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2023.03.28

落合芳幾・月岡芳年とは?国芳門下の2大ライバルの作品・特徴を解説

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東京・丸の内の三菱一号館美術館で、明治時代の浮世絵師2人の仕事を顕彰する「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」という興味深い展覧会が開かれている。幕末の浮世絵師、歌川国芳の2人の弟子、落合芳幾(おちあい・よしいく)と月岡芳年(つきおか・よしとし)に光を当てた企画展だ。

2人のうち、最近よく目にするのは芳年のほうだろう。芳幾の名前を聞くのはひょっとしたら初めてという方も多いのではないか。しかし、本展で2人の作品を見渡して、芳幾も芳年に負けず劣らず優れた画家であることに気づかされた。歌川国芳には80人もの弟子がいたという。弟子の間でもしのぎを削っていた様子が目に浮かんでくる。そして、なぜ芳幾が今まであまり評価されなかったのかを知りたくなった。本展を見て、2人それぞれの人生ドラマが展開していたことがわかった。

電柱を守るために家を壊す力士たち

何はともあれ、まず作品を紹介しよう。芳幾の作品からは、少々珍妙な一枚。『東京日々新聞 第百十一号』である。『東京日々新聞』は、明治初期に創刊が相次いだ「錦絵新聞」の草分けである。

落合芳幾『東京日々新聞 百十一号』 明治7年(1874年) 大判錦絵 毎日新聞社新屋文庫蔵 展示風景

 
予備知識として押さえておいたほうがいいのは、明治時代初期の浮世絵を取り巻く状況である。葛飾北斎や歌川広重の錦絵(多色摺り浮世絵版画)が一世を風靡していた幕末とはまったく異なる状況が展開したのが、明治維新後の浮世絵界だった。

現代において評価が著しく高い北斎や広重の錦絵ですら二束三文の値段しかつかず、逆にその価値を積極的に認めた欧米に数十万点にもおよぶ作品が流出していた。しかし、浮世絵師たちは江戸時代の浮世絵が廃れたからと言って、錦絵を制作しなくなったわけではない。彼らは生きのびることに必死であり、自分たちの腕を生かす場を求めて、時代に合った浮世絵を作る努力をしていたのだ。

本展で展示された芳幾の錦絵『東京日々新聞 百十一号』は、その現実を裏付ける一枚である。『東京日々新聞』という名前からわかるのは、この錦絵が「新聞」であることだ。新聞名が題字として書かれた札を天使のような2人のキャラクターが支えたモチーフが、画面上部に描かれている。では、一体この「新聞」は何を報じているのだろうか。本展図録によると、発行は明治7年(1874年)10月だ。

画面中央には、2人の力士が大きく描かれている。江戸時代にも力士を描いた相撲絵はたくさんあったが、この絵は少々趣が違う。2人は土俵上で組み合っているわけではなく、お互いに背を向けて何らかの作業をしている様子だ。

力士が背中合わせで作業?気になりますね。

何をしているかは、絵の余白部分に書かれた文章を読むとわかる。相撲の興業で静岡県の沼津を訪れていた力士2人が火事の現場に遭遇し、燃えている家を壊しているというのである。家を壊して延焼を防ぐのは当時の消火方法としては常套手段だったと考えられるが、この場面ではあえて守っているものがあった。画面の手前に大きく描かれている電柱だ。明治初期の日本において、電柱は文明開化を象徴する極めて大切な物だったのだ。力士が時代を象徴する物を守るために消火活動をしたとすれば、その意外性から、今でもニュースになるだろう。

錦絵新聞は、明治初期に創刊が相次いだいわゆる報道メディアとしての新聞から派生する形で、1本の記事を取り上げ、絵を主体にした1枚の錦絵として刊行された媒体だった。版元・絵師・彫師・摺師の連携によって出版されたのは、江戸時代の錦絵と同じシステムである。『東京日々新聞』の場合は、明治5年(1872年)に創刊されたほぼ同名の『東京日日新聞』という文字主体の新聞が先にあり、芳幾はその経営にもかかわっていた。その中の記事の一部を、絵のインパクトで読者を引きつけることを狙って、錦絵新聞に移し変えていたのだ。世の中の価値観が変わりつつあった維新直後の日本で、芳幾はどうすれば生き抜くことができるのかを考え、実際に行動に移していたことがわかる。芳幾は単なる絵師ではなく、ベンチャービジネスを仕掛けるアイデアマンでもあったようだ。

国芳から受け継いだジャーナリズムの精神

刊行が相次いだ「錦絵新聞」は、東京や大阪で数十紙を数えた。芳年のほうは、錦絵新聞として明治7年(1874年)に創刊された『郵便報知新聞』の絵師として活動した時期があった。

月岡芳年『郵便報知新聞 第五百三十二号』 明治8年(1875年) 大判錦絵 毎日新聞社新屋文庫蔵 展示風景

本展図録の解説によると、『郵便報知新聞 第五百三十二号』の記事には、「盗癖がある16歳の娘が腹違いの兄弟に両国橋に投げ込まれるが、たまたま通りかかった巡査に助けられた話」が書かれているという。確かに興味深い内容なのだが、新聞記事としては少々違和感を覚える人もいるのではなかろうか。芳幾の力士の記事にも言えることだが、かなり常識から外れた、あるいは、スキャンダラスであったり猟奇であったりする事件や出来事が、錦絵新聞の記事になっているのだ。

それにしても、芳年がこの絵で見せた構図は見事である。三日月と女性の体の反りが呼応して、両者が闇の中で光を放っている。こうした猟奇な事件の描写においても、美を強く意識していたのだろう。また、芳年はしばしば、流血事件をどぎつい赤を使って描いた「血みどろ絵」の画家として語られてきたが、その媒体の多くは錦絵新聞であり、芳幾も関わった分野だった。錦絵新聞は、政治的な記事が多かったという文字主体の硬派の新聞とはずいぶん異なる存在感を見せていたのである。

インパクトが強くて、目を引きます!

一方、文字主体の新聞と錦絵新聞の間には、必ずしも経営上の関係があったわけではなかったようだ。錦絵新聞は、新聞に載っていた面白そうな記事を取り出して、新聞とは別の版元が大きな絵をつけて市民に提供するケースもあった。新聞と錦絵新聞の両方が同じ名前で存在した『郵便報知新聞』は、その代表例だ。文字主体の硬派の新聞だった『郵便報知新聞』は、明治5年(1872年)に日本の近代郵便制度を創設した前島密(まえじまひそか)らが創刊した日刊紙だった。

錦絵新聞は、浮世絵の伝統があったからこそ生まれた媒体だったとも言える。芳幾も芳年も、自分たちの腕を振るう場を見出していたのである。芳幾や芳年がこうした媒体の絵を手掛けた背景には、師の歌川国芳の影響もあった。国芳は幕府を揶揄(やゆ)するような錦絵を制作していたこともあり、ジャーナリズムの精神を内包していたのだ。

歌川国芳『源頼光公舘土蜘作妖怪図』 天保14年(1843年) 大判錦絵三枚続 浅井コレクション蔵 展示風景

『平家物語』などに基づく場面を描いた国芳の『源頼光公舘土蜘作妖怪図(みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず)』は、土蜘蛛が天保の改革、武人は十二代将軍徳川家慶や老中水野忠邦、たくさん描かれた妖怪は江戸市中の人々などを想像させる「判じ物」の錦絵として、当時の人々に楽しまれていたと推察されている。直接幕府に物申すような絵を描けばつかまってしまうゆえ判じ物として巧妙な表現をした国芳は、批判精神を持つジャーナリストのような存在でもあったのである。

国芳は裸の人をあつめて顔に見立てた寄せ絵や、猫の絵でも知られています。

不遇の晩年を過ごした芳幾

もっとも、錦絵新聞の寿命は短かった。野口玲一・三菱一号館美術館上席学芸員が本展図録に掲載した論考には、『東京日々新聞』『郵便報知新聞』とも、明治9年(1876年)に廃刊した旨の言及がある。また、筆者が以前調べたところでは、全国で数十紙が刊行されたという錦絵新聞のほとんどは、10年ほどで姿を消している。いわゆる報道媒体としては金属活字による制作が始まった新聞の印刷スピードに勝てるはずはなく、記事は1枚に1本しか載っていないことなどからコストパフォーマンスも低い。その結果、市場のニーズがなくなったと考えられる。

野口氏の論考によると、芳幾は明治8年(1875年)に創刊された『平仮名絵入新聞』が名を変えた『東西新聞』(文字主体の新聞、明治23年(1890年)終刊)の付録の錦絵を描いたというから、その頃までは錦絵の制作で身を立てていたのだろう。その後は、ほかに手掛けていた事業もうまく行かずに借金を抱え、不遇の晩年を過ごして明治37年(1904年)に72歳で没した。後述するように肉筆画を手掛けることもあったが、錦絵新聞とともに絵師としての命運もしぼんでしまったと見ていいのではないだろうか。

落合芳幾『柳光若気競 きん八』 明治3年(1870年) 大判錦絵 悳コレクション蔵 展示風景

絵師として描いた絵が世の中に受け入れられるかどうかは能力の有無ばかりでなく、時代のありようにもよるし、運にもよる。芳幾が錦絵新聞を手掛ける前に制作した錦絵の中で、才能がよくわかる一枚を挙げておきたい。『柳光若気競 きん八』という作品だ。

「きん八」というのは芸妓の名前である。まず、美女が和傘を差した構図が美しい。特に気が利いているのは、きん八が着ている浴衣の「雨乞小町」という名前の柄だ。平安時代の六歌仙の一人として知られる小野小町が勅命で雨乞いの和歌を詠んだところ雨が降り出したと伝えられる場面が絵柄になっているのだ。浴衣の上の絵柄では小町に従者が傘を差し掛けているのだが、加えてきん八自身も傘を差しているところが、ヴァーチャルとリアルが同化したようで、実に心憎い。

こういう遊び心も、センスなのでしょうね。

月に人並み以上の愛着を見せた芳年

芳年のほうは、なかなかの人気絵師として生涯を過ごしたようだ。かけそば1杯が8厘の時代に、月30円ほどの収入を得ていたこともあったという。師の国芳の作風を受け継いだ大判三枚続、すなわち3枚の画面をつないで一つの場面を表す大画面の錦絵は、今見ても迫力満点である。

月岡芳年『藤原保昌月下弄笛図』 明治16年(1883年) 大判三枚続 北九州市立美術館蔵 展示風景

芳年の『藤原保昌月下弄笛図』は、藤原保昌という平安時代の笛の名手を襲おうとした盗賊が、笛を吹き続ける保昌がまったく隙を見せなかったため襲うことができなかったという話を題材にした作品だ。それにしても、ペン(文章)ならぬ「笛(音楽)」が「剣(武力)」に勝つとは、何と素晴らしい話なのだろう。現代の戦争においてもそういうことが起きないかと筆者は期待してしまう。ちなみに、この作品はもともと絵画共進会という催しに出品した肉筆画を錦絵に起こしたものだ。おそらくこの図柄なら多くの人々に受け入れられるという目算があっての仕事だったのだろう。

笛の音が聞こえてきそうな、ドラマチックな作品。

そして芳年の作品の中で筆者がとりわけ素晴らしく感じているのは、晩年に月をテーマにして描いた『月百姿(つきひゃくし)』シリーズである。刊行が始まったのは明治18年(1985年)。没した同25年(1892年)まで取り組み続け、100枚を描ききった大部の連作だ。

月岡芳年『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』 明治18年(1885年) 大判錦絵 浅井コレクション蔵 展示風景

そのうちの一枚である『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』は、干拓事業のさなか、湖に毒をまいたとの嫌疑をかけられたある一族の女性が、雪が積もった冬の朝野川に身を投げて父の赦免を願う場面を描いた作品だ。飛ぶように身を投げる姿はあまりに美しく鮮やかである。モチーフとしての月は、先に挙げた『藤原保昌月下弄笛図』など多くの作品に見られる。「月岡」という名前にも「月」の字を擁していた芳年は、月に人並み以上の愛着があったのではないだろうか。その愛着が高じて、月を題材にした美しい作品の数々が生まれたのだろうと、筆者は想像している。

肉筆画で糊口をしのぐ

芳年は没する間際まで錦絵の絵師として気を吐いていたものの、活版印刷が展開していたこともあって、錦絵の版元は総じて明治中期にはかなり苦しい状況にあったらしい。錦絵においては、絵師は版木を彫る彫師と紙に摺る摺師との連携で制作しており、絵師の仕事は下絵の輪郭線を墨で描くことだった。しかし、芳幾や芳年らはもともと画家である。肉筆でたくさんの絵の具を使って絵を描くという、一般的な画家の仕事も請け負っており、彼らが糊口をしのぐ一助になっていた。

落合芳幾『五節句図』 明治中期 絹本着色 東京国立博物館蔵 展示風景

落合芳幾の『五節句図』は、女性たちの姿を借りて桃の節句などの五節句を一枚の画面で表現した華やかな作品だ。雛人形や鯉のぼり、七夕飾りなど描かれた物を見分けながら節句の雰囲気を味わうことができる。螺旋状の構図は画面の広がりを感じさせ、子どもや子犬などのかわいい姿は作品への愛着を生む。錦絵新聞とはまったく趣を異にするのは、錦絵新聞が多くの読者を獲得するためにゴシップ的な内容に走ったのに対し、肉筆画においては個人の注文主を満足させるために描いたという事情があったためだろう。

火消しを描いた絵馬を赤坂氷川神社に奉納

月岡芳年『ま組火消しの図』 明治12年(1879年) 板画着色 赤坂氷川神社蔵 展示風景

月岡芳年も肉筆画を描いたが、東京の赤坂氷川神社に絵馬として奉納された『ま組火消しの図』は特に興味深い。描かれているのは、先に芳幾の作品で挙げた力士ではなく、職業人としての町火消しの集団である。木造家屋が多く、消防自動車などが存在しなかった時代、消防隊である火消しは今にも増して重要な存在だった。左側にははしごを持つ人々、中央から右側には延焼を防ぐために家屋を壊す道具としての長い柄のついた鳶口(とびくち)を持つ人々が、躍動的に、しかし美しい隊列を成して描かれている。鳶口を持つ人の多さからは、火消しの仕事は家を壊すことだということを思い知らされる。本展図録の解説によると、「芳年には火消しの仲間も多かったので、そうした筋からの注文であったと思われる」という。火消したちは折に触れてこの絵馬を見て、意気を高めていたのではないだろうか。

すごい迫力!火消しへのリスペクトを感じます!

江戸時代に隆盛を見た浮世絵は明治時代には廃れてしまったというのが一般的な認識であり、大筋としては間違っていないのだが、その中で芳幾や芳年のように素晴らしい作品の数々を残した絵師たちもいた。本展は、そうしたことを実感できる貴重な展示の場だったことを申し添えておきたい。

つあおのラクガキ

ラクガキストを名乗る小川敦生こと「つあお」の、記事からインスピレーションを得て描いた絵を紹介するコーナーです。Gyoemonは雅号です。

Gyoemon『The heaven is filled with music』

芳幾や芳年のように自在にはいきませんが、筆者は平和を希求して一枚の絵を描きました。思えば、天上を表した絵を見ると、洋の東西を問わず、音楽を奏でる飛天や天使がたくさん描かれているものです。天上は素晴らしい音楽で満たされているに違いない、という思いがむくむくと湧いてきます。人間が作った思慮の足りない兵器などは、音楽が包み込み、無力化してくれる。この絵には、そんな願いを込めてみました。

展覧会基本情報

展覧会名:芳幾・芳年−国芳門下の2大ライバル
会場・会期:
 東京展:三菱一号館美術館 2023年2月25日〜4月9日
 北九州展:北九州市立美術館本館 2023年7月8日〜8月27日
公式ウェブサイト(東京展):https://mimt.jp/ex/yoshiyoshi/

主要参考文献

小川敦生「錦絵新聞のきらめき(上)」(日本経済新聞2020年9月27日付朝刊「美の粋」面)
小川敦生「錦絵新聞のきらめき(下)」(日本経済新聞2020年10月4日付朝刊「美の粋」面)
「芳幾・芳年−国芳門下の2大ライバル」展図録(毎日新聞社)

書いた人

美術ジャーナリスト&日曜ヴァイオリニスト&ラクガキスト(雅号=Gyoemon)。そして多摩美大教授。新聞や雑誌の美術記者を経験しながら「浮世離れ」を目指し、今日に至る。音楽面ではブラームスのヴァイオリン協奏曲のソロをコンプリート演奏する夢を実現し、自己満足の境地へ。著書に『美術の経済』。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。