「啖呵(たんか)を切る」とは、鋭く歯切れのよい口調で話すコト。鋭い勢いでまくしたてる場合もそう表現する。
もともと、咳などと一緒に激しく痰が出る病気を「痰火(たんか)」といい、この病気の治療を「痰火を切る」と表現していたのだとか。「啖火」を治癒すれば胸がスッキリするのと同様、歯切れよく鋭い勢いでまくしたてれば、胸のモヤモヤも消える。このことから、「啖呵を切る」と言われるようになったという。
さて、いきなり「啖呵を切る」談義を展開してしまったが。フツーに生きていれば、そんな機会は滅多にない。ただ、歴史上では、ここ一番のときに披露する人たちが多数。
そして、今回、ご紹介するのは……。
陸奥国会津藩(福島県)2代藩主、加藤明成(あきなり)に対して「啖呵を切った」人物。
その名も「天秀尼(てんしゅうに)」。
この女性の正体は、なんと、大坂の陣で滅亡したといわれる豊臣秀頼(ひでより)の娘。豊臣一族の生き残りとなる女性である。
そんな彼女が関わったのが、俗にいう「会津騒動」といわれる事件。
今回は、その一部始終を、天秀尼の啖呵を切った様子と共にご紹介していこう。
まずは、その前に。
秀頼の娘が生き残ったところから、いやいや、娘がいたという事実から話をしよう。
豊臣秀頼に娘がいたなんて!千姫との関係は?
「大坂の陣」にて、豊臣一族滅亡。
確かに、これまでの記事で、私は何度もこう書いてきた。
そもそも、豊臣秀吉に後継ぎとなる子が少ないのが、問題の発端だ。奇跡的に淀殿にできた秀頼(ひでより)の存在で、辛うじて豊臣家存続の目途が立ったという状況。しかし、秀吉の死後、時代の権勢はちょうど徳川家康へと移行する最中であった。
豊臣秀頼からすれば、そのまま徳川家へ臣従し、大名家の1つとして存続する道もあったはず。しかし、家康が異を唱えた「方広寺鐘名事件」をきっかけに、あっという間に、戦国時代最後の戦いとなる「大坂の陣」が勃発。豊臣秀頼は徳川方と対峙し、結果、圧倒的な兵力差で敗北。秀頼は淀殿と共に大坂城で自刃する。
さて、ここで気になるのが、秀頼の正室。
秀吉は、死の直前に徳川家康との縁戚を望んだ。この願いを叶えるべく、家康の孫娘(2代将軍秀忠の娘)である「千姫」を、秀頼の正室に迎えることに。しかし、2人には子どもがおらず。そのため、秀頼の死により、豊臣一族は途絶えたかに思えた。
ただ、厳密にいえば、一族滅亡ではなく「ほぼ滅亡」となるのだろうか。じつは、豊臣秀頼には2人の子どもがいたのである。
ここで、もちろん、1つの疑問が。
一体、誰の子なのか、そして、どうして有名ではなかったのかというコト。
まず、2人の子どもの存在があまり知られていないのは当然。
というのも、側室や子どもの事実が伏せられていたからである。どうやら他家で育てられ、最後は大坂城へ移動していたようだ。
側室は渡辺五兵衛の娘(諸説あり)。秀頼との間に1男1女をもうけている。そして、落城寸前に、この2児は大坂城から逃げ出すことに成功したのである。
ただ、豊臣方の残党狩りが厳しく、やがて2児は捕らえられることに。そのうちの1人が、当時8歳の国松(くにまつ)。男児であることから、見過ごすことができず。豊臣家再興の可能性が憂慮され、残念ながら京都の六条河原で処刑された。
一方、女児の方は、そこまで危険性が高いとはみなされず。千姫の助命嘆願が聞き入れられ、養女となって命だけは助かったのである。ただ、子孫を増やすことができぬよう、尼寺に入ることで決着。わずか6~7歳の女児は、既に徳川家康により、その運命が定められていたのである。
そして、この生き残った女児こそ、のちの「天秀尼(てんしゅうに)」、その人である。
豊臣秀吉直系の唯一の生存者は、尼となったのである。
東慶寺第二十世、天秀尼の願いとは?
豊臣秀頼の娘が行き着いた先は、北鎌倉にある松岡山、東慶寺(とうけいじ)であった。
この東慶寺、じつは、全国的にも有名な縁切寺なのだとか。創建されたのは、弘安8(1285)年の鎌倉時代の頃。鎌倉幕府の8代執権、北条時宗の妻である「覚山尼(かくさんに)」が開創したといわれている。
東慶寺所蔵の『旧記之抜書』には、以下のような記述があるという。
「女というものは不法の夫に身をまかせ、つかえるのがあたりまえとされているので、時によると女のせまい心から、ふとよこしまの思い立ちで自殺などするものがって、ふびんであるから、そのような者は三年間当寺へ召抱え、何卒縁切りして身軽になれる寺法を始め、貞時から勅許を仰いで、この縁切寺法が公許され……」
(東慶寺ホームページより一部抜粋)
夫から逃れるために自殺などをする不憫な女性を守りたい。そんな思いから、覚山尼は、女人救済の尼寺として公式に縁切りが認められるよう働きかけをする。その結果、息子である9代執権、北条貞時(さだとき)経由で、朝廷から勅許をもらうことに。以後、夫が離縁に応じない場合、東慶寺に駆け込んで3年間勤め上げれば、公式に縁切りが成立したという。
のちに、この3年という期間は、東慶寺第五世である「用堂尼(ようどうに)」によって1年に短縮される。この決まりは「御寺法(ごじほう)」と呼ばれ、戦国時代まで脈々と受け継がれるのである。
そして、東慶寺第二十世となった「天秀尼」。
尼寺に入る際、家康から「願い事があれば申してみよ」との問いに、彼女はこんな答えを返している。
江戸時代になっても、この御寺法(ごじほう)が断絶せず、永続するようにと。
さすがに、7歳の女児が答える内容とは思えないが。結果、この申し出によって、これまでの「御寺法」は、徳川家康のお墨付きをもらったことになる。いうなれば、江戸時代において「東慶寺に駆け込めば1年で離縁成立」という一種の治外法権が確立したのである。
啖呵を切った天秀尼VS加藤明成。その顛末とは
豊臣秀頼の娘でありながら、徳川家康の孫娘である千姫の養女に。それだけで既に格があるといえそうなのだが。この天秀尼の名を世に知らしめたのが、「会津騒動」である。
騒動の主は、陸奥国会津藩(福島県)2代藩主、加藤明成(あきなり)。
もともとは、豊臣恩顧の大名として名高い加藤嘉明(かとうよしあき)が初代藩主である。豊臣秀吉子飼いの家臣の1人で、豊臣秀吉と柴田勝家が激突した「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で武功を挙げ、「賤ケ岳七本槍」の1人として名を残した人物である。
秀吉の死後は、徳川家康に臣従し、寛永4(1627)年に陸奥国会津藩の43万5千石へと加増。「義」を重んじる人柄に周囲からの評判も良かった。
それだけに、その後継ぎである明成には落胆せざるを得なかった。41歳で家督を継いだ明成だったが、寛永16(1639)年3月に強行した城の大改築などで、藩の財政はひっ迫。打開策としてなされた農民への過酷な年貢徴収では、寛永の飢饉と重なり、逃散する農民が2,000人いたとも伝えられている。
そんな明成と対立したのが、先代の嘉明が小姓から取り立て重用していた堀主水(ほり もんど)。堀に落ちてでも敵方の首を討ち取ったことから、「堀」という姓を賜った人物である。もともと加藤嘉明と明成では、その度量が違う。そんな主君に仕えることに限界だったのだろう。
直接の原因は、堀主水の家来と他の家臣の従者がもめた際に、明成が堀主水の家来を罰したことだとか。訴えた主水に対して、明成は役職などを取り上げる横暴ぶり。これに耐え切れず、同年4月に一族郎党300人余りを引き連れて、堀主水は白昼堂々と城から退去した。
ただ、出奔のやり方がまずかった。
これまでの不平不満全てをぶつけるかのごとく、出奔の際に城に向かって鉄砲を撃ち放ったのである。こうして派手に退去したあと、妻子は北鎌倉の東慶寺に入れ、自身は和歌山県の高野山へと向かったのである。
もちろん、加藤明成は激怒。高野山、そして紀州藩へと、執拗に堀主水の引き渡しを求めた。これでは埒があかないと、堀主水は江戸の大目付に訴えることに。それでも、いかんせん、鉄砲の撃ち放しは擁護されず。
寛永18(1641)年、君臣の礼を失したなどを理由に、江戸幕府は、堀主水と弟の多賀井又八郎、兄の真鍋小兵衛を、明成に引き渡したのである。兄弟は切腹、堀主水は斬首。彼らは無念にも明成に処刑されたのである。
これで一件落着と思いきや。
一向に気が晴れない加藤明成。堀主水らを処刑しても、じつに明成の怒りは全く収まっていなかったのである。
そこで、次に目を付けたのが堀主水の妻子。なんとか無事に逃げ切れるようにと、北鎌倉の東慶寺に駆け込ませた、あの妻子である。明成は、あろうことか、東慶寺の妻子にまで手を出そうとする。早速、東慶寺に人を向けて引き渡しを要求。
これに対して啖呵を切ったのが、東慶寺第二十世、天秀尼である。
『武将感状記』巻之十の「加藤左馬助深慮の事/附多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるゝ事」には、天秀尼とのやり取りが記録されている。
「鎌倉に逃れ居たる主水が妻子を、明成人を遣して之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持(天秀尼のこと)大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出す事なし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る」
(『武将感状記』より一部抜粋)
これまで罪人であってもこの寺で保護することができた。そんなある種の特権が、東慶寺には認められていたのである。それを、まさかの暴挙。加藤明成はこの特権を無視して、強制的に妻子を連れ去ろうとしたのである(連れ去ったとの説もあり)。
そんな明成を許せるはずがない。天秀尼も、全く負けてはいなかった。さすが、豊臣一族の直系である。加藤明成のことを「理不尽の族(やから)」呼ばわり。そして、ついに、彼女は啖呵を切るのである。
2つに1つ。
加藤明成か東慶寺か。どちらかを選べ、というのである。
確かにこの選択はキツイ。
じつは、天秀尼は大勝負に出たのである。というのも、目の前には、守らねばならない命が。そして、その先には、これからの東慶寺の在り方が。2つの意味で、幕府の判断は重要な分かれ目となる。この騒動、自身の命に代えてでも、絶対に負けられない賭けだったのである。
こうして、天秀尼は養母である千姫を通じて、江戸幕府へと訴え出た。
もちろん、結果はというと。
幕府は明成を切った。加藤家は改易(所領や家禄、屋敷の没収)となり、会津の領地は没収。子の明友に石見国(島根県)に1万石を与えたのみ。堀主水の妻子は引き渡されずに済んだのである。加藤家からすれば、厳しい処分となったのだ。
これにて、会津騒動は幕を閉じる。
最後に。
豊臣秀吉の直系でありながら、生きることを許された天秀尼。
東慶寺に逃げ込んだ堀主水の妻子を見て、天秀尼は、一体何を思ったのだろう。
そこに、幼き頃の自身の姿を重ねただろうか。
徳川家に命運を握られながらも、自分が命を救われた瞬間。
知らないところで、こうして戦ってくれた人がいたのだと、理解しただろうか。
会津騒動から2年後。
天秀尼はひっそりとこの世を去る。享年37歳。
今も東慶寺にて、静かに見守っている。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月
『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』 前川和彦著 国書刊行会 1997年12月
『戦国武将の都市伝説』 並木伸一郎著 株式会社経済界 2010年12月
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