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Culture
2020.07.13

ウィズコロナ時代どう進化する? 元・よしもとの、伝説の広報マンが語る「ニッポンのお笑い~変革とオモシロ現代史」

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あまりに衝撃的なセッティングに、だれもが面食らったに違いない。テレビ画面に映る漫才コンビ……ふたりが舞台で2メートルほど離れて立ち、間を透明のアクリルパネルが分かつ。マイクはひとりに1本ずつ。いわゆる「ソーシャルディスタンス」だ。ウィズコロナの時代、新しい生活様式が広く提唱されているが、自粛要請を経て再開された〈ニッポンのお笑いの牙城〉吉本興業のステージも例外ではなかった。

新型コロナウイルスが終息すれば、変則的な舞台はなくなる? もちろん誰しも「正常」に戻ることを願ってはいるが、社会は変わり続けている。実はコロナ禍が深刻化する以前から、お笑い芸人の一部には、テレビ番組や舞台とは別に新機軸を打ち出そうとする動きが見えていた。国内外の特定地域にじっくり住み込んで活動する「よしもと住みます芸人」というプロジェクトもそう。いまや沖縄観光のカナメのひとつになっている「島ぜんぶでおーきな祭~沖縄国際映画祭」(2020年で12回目)も、中心は吉本興業のお笑い芸人が監督や俳優として新作を発表する一大プロジェクトだ。

そしてYouTube。少し前まではInstagramなどと共に、自分の活動を面白おかしく報告する程度の使われ方だったが、従来の活動を大幅に制限されたコロナ禍を機に、ユーチューバーに負けじと多くのプロの芸人が続々と動画を配信。その反響(アクセス数)は人気のバロメーターにすらなっている。

この「現象」、今だけのことなのだろうか。

「いや、そんな簡単に片づけられることではないです」。こう語るのは「謝罪マスター」の異名をもつ、竹中功さん。吉本興業の幹部として、先の「住みます芸人」プロジェクトや沖縄国際映画祭を主導したひとりであり、お笑い芸人養成所「吉本総合芸能学院」(通称:よしもとNSC)の開校や多数の劇場を立ち上げた人物だ。同社のマネジメントや広報などを仕切ってきた経験を活かして現在はコンサルタント活動、メディア・コメンテイター、作家として活動をしている。

竹中功さん。株式会社モダン・ボーイズCOO。1959年大阪市生まれ。吉本興業入社1年目に開設された宣伝広報室に配属され、同じ年に雑誌『マンスリーよしもと』の初代編集長に就任。「謝罪マスター」と称するのは、数々の謝罪会見を取り仕切ってきたがゆえ。関連会社の専務、社長を経て2015年に退社。2020年6月に『吉本興業史』(角川新書)を上梓。

ちなみにNSC第1期生となる浜田雅功、松本人志(のちのダウンタウン)を面接したのも竹中さんだった。竹中さんが見て知った、お笑いの過去・現在、そして未来とはどのようなものなのだろうか。 

「ウィズコロナ」時代、お笑い、漫才はどう進化する?

「新型コロナウイルスは芸人のネタを、いや、漫才のありかた自体も変えてしまうかもしれません」。こう語る竹中さん。コロナ禍の影響をマイナスとばかり捉えるようでは「(芸人としては)あきません」とも。

「漫才なのに、間にパネルがあっては、一瞬の判断が決定的な差を生むツッコミはできません。これまではマイク1本で、ふたりが重なるようにして『君の嫁はんがスーパーマーケットにいてな~』とやってきた。それができなくなった。ということは、次の新しいカタチのお笑いを考えればいいんです」。そう、お笑い芸はこれまでも、常に社会の変化と共にあり、変革を繰り返してきた。だから「コロナの時代なんか、逆手に取ったらどうや」と、いうのだ。

振り返って、日本の大衆芸能の中心をなす「お笑い」の原点のひとつは、鼓(つづみ)を叩きながら家々を門付けして回る賑やかなお祝い芸。これが「萬歳」だ。「現在につづく『漫才』が確立されたのは昭和5(1930)年です。背広姿の横山エンタツと花菱アチャコが、舞台はもちろん、当時最新のメディアだったラジオで、『きみ』『ぼく』と呼び合いながら、『しゃべくり』だけで勝負するようになりました」。さらには、「元来の萬歳が、万歳や万才となり、さらに『漫才』の文字を当てたのが吉本です。有名なエンタツアチャコの野球ネタ『早慶戦』の爆発的なヒットでもわかるように、そのころ、野球が日本人の生活に入り込んできた。芸人たるものいつの時代も敏感じゃないといかんのです」

昭和歌謡の最大のスター、美空ひばりの若き日を支えた川田義雄(のちの川田晴久)も、「あきれたぼういず」という、浪曲からジャズやブルースまでをも巧みにブレンドさせた歌と笑いの芸(ヴォードヴィル)で一時代を築き、それが天才少女、美空ひばりに決定的な影響を与えたことはよく知られることだ。

つまり、最新流行、社会の変化に目を光らせること。そしてメディアミックスがキモとなる。

例えば1960年代、東京では植木等が在籍したジャズ・バンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」は、コミカルな舞台で人気を得たあと当時、新興のテレビメディアや映画へと進出した。萩本欽一と坂上二郎のコント55号は、浅草の演芸場からテレビへ。なんと、ジャンケンで負けた参加者が衣服を脱いでいく「野球拳」ほか衝撃的な企画が俗悪だと教育関係者からさんざんに批判されながらも、コント55号は人気を不動のものとしていった。この後を、先の3月29日、新型コロナ感染症で亡くなった志村けんが在籍したザ・ドリフターズが追いかける。

1960年代から70年代にかけての、優れたお笑いタレントは、このように新しいメディアに敏感であり、背後にいる全国の子どもや若者たちのエネルギーをどんどん吸収していった。ラジオの深夜放送もそう。ざっくばらんにリスナーと「語り合う」深夜放送は、お互いを呼び合う言葉すら変えた。異能・萩本欽一は、投稿者に向かって「~さん」とすら呼ばず時に呼び捨て。こういう普段着トークは中央のテレビにまで波及していくのだった。

2020年6月に出版された『吉本興業史』。吉本在職中に『吉本興業八十年史』『吉本興業百五年史』の編纂も担当した氏ならではの膨大な知識と秘蔵エピソードを交えて吉本興業の裏の裏(=表?)を描く話題作!

メディアミックスで起こした革命。笑いの毒ガスを振りまく吉本新喜劇

竹中さんは語る。「1970年に大阪万博が開催されて、大阪のものが東京で売れるようになったんです。メディアでは大阪の芸人が深夜ラジオに出るようになってコトバの壁が崩れ出した。大阪弁のスピード、リズム感、でしょ。大阪の人気もん、面白いわ!と。先陣を切ったのが、関西落語の(当時の)若手である笑福亭仁鶴、桂三枝(現・文枝)、そして、漫才では横山やすしと西川きよしのコンビでした」

明石家さんま、ダウンタウンを筆頭に、多くの吉本芸人がテレビメディアを賑わす今では、にわかには信じられないが、これは事実だ。さらには大阪の「コテコテ」のお笑いの象徴ともいえる「よしもと(吉本)新喜劇」にしても、出発点である「吉本ヴァラエティ」(1959年)がはじまった時、専属芸人は、なんと先の大スター、花菱アチャコただひとりだった。

戦後の吉本興業は、いわばノーブランドの芸人たちを次々と発掘し育てたことになる。「テレビに芸人を出したら劇場に人が来なくなる、という心配もあったそうです。ましてやテレビは当時の新興メディア。この先どう転ぶかわからなかったけれど、毎日放送と協働し、同局の開局初日に舞台を生中継したわけです」。これが、戦後、吉本が先駆けたメディアミックスの象徴的できごとでもある。「テレビに出てる奴に会いたい、もっと違うネタを生で見たい。テレビが火をつけて、劇場で稼ぐ、ということです」。

「大阪ローカルでは、先行する松竹芸能の『角座』が寄席小屋のリーダーでした。また関西の家庭劇(※)の元祖『松竹新喜劇』は初代の藤山寛美さんを頂点にし、勧善懲悪で、説教臭いことを言いながらも最後は泣き笑いで締める。対して、吉本新喜劇は、まぁ、笑いの毒ガスを振りまくわけです(笑)。で、最後に、毒ガスが勝った。ぼくも、子どもの頃に夢中になりました」

※家庭劇は大阪の庶民の生活を描く人情喜劇。2020年度後期のNHK連続テレビ小説『おちょやん』は松竹新喜劇が舞台となる。

萬歳からMANZAIへ。そしてお笑いは若者文化になった

そして1980年、いわゆる「漫才ブーム」がやってきた。この、関西テレビ制作の『花王名人劇場』、フジテレビ系列で放送された『THE MANZAI』に端を発したムーブメントは、ツービート(ビートたけし&きよし)などの例外を除けば、ほぼすべて吉本興業所属のお笑い、漫才だった。押し入れに札束がびっしり詰まるほど稼いだというB&B、漫才コンビとして初めて日本武道館でコンサートを開いたザ・ぼんちなど……この頂点に立ったのが「漫才の完成型」としての「やすしきよし」だ。

ふたつの番組に共通したのは年齢に関係なく誰もが楽しめる寄席演芸から脱し、ターゲットを若者に絞ったこと。『吉本興業史』には、『THE MANZAI』は「関西地区では45パーセントを超える視聴率を記録したこともあった」と記されている。しかし、そんなことでは収まらないのが「次の世代」たち。ツッパリ世代を代表する島田紳助・松本竜介、その「紳竜」を見て育ったダウンタウン……。漫才師のいわばユニフォームだった背広を脱ぎ捨て、ツナギや革ジャン、ジーンズといった衣装で登場し、ストリートの日常そのままをネタにし、まくしたてる彼らにタブーはなかった。翌日の学校での話題に乗り遅れないよう、若者たちはテレビにかじりついた。まさに時代の最先端。お笑いがテレビのメインコンテンツになり、今に至る「主流メディアにヨシモトあり」は、ここに土台が築かれたと言っていい。

漫才は、番組でカタカナ表記に代わり、さらにはアルファベットの『THE MANZAI』に。お笑いは時代に合わせ常に変化を求められ、応えてきたことが、こんなところにも表れている。

「吉本のお笑いは、大阪弁を全国区にしました。『THE MANZAI』以降は、『寒いからぬくしてくれや~』なんて大阪弁を東京で平気で言えるようになった。そりゃ東京のお笑い、文化も変わってしまうでしょ。だいたい、東京には隠れ関西人いっぱいいるやないですか。メディアで仕事をしている方は特に多いですよね(笑)」

「なにより吉本の芸人に求められるのは、アドリブ力です。どんなボールが飛んできてもヒットを打たなあかん。明石家さんまさんの番組がそうですよね。松本の『人志松本のすべらない話』もまさにそう」。竹中さんは、関西芸人の貪欲なほどの笑いへの希求が、次代の日本を明るくすると言い切る。

「笑いがなかったら世の中のコミュニケーションは成立しないし、人間関係もうまくいかない。当たり前です。仕事にしても、9割ぐらいは雑談でいいんですよ。特にこのコロナ禍で思ったのは、仕事する人、しない人、その違いがはっきりした。無理やり窮屈な生活を、ぼくらはしてきたんやないか。そこに必要なのは笑いの力です。大阪のお笑いは自分だけでなく、家族さえも笑いのネタにしてしまう強みがある。だれもが自分を笑うようになれば、平和になりまっせー!ですよ。だから、ほんまに力のある芸人は、ウィズコロナの時代に変わることができるし、稼げるはずなんです」

書いた人

日本美術や伝統芸能(特に沖縄の歌や祭り)、建築、デザイン、ライフスタイルホテルからブラック・ミュージックまで!? クロス・ジャンルで世の中を楽しむ取材を続ける。相棒は、オリンパスOM-D E-M5 Mark III。独学で三線を練習するも、道はケワシイ。島唄の名人と言われた、神=登川誠仁師と生前、お目にかかれたことが心の支え。