傷ついた刀身に無数の蛍が寄り添うと、刃こぼれがすうっと消え、元通りの姿になる。そんな夢を見た翌朝、激戦をくぐり抜けた太刀の刃こぼれが本当に直っていた――。
こんな美しい伝説を持つ宝刀があります。
その名は「蛍丸(ほたるまる)」。
宝刀・蛍丸の伝説
蛍丸は、刀工・来国俊(らいくにとし)の打った大太刀(おおだち:非常に長い太刀)です。
江戸時代の記録によると、刃長3尺3寸4分5厘(1メートル強)、全体の長さは4尺5寸(約1メートル36センチ)、刃先から棟までの幅は1寸3分(約4センチ)、厚さが4分(約1.2センチ)ということですが、よく時代劇などで見るような刀がだいたい刃長2尺3寸(約70センチ)程度、全長でも3尺(約91センチ)以内であることを考えると、かなりの大きさであることが分かります。
また、厚さについても、作品によって差はあるものの、通常なら6~8ミリ程度ですから、製作年代などから見て研ぎ減っていることを考慮すると相当な迫力になりますね。
そのためか、重量軽減のための溝である樋(ひ)が表裏に彫られ、また、仏教(密教系)の不動明王を示す「護摩箸(ごまばし)」や「素剣(すけん)」の彫刻も見られます。
名付けの由来
蛍丸の名前は、南北朝時代、阿蘇大宮司である南朝方の武将・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が所持していた時のエピソードから付けられたと言われます。
建武3/延元1(1336)年の多々良浜の戦いで足利勢と交戦した際、激戦によってこの大太刀は刃こぼれを起こしてしまいます。その夜、惟澄は大太刀に蛍が群がって修復してしまうという夢を見て、翌朝、目が覚めると、本当に大太刀の刃こぼれが直っていた、というのです。
別のエピソードもあり、激戦を経た大太刀にその夜、刃こぼれしてしまった欠片が飛んで戻ってくる様子がまるで蛍のようだったことから名付けられた、とも言われます。
伝説の宝刀は今どこに
阿蘇氏の家宝として大切に守り続けられ、昭和6(1931)年には国宝指定(旧区分・現在のものとは異なる)された蛍丸ですが、太平洋戦争直後の混乱で行方不明となってしまいます。様々な可能性が指摘されていますが、戦後75年ほど経った現在でも所在不明の状態が続いており、発見が待ち望まれています。
刀工・来国俊とは
蛍丸の作者は、鎌倉時代中期に山城(現在の京都府)で活躍した刀工・来国俊です。
来(らい)と呼ばれる一派の事実上の祖とされる国行(くにゆき)の子で、高い技術力を誇った同派の中でも非常に優れた腕前を示しました。「国俊」と「来国俊」で別人(親子など)とする説もありますが、作風や時代変遷を考慮すると、長命な1人の刀工だったのではないかとも言われます。
来孫太郎(らいまごたろう)を名乗り、「来源国俊」「来太郎源国俊」などの銘も確認されている、鎌倉時代中期を代表する名刀工の1人です。また、山伏だったとされ、蛍丸の刀身に彫られた彫刻も修験道と密接な関係のある不動明王の持ち物となっています。
来国俊の作には、繊細ながらも力強さを感じさせる、来派の特徴的な地鉄(じがね:鉄肌の模様のようなもの)に、まっすぐな刃文=「直刃(すぐは)」を焼いたものが多く見られ、そこに並行して入るもう1本の刃文=「二重刃(にじゅうば)」や、メインの刃文から枝のように鋒(きっさき)に向かって入る「逆足(さかあし)」なども見どころとなっています。
また、初期には丁子(ちょうじ=クローブ)の花のつぼみに似た形が小さく連なっている「小丁子(こちょうじ)」という華やかな刃文を焼いた作品が多く見られます。
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