初役も持ち役も、真摯に向き合い勤めあげる名脇役
寿猿さんは現役バリバリです。いかにバリバリかと言うと、2023年は1、4、5、6、7、8、9、10、12月の9か月間舞台に出演し、そのうち8か月は約25日間(2日休演日含む)の本興行。立役も女方もこなし、古典でも新作でも登場すればその場面に歌舞伎らしい渋み、旨みが広がります。
記憶に新しいところでは、新作歌舞伎『流白浪燦星(ルパン三世)』の牢名主。
「初めての役でしたが、僕の出る場面は『四千両(しせんりょう)』※と同じに(オマージュして)作られていました。最近あまり上演されないお芝居ですが、僕は今の中村勘九郎さんのおじいさまの十七代目勘三郎さんの野州富蔵、今の幸四郎さんのおじいさまの八代目幸四郎さんの藤岡藤十郎で『四千両』をやった時、役人の役で出たんです。また、戦前の女歌舞伎の一座にいた子どもの頃には皆で歌舞伎座で、六代目(尾上菊五郎)と初代中村吉右衛門の『四千両』を観ました。牢屋の場面をすごいなと思ったこと、牢名主がどっしり構えていたことが何となく頭に残っていました」
今回は、どのような解釈で牢名主を演じたのでしょうか。
「相当な悪事をしてきた、という肚(はら)でやりました。仲間内で殺しをするくらいの悪人かもしれない。仲間の下の連中の罪を背負って牢屋に入った大親分かもしれない。金勘定や書きものをしながらも、周りの挙動をよく見ています。尾上松也さんの石川五右衛門がきた時も落ち着いていて。眉間に古い傷をいれたかったのですが稽古期間も短いでしょう? 演出家も忙しそうでしたから(笑)、やめました。次にやらせていただく時に相談します」
さらに2024年2月からはスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』に出演。今まさに新橋演舞場で公演中の話題作です。寿猿さんは、大和の国の老大臣を勤めています。
「38年前に初演されたお芝居です。その時はヤマトタケルの4人の家来のひとりで出ていました。その後みやず姫のお母さん(国造の妻)や占い師、腹黒い大臣(新大臣)の役もやりました。老大臣はあくまでも善人。そして大臣ですから威厳をみせなくてはいけません。家来にはない貫禄をみせる役として、まっとうしたいです」
物心つく頃には舞台にいた
役者になったきっかけをお聞きすると、「気づいたら役者になっていました」と寿猿さん。一番古い舞台の記憶は3歳の時。
「色んな縁があって3歳で女歌舞伎の坂東勝治さんの一座に預けられて。それが僕の最初のお師匠さんです。『三勝半七(さんかつはんしち) 酒屋の段』のお通(つう)という子どもの役で舞台に出ました。おばあさんに抱かれて、“をーば、をーば、ちーちーたいたい(乳飲みたい)”という台詞。もちろん当時の僕は、なぜこんなことをする不思議だった。でも……」
お通を抱き寄せるように腕を構えたかと思うと、指に力を込めました。
「お師匠さんは言われたことができないと、お客さんに見えないところでツネるの! 僕が泣く、お客さんが泣く。おじいさんやおばあさんが泣きながらこちらを見ていたような思い出です。本当は、僕のおっかさんが役者になりたかったんだよね。でも色んな事情で役者にはなれなくて、僕に託しました。だから素人なのに、しょっちゅう僕に言っていました。あそこはああじゃだめだよ、こうしなきゃだめだよって(笑)」
寿猿さんのプロフィールを調べると、いずれも初舞台は「1934年小石川小劇場の『義経千本桜』渡海屋・大物浦の安徳帝」と記載されています。しかし今のお話では、それ以前に『三勝半七』に出演されていたことになります。
「そうなの」と笑う寿猿さん。
役者生活90周年インタビューの予定が、さらにおめでたい役者生活91周年かもしれないインタビューとなりました!
大歌舞伎の世界へ、澤瀉屋一門へ
女歌舞伎は、女役者が中心となり歌舞伎の演目をみせる一座です。坂東小鶴の名前で修業がはじまりました。初恋は16、17の頃。お相手は女役者の方でした。
「市川小太夫さんのお弟子さんでした。巡業で一緒になり、何となく好きになった。小さな一座で武具や馬具は揃わなかったけれど、やる演目は歌舞伎と同じ。『石切梶原』で僕は小姓、人が足りなくて彼女も小姓で出ていました。戦争が終わってすぐの頃、『勧進帳』は(忠義の話だから、とGHQに)禁止されていたけれど、それも何とか許可をとってやっていました。僕は番卒、彼女は太刀持ち。可愛らしくて小柄で、ぽっちゃりした人。ちょっと年上だったの。僕の名前は小鶴でしたから、出番が近くなると『つるちゃん、つるちゃん』と呼びにきてくれる。僕も毎日話しかけましたが、それで終わっちゃいました。これが僕の初恋です」
その後、いわゆる“歌舞伎界”、大歌舞伎の世界に入ります。
「歌舞伎座は空襲で焼けた後で、まだ復活していません。はじめは猿之助大旦那(二代目猿之助。初代猿翁。以下、大旦那)のご舎弟・八代目市川八百蔵(八代目中車)に入門しました。“八百”の弟子で、僕は七百三郎(なおさぶろう)の名前をもらいました。その後、大旦那のご子息の三代目市川段四郎に入門し、僕は段三郎になります。色々あって大旦那のところで僕は市川喜太郎に。その後、名題昇進して喜猿になります。それから三代目猿之助若旦那(二代目猿翁)の門下で寿猿になり幹部昇進します」
「大旦那はやって見せる。なんでお前はこんな風にするんだ? こうじゃないのか? って。三代目の若旦那と(四代目)段四郎さんは、おふたりが子どもだった頃から見ていました。ご兄弟ですが性格は違いました。三代目はエネルギッシュ。段四郎さんは若旦那に比べて大人しいタイプでしたが僕たちにも良くしてくれましたよ。あそこはこうしたらいいんじゃないか、とか言ってくれる。もちろん三代目の若旦那も良くしてくれましたが、熱い人でしょう? 激しかった!(笑) 僕はずっと澤瀉屋(おもだかや)でお世話になっています。今の澤瀉屋の雰囲気ですか? 僕個人として感じるのは、皆で中車若旦那、團子ぼっちゃんを盛り立てていこうという気持ちじゃないかなと思います」
忘れられない、いい女(女方)、いい男(立役)
健康の秘訣は「階段」。
団地の5階にお住まいで毎日階段の昇り降りを欠かしません。過去の取材では「宝ものは、記憶力」と答えていました。
「来月の芝居の台詞をもらったら、ワープロで打って小さい紙に印刷します。それを携帯電話にはっておくと移動の時にいつでも見て覚えられます。最近はそれでも覚えるのが大変。でも視力はいいから良かったです」
そんな寿猿さんの「記憶に残るいい役者」をお聞きました。
数々の名優が思い浮かぶ中、まずは女方から。
「時播磨(ときはりま)と呼ばれた今の時蔵さんのおじいさま、(三代目)中村時蔵さんの舞台は印象に残っています。(役者として同じ)舞台でぶつかった中では(六代目)中村歌右衛門さんです。大変な女方さんでした」。
「歌右衛門さんが八百屋お七をなさった時がありました。裸馬に乗せられたお七が刑場へ向かいます。僕は馬の前を歩く役人でした。義太夫にあわせてお七が泣くと、僕が“コレ”とたしなめます。そして気を変えて、前を向いて歩いていく。それだけの役でしたが、出る前に歌右衛門さんが言いました。“これを教えちゃうと、アンタ良い役になっちゃうけれどもね。同情して『これ』と言いなさい。囚人に対する言い方ではなく、お七の気持ちを汲んで、その気持ちが分かる役人として言いなさい”と。僕たちの役にも、そこまでのことを教えてくれた。大変研究熱心な方だと思いました」
では立役の「記憶に残るいい役者」はいかがでしょうか。
「僕らは先生と呼びましたが、十七代目勘三郎さん。肚で芝居をされる方でした。それから……」と少し考え、「出し物をする人(主役クラスの俳優)でなくてもいいですか?」と顔を上げた寿猿さん。
「先々代の(初代)中村吉之丞さんは印象に残っています。『源氏店(与話情浮名横櫛。よわなさけうきなのよこぐし)』なら番頭をやるような役者で、敵役も良かった。楽な芝居をしているように見えるけれど印象に残ります。たとえば『一谷嫩軍記 熊谷陣屋(いちのたにふたばぐんき くまがいじんや)』の梶原景高。景高は、義経や家来の前を横切りバーッと花道を出ていきます。それが普通のやり方ですが、この人は義経の前を通る時、ふっと義経を警戒する芝居を入れました。斬られるんじゃないか? と怖がり、大丈夫だ、と分かってから行く。市川右團次さんが巡業で『熊谷陣屋』をやった時、僕は梶原でした。吉之丞さんの芝居をとりいれました」
「どうだったかな?」を積み重ねて
2022年8月の歌舞伎座で、寿猿さんは92歳にして初めて宙乗りをしました。その時の台詞は虚実皮膜(きょじつひまく)。歌舞伎座の客席は、笑いと涙と熱い拍手で溢れました。
「私はね。あなた達のお爺さんも、ひいお爺さんもひいひいお爺さんも間近で見てきたけれど、皆もっと凄かった。あの素晴らしい舞台姿がこの目に焼き付いて未だに忘れられない。お前たち、もっと、もっと精進して、先祖たちが守り伝えてきたこの歌舞伎を、ずっとずっと後の世までも伝えておくれ。私は見届けられるかどうかわからないが、お前たちの成長を、歌舞伎界の発展を、心から楽しみにしているよ。しっかり頼んだぞ」
ご活躍の勢いは増すばかりです。
「木挽町(歌舞伎座)の下を歩いていて、寿猿さん! とたくさん名前を呼んでいただけるようになりました。最近の方が多いくらいです。Xってありますね、Twitterから変わりました。あれを見ると、皆さんが寿猿さん寿猿さんと呟いてくださいます。驚きます」
最後に、寿猿さんご自身が、役者として大切にしていることを聞きました。
「ひとつは、遊ばないこと。舞台で遊んではいけないと思っています。遊びがなくてはいけない、という方もいますが、それは、ふざけて遊ぶのとは意味が違うと思います。たとえば花道の七三からツケ際まで何歩で歩くか。タタタと行けるところをゆっくり歩くのは遊びがある、というような、ゆとりのことではないでしょうか。本当にふざけて遊んでいたらお客さんに失礼です」
「もうひとつは、あくまでも役になりきること。僕はそうです。舞台に出ている間は諸々のことは考えない。そうでなければ、ただそこで喋っているだけの人になってしまいます。あと……今ではあまり言えたものではないけれど……やっぱり台詞を覚えることは大切なんですよね(笑)」
歌舞伎の本興行は、初日を迎えると約1ヶ月続きます。
「毎日毎日、今日はこうやってみたけれど、どうだったかな? の繰り返しです。大丈夫だったかな、と人に聞くこともありますが、あまり良くなくても『寿猿さん、良かったよ!』と言ってくれる方もいるでしょ?(笑)。だから、ここにいる彼にも聞きます」
彼とは、同じ澤瀉屋の市川喜太郎さんのこと。この日の取材に同席してくださいました。
「彼は本当のことを言いますよ。マズい時はマズい、良かった時は良かった!って。我ながらよくやった、と思えるのはそういう時くらいでしょうね。昨日と同じ役を、昨日はこうしたけれどもっとこうやった方がいいな。つっこんだ芝居をしなきゃだめだ。そう考えながらやっています」
公演情報
『ヤマトタケル』
【公演スケジュール】
2月4日(日)~3月20日(水・祝)新橋演舞場
5月6日(月・休)~19日(日)名古屋・御園座
6月8日(土)~23日(日)大阪松竹座
10月、博多座