャップリンが演じた浮浪者チャーリーを、歌舞伎の名作『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』に登場する、蝙蝠安(こうもりやす)に置き換えています。
「安さんは、設定から考えればボロボロの身なりのはずです。しかし『そういう役だから』と、ただみすぼらしいものを衣裳に選ぶわけではありません。役の境遇を表しながら、いかに歌舞伎の主人公としてお見せするか。昔からの歌舞伎の手法で昇華することを目指しました」
つぎはぎの着物は、『東海道四谷怪談』の『隠亡堀(おんぼうぼり)の場』の佐藤与茂七(よもしち)を参考にしたそうです。
「本来は貧しさゆえのつぎはぎですが、舞台衣裳として見たときには、単色の着物より視覚的に変化が出ます。色味は原作のモノクロ映画にあわせてモノトーンでデザインしていただきました。さらに『廓文章 吉田屋』の藤屋伊左衛門にならい、安さんの着物を紙衣(かみこ)にしました」
「紙衣」とは、布地ではなく和紙で作られた着物のことです。
「歌舞伎における紙衣は、布の着物を買えない貧しい境遇を表します。伊左衛門の紙衣には行書体の文字が入りますが、安さんの紙衣には、英字で『街の灯』の台詞を入れています」
CHECK!! 伊左衛門の「紙衣」、安さんの「紙衣」
『廓文章 吉田屋』
藤屋伊左衛門は、若旦那でした。しかし遊女夕霧に入れあげて勘当されて、みすぼらしい紙衣姿になります。着物の文字は、恋文で作られた紙衣、という設定によるものです。
『蝙蝠の安さん』
安さんの着物には「Tomorrow the birds will sing(明日になれば鳥も歌います)」。『街の灯』でチャーリーが、命を捨てようとした人を引き止めて励ました時の台詞です。安さんは、花売り娘に恋をします。目が見えない彼女のために奔走。お人好しの性格と一生懸命な姿がたくさんの笑いを起こし、切ない余韻を残しました。
笑うお客さんを僕らが笑う『狐狸狐狸ばなし』
幸四郎さんは、1月に歌舞伎座で『狐狸狐狸(こりこり)ばなし』に出演し、主人公の伊之助をつとめます。
こちらも笑いの多い喜劇です。
伊之助は、もとは上方の女方の役者でした。今は女房のおきわ、そしてトボケた雇人の又市とともに、手拭い染屋を営んでいます。しかし、おきわには間男がいて……。
「笑っていただける作品ですし、ドタバタ喜劇にも見えるかもしれません。しかし言葉にするなら、騙し合い、恨み、復讐のドラマなんですよね。『間男された男の気持ちは、お前に分からない』といった生々しい台詞もあります。登場人物たちの人間性や行動を肯定するわけではありませんが、人間には矛盾や短所があるもの。そこに人間味があり、人間くさい、人間らしいドラマを感じます」
脚本は、北條秀司(ほうじょう・ひでじ)。昭和を代表する劇作家で、大きな影響力があったことから“北條天皇”とまで言われました。
「北條先生は人間の本質を深く描かれます。そして言葉を選ばずに言うならば、北條先生は相当なひねくれ者だったのではないでしょうか(笑)」
北條秀司の「ひねくれ」について次のように話します。
「たとえば『ドラえもん』って、いたらいいなと憧れますよね。でも本当に同じ部屋で365日同居していたらどうでしょうか。絶対に嫌になると思うんです。大きいし。『狐狸狐狸ばなし』の作中の出来事も、実生活で起きたらまるで笑えません。でもお客さまには喜劇としてご覧いただき安心して笑っていただく。北條先生の“マジック”で成り立っているお芝居なのだと思います。その本質を掴んだ上で、どれだけ皆さんに笑っていただけるか。芝居を見て、笑うお客さんを僕らが笑う。騙しだまされの一番のターゲットは、お客さんなのかもしれません」
笑いのある芝居は好きですか?
「ドリフは育ての親」と公言。子どもの頃は、姉の松本紀保さん、妹の松たか子さんを巻き込んで、「家族だけにしか見せないコントを作っていた」そうです。
舞台で笑いのある役をつとめるようになったのは、1996年8月の歌舞伎座から。
「中村屋のおにいさん(十八世中村勘三郎)が『狐狸狐狸ばなし』で伊之助をなさった時に、僕に又市を、とリクエストしてくださいました。それまで三枚目の役はほとんど経験がありませんでしたから、当時の僕には挑戦でした」
1月11日放送の『ドリフに大挑戦!ドリフ結成60周年 爆笑大新年会SP』ではドリフ初出演。最近好きな漢字は「手偏に“楽しい”と書いて『擽(くすぐる)』。「くすぐってでも笑わせたい、楽しませたいって、いいですよね」と声を弾ませます。
「自分としては『意外と面白い芝居もできるんだね』というスタンスです。でも最近、『意外と真面目な芝居もやるんだね』と言われます」
不思議そうに首を傾げたので、一同は笑いに包まれました。
今回、又市役をつとめるのは、幸四郎さんの長男・市川染五郎さんです。親子で台詞の掛け合いの稽古をされたそうです。
「とにかく笑わせるための芝居が好き、というわけではないんです。掛け合いで起こる笑い、まさかここで!? という驚きからの笑い、本心を隠すことで起こる笑い。そのような芝居として計算された、稽古の積み重ねで生まれる笑いが好きです。今回の伊之助は(歌舞伎として上演される以前に)森繫久彌さんがなさった役。森繁さんの可笑しみ、あの世界観を目指したいです」
別人に変身するのが芝居だから
今後取り組みたいことのひとつは、鶴屋南北の全作品上演。
「南北全作の台本を紐解き洗い直すところから。ヒーローや武将の活躍とは違う、日の当たらない場所で生きる人しか出てこない芝居ばかりなのですが(笑)」
歌舞伎俳優の家に生まれ育った幸四郎さんは、いうなれば日の当たる場所で生きる人。日陰の人々や、正義の味方と対極の存在に、特別な思いや共感があるのでしょうか。
「役への共感は、あまり関係ありません。自分と同じ役はひとつとしてありませんし、芝居は別人に変身することだと思っています」
「ただ、たしかに(新作や復活狂言など)歌舞伎の題材を選ぶ時に、勧善懲悪のヒーローを、と自分から思ったことはない気がします。矛盾や欠点があるのが人間。そこに人間らしさを感じ興味もわく。なぜでしょうね。人が嫌いだからですかね」
思いがけない言葉にどきっとしますが、幸四郎さんは冗談っぽく、いかにも深刻そうに続けます。
「コンビニの買い物もセルフレジがあれば絶対にセルフです。ガソリンスタンドも無人を選びます。そうすると車の窓ふきもセルフになるから、一生懸命自分で拭きます」
必ずしも、人が嫌い、というわけではなさそうです。
「でも昔から、ひとりでした。構ってほしいけれど、ひとりでいたい。学校に行けば本当に授業だけ。放課後にだれかと寄り道をして、という思い出は正直ありません。稽古や舞台で常に忙しかった、というわけでもなく、ひとりで遊びを見つけて、ひとりで忙しくしていました。もちろん舞台が決まると、ポンと学校を休むことになります。その期間は修学旅行も行事も参加できません。常にずっとは、一緒にいられなかったから」
孤独感は「特にありませんでした」。「でも構われないと寂しい。でも、ひとりがいい」と笑います。
“矛盾があるのが人間で”。
聞いたばかりの言葉がリフレインします。
「お客さんに笑っていただける芝居は好きです。でも自分自身で人を笑わせることなんてできません。すごく笑ってもらいたい、すごく注目されたい。そういった思いは自分の中のどこかにあるのだと思いますが、『それをしたいんです』と言う勇気がない。自分に一番ないものかもしれません。だから変身するんです。役に勇気をもらい、舞台に立っているんでしょうね」
最後に「そういえば」と幸四郎さん。
「まさに拵えに憧れた役は『義賢最期』。木曾義賢の最後の拵えは、衣裳も頭(かつら)も本当に格好良くて、あれをしたいんだ、という思いでやらせていただきました」
その時の写真を拝見すると、舞台での凄まじい気迫と美しさが思い起こされます。蝙蝠の安さんとも手拭い染屋の伊之助とも、幸四郎さんともまるで別人で、変身という言葉以外では説明できそうにない振り幅です。
「新年は浅草歌舞伎に出演される中村歌昇くんに『熊谷陣屋』を教えて、僕は歌舞伎座で『狐狸狐狸ばなし』から始まります。どんな2024年になるか楽しみです!」
関連情報
壽 初春大歌舞伎
■会場:歌舞伎座
■日程:2024年1月2日(火)~27日(土)
昼の部 午前11時~/夜の部 午後4時~
https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/851
※松本幸四郎さんは「昼の部」の『狐狸狐狸ばなし』、そして「夜の部」の『鶴亀』と『息子』に出演されます。
池波正太郎生誕100年企画『鬼平犯科帳』SEASON1
■2時間スペシャル
『鬼平犯科帳 本所・桜屋敷』2024年1月8日放送・配信
■劇場版
『鬼平犯科帳 血闘』2024年5月10日公開
■連続シリーズ
『鬼平犯科帳 でくの十蔵』2024年5月以降
『鬼平犯科帳 血頭の丹兵衛』2024年5月以降
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