心地よく美しい音が教えてくれること
このたび、久しぶりに引っ越しをしました。荷造りをしながら、一枚一枚、着物をたたんでいきます。手に触れるたび、その着物を纏っていた頃の光景が、静かによみがえります。
十年前、上京したばかりの私は、新しい土地で自分の居場所を探すことに精一杯でした。引っ越しを機に身の回りのものと向き合ってみると、それらが鏡のように、今の私を映し出していることに気づきました。
たたむ手がゆっくりになるのは、決まって、しばらく袖を通していない小紋です。色柄に力があり、どこか主張のある着物。当時の私は、そんな着物を好んで纏っていました。

今振り返ると、あの頃の着物は「着るもの」であると同時に、自分を装い、守るためのものでもあったように思います。まだ居場所を探していた私は、装うことで、どこか必死に自分を支えていたのかもしれません。時を重ねる中で、私は少しずつ、さまざまなものを手放してきました。
「こうあるべき」という思い込み。肩に入っていた力。そして、とにかく答えを見つけようとする自分。その変化は、着物を纏い続けてきた時間と、無関係ではないように思います。
着物は、頭で考えるよりも先に、身体に問いかけてきます。衿元は心地よいか。帯の締まり具合はどうか。今日の光や風に、この一枚は馴染んでいるか。
そんな小さな身体の感覚に耳を澄ませることが、いつしか日々の習慣になっていました。朝の光や、昨日とは少し違う空気を感じながら、その日の一枚を選ぶ。着物に触れ、自分と着物がもっとも心地よく、美しく調和する、その日だけのかたちをつくっていく。
すると、気づけば呼吸が深くなり、心と身体が再びつながっていくのを感じます。その積み重ねが私の心身をととのえ、世界とのつながり方まで、少しずつ変えてくれたように思います。
引っ越しは、ただ住まいを移すことではありません。今、自分の周りにあるものを見つめることは、自分の在り方を見つめることでもあります。だとすれば、ワードローブは単なる衣類の収納ではなく、身体の記憶の積み重ねであり、生き方の軌跡なのかもしれません。
今回の引っ越しであらためて気づいたのは、「今、何を持っているか」よりも、「これまで何を手放してきたか」ということでした。一つひとつの選択が、今の私という身体をつくり、暮らしを育み、今日纏う一枚へとつながっているのだと思います。
新居の、まだ何もないクローゼット。そこへお気に入りの着物を一枚ずつ納めながら、この十年という時間は、着物だけでなく、私自身の身体と生き方も、少しずつ育ててくれていたのだと、しみじみ感じたのでした。


