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2019.09.26

日本近代彫刻の父・荻原守衛(碌山)とは何者だったのか。中村屋サロン美術館学芸員に聞いた!

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碌山の芸術のよき理解者であった愛蔵、黒光とは

帰国後に制作された守衛の彫刻作品には、黒光への思いも偲ばれる作品がいくつか見受けられます。

黒光がお嫁に来た時には、仙台のお姫様がお嫁に来るということで、地域の人たちが総出で見物に来る状況だったため、その中に守衛もいて、その時の黒光を見た守衛は憧れのようなものを抱いていたのではと考えられています。

「文学少女だった黒光さんはもともと、ワーズワースの『田園』を読むなど、田園生活に憧れを持っていたのですが、実際の田舎暮らしは想像と違いました。黒光の故郷は、東京ほどではないとはいえ都会の宮城・仙台ですから、ギャップに苦しんだようです。安曇野の生活に馴染めず、体調を崩します」

愛蔵は黒光のために、東京で何か事業をやろうとしていました。そして1901年、本郷に居抜きで買い取った店舗でパン屋中村屋を創業。本郷の店が順調だったことから、新宿追分に支店を出し、1909年に現在地に移転します。現在は2014年に商業ビル「新宿中村屋ビル」に建てかえられ、中村屋サロン美術館が設置されました。

「黒光が入院して東京にいた頃、萩原は小山正太郎が主催していた画塾・不同舎に入るために上京していました。萩原は黒光のお見舞いに頻繁に行き、親交を深めていました」

守衛は7年間に及ぶ留学から戻ると、新宿へ行きます。この時期に、黒光への思いが変わった出来事が起こりました。

「愛蔵は実家で養蚕の事業があったため、愛蔵の帰省中は基本的に黒光がお店を任されていました。その際の愛蔵のある裏切りを知り、黒光は悩み苦しみました。慕っていた黒光が悲しむ姿を見て、荻原の思いが愛情に変わっていったのではないかと言われています」

前述した《文覚》は、守衛の黒光に対する思いが想像できる作品としても知られています。

「荻原は鎌倉のお寺に黒光と一緒に行って、文覚上人自身が彫ったとされる文覚の彫刻を見ています。文覚は、人妻に恋をして夫を殺そうとするのですが、間違えて愛する人を殺してしまい、その後悔から出家をしたという物語と、黒光という人妻に恋心を抱いている自分の苦悩を重ね合わせたと考えられています。

また《デスペア》という作品も、黒光が愛蔵の裏切りに嘆き苦しんでいる姿と、守衛が報われない愛で苦しんでいる姿が感じられるような作品です。


荻原守衛《女》1910年(1978年鋳造) 株式会社中村屋蔵

絶作である《女》については、黒光をモデルにした作品だと言われています。実際の制作では岡田みどりという女性をモデルにしていますが、写真で見比べると、岡田みどりよりも黒光に似ていることが分かります。黒光自身もこの作品を初めて見た時に『私だと思った』と記述しています」

守衛は愛情を黒光に抱いていたことから複雑な関係を想像させます。ですが守衛、愛蔵、黒光の関係は、家族のようなものでした。守衛は相馬家の子供たちの面倒を見ていて、愛蔵のことをとても尊敬していたのだとか。

愛蔵と黒光の人物像について、太田さんはこう話します。

「黒光は、かなり進んだ考えを持った近代的な女性でした。学校に行きたい一心で親を説き伏せて行かせてもらったような人物です。黒光の実家は武士の家で、はっきりと物を言うような女性は異色な存在だったと思います。ですから行動の人と言えるでしょう。

対して、愛蔵はものすごく優しい人だったそうです。女性は一歩引いたものである、と言う考え方が主流の時代に、愛蔵はそれを許して、黒光の人柄や主張を全面に出せるような深い懐を持った人だと言えます。また、とても研究熱心で勉強家でした。

芸術的な理解を持った黒光に対して、愛蔵はどちらかといえば理数系でしょう。ただ、二人とも芸術家を可愛がっていました。当時の芸術家は非常に貧しかったんです。貧しい中で一生懸命に命を削って作品に力を注ぐ彼らに、手を差し伸べる度量を持った夫婦でした」

書いた人

もともとはアーティスト志望でセンスがなく挫折。発信する側から工芸やアートに関わることに。今は根付の普及に力を注ぐ。日本根付研究会会員。滑舌が悪く、電話をして名乗る前の挨拶で噛み、「あ、石水さんですよね」と当てられる。東京都阿佐ヶ谷出身。中央線とカレーとサブカルが好き。