黒光の嫁入り道具の油絵が、守衛を芸術の道へ向かわせる
荻原守衛は1879年(明治12年)に中村屋の創業者・相馬愛蔵と同じ、長野県南安曇郡東穂高村で生まれました。サロンの中心人物であった芸術家とその場を提供した中村屋の主人として関わる以前から、同郷である守衛と愛蔵は親交を結んでいました。また愛蔵の妻・黒光は、守衛やサロンに訪れる芸術家たちから、母のように慕われる存在でした。
守衛が芸術家を目指すことになるのは、この黒光が相馬家に嫁ぐ際に嫁入り道具で持ってきた油絵《亀戸風景》がきっかけでした。
「《亀戸風景》は長尾杢太郎が描いた絵で、杢太郎が黒光の結婚祝いに贈ったものです。今は当たり前のように美術館があり、いつでも油絵を見ることができますが、当時、日本画を持っている家はあっても、西洋画材を使った絵が簡単に見られる時代ではありませんでした。荻原は初めて油彩画というものを見て、『なぜこんな風に描けるんだろう』と感銘を受けました。
杢太郎は不同舎で学んでいました。不同舎の主催者・小山正太郎は、工部美術学校でイタリアの画家・フォンタネージに学んでいます。フォンタネージはフランスのバルビゾン派のミレーやコローを研究し描いている人物だったため、不同舎では写生して描く風景画を中心に勉強しました。守衛を感動させた《亀戸風景》も、バルビゾン派を連想させる作品です」
東京の不同舎などで油彩画を学んだ守衛は、パリで学ぶために渡仏した小山正太郎に習い、1901年(明治34年)にニューヨークとパリへ留学しました。
「荻原はまずニューヨークに渡りました。フェアチャイルド家でスクールボーイ(当時の日本でいう書生)をしながら、ニューヨークの美術学校で学びました。そしてお金が貯まると憧れのパリに向かいました。パリでお金が無くなるとニューヨークに戻り、稼いでから再びパリへ向かうということを、守衛は2度繰り返しています」
荻原守衛 人体デッサン ニューヨーク時代 木炭、紙 公益財団法人碌山美術館蔵
柳敬助 人体デッサン 1904-09年 木炭、紙 公益社団法人碌山美術館蔵
最初の渡仏でロダンの《考える人》を見て、守衛は彫刻家に転身することを決意します。2度目のパリで滞在した期間は約一年。美術学校「アカデミー・ジュリアン」で彫刻を学びました。
荻原守衛 人体デッサン ニューヨーク時代 木炭、紙 公益社団法人碌山美術館蔵
「1回目のパリ留学でもジュリアンで学びますが、絵画部でした。2回目は彫刻部で、主に粘土を使った塑像を勉強しました。ただ、荻原はこの時の先生について、あまり言及をしていません。当時一緒にいた荻原の友人によれば、先生からの指導に耳を傾けるよりも、自ら研究をして制作していたといいます。この時、いつもロダンの作品が頭にあったため、ロダンの作風を感じさせるような作品を制作しています。
守衛は何度かロダンを訪ね、ロダンから直接教えを受けています。《考える人》がきっかけで自分が彫刻家になったことや、美術学校のアカデミックな教えでは全く足りていない、自分はロダンの作品を見て研究をしていることを話し、弟子として認められています。
ロダンの『作品に生命がなくてはダメだ』『生命こそが美である』という考え方に納得した守衛は、帰国後にも『作品には内なる力がなければいけない』と繰り返し言っています。これが荻原守衛が命を吹き込む芸術家であると言われる所以です」
パリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経由して、1908年(明治41年)に帰国した守衛は、ロダンに弟子と認められた人物として、大変注目されました。滞仏時代に制作された作品のうち、《女の胴》《坑夫》の2点の石膏像が持ち帰られ、日本で鋳造されました。帰国後、第2回文展ではこの2点の他、《文覚》を出品。《文覚》は三等を受賞しますが、《女の胴》《坑夫》は評価を得られなかったのだとか。
「《坑夫》は未完成だと言われ、腕や首のないトルソである《女の胴》は、ほぼ理解されませんでした。当時の日本で考えられた完成された像というのは、表面は滑らかで段差が少なく、きちんと整えられたものだと考えられていました。海外で学んだ荻原の表現は、当時の日本にはまだ早すぎるものだったんですね」
荻原守衛《北條虎吉像》1909年 ブロンズ 公益社団法人碌山美術館蔵 ※《女》と《北條虎吉像》の石膏原型は、国宝・重要文化財(美術品)に指定されています