「早朝は、よう狐に化かされる」
そんな話を聞いたのは、私が大学生の頃。地元の伏見稲荷大社で、お正月限定の巫女(みこ)のアルバイトをしていたときだ。
しかし、そんな話とはうらはらに、毎日二手に分かれる千本鳥居の先の「奥の院」まで通ったが、道に迷うこともなく。一度も不思議なコトなど起こらなかった。どうやら、狐の出番はもっと先の方らしい。「奥の院」を超え、さらに山の中腹あたりに行く途中、狐に化かされ道に迷うのだとか。ちなみに、教えてくれた禰宜(ねぎ)の方は、ご年配で明るく冗談好き。未だに真実かどうかは分からない。
さて、狐にまつわる戦国時代の話は、意外にも多い。合戦の前に狐に導かれたという話から、兜の前立(まえだて)に狐をつけている戦国武将まで。その中でも珍しいのが、「狐が城を守った」という伝説。群馬県にある舘林城(たてばやしじょう)。別名「尾曳城(おびきじょう)」の由来となる伝説である。
これにまんまと振り回されたのが、冷静沈着なイメージの「石田三成」。
果たして、舘林城の攻略方法を変更した理由とは、一体なんだったのか。
今回は、この舘林城をめぐる「狐」伝説と、開城の謎をご紹介しよう。
舘林城が「尾曳城」と呼ばれる理由
群馬県にある舘林城といえば、徳川四天王の榊原康政(さかきばらやすまさ)や、5代将軍徳川綱吉(つなよし)を思い浮かべる人もいるのではないだろうか。
彼らが城主となって入城したのも1つの話題なのだが。この舘林城、全く違う意味で名の知れた城なのだ。そのヒントとなるのが、「舘林城」ではない別の名前。じつは、他にも呼び名があるという。
その名も、「尾曳城(おびきじょう)」。
城にしては、非常に珍しい名前である。この「尾曳城」の由来は、そのまんま。読んで字のごとく「尾を曳いたから」という理由なのだとか。ちなみに「曳く」という漢字は、後ろに引きずるという意味を持つ。
現代では、なんとも不思議な話なのだが。
「白狐」が尾を引きずって示した城だから、そう呼ぶのだという。
さて、尾曳城を築城したのは、赤井山城守照光(てるみつ)といわれている(諸説あり)。この赤井氏は、もともと佐貫(さぬき)一族の舞木氏に仕えていたが、下剋上により台頭。徐々に勢力を拡大した一族である。
これまた、築城する経緯が非常に興味深い。
じつは、赤井照光はもともと違う城を持っていた。舘林城のちょうど東1.5キロ付近の大袋城(おおぶくろじょう)である。だから、わざわざ新しく築城する必要などない。それなのにどうして、その気になったのか。
それは、ズバリ。
「狐」に勧められたから。
そもそも、きっかけは他愛もないことだった。
外出の途中、赤井照光は、偶然にも数人の子どもが子狐を捕らえて遊んでいるところに出くわす。引き回された子狐を見て、哀れに思ったのだろう。照光は子どもらにお金を与え、その代わりに狐の子を助けたという。
そして、その夜。
まあ、ありがちな展開が容易に予想されるのだが。
照光は不思議な夢を見る。
老翁がいきなり現れて、照光に対して丁寧に礼をしたのである。そして、自分の正体を、こう明かす。
「私は、今朝助けていただいた狐の親です」
続けて、子狐を助けてもらった礼を述べたあと。老翁は、親切にも、大袋城の場所があまり城地に適していないと指摘。対して沼の北側である「舘林」が、要害堅固の地だと教えるのである。
「できればこちらに築城を……」
「明日の早朝にご案内を……」
不動産屋のセールスよりも強力な一手。ここまで言われりゃ、もちろん無視などできない。照光は、翌日の早朝、半信半疑ながらも沼の北側に出向いたのである。すると、そこには。本当に「白狐」が。
いた!
なんと、だまされていなかったのである。これぞ、鶴の恩返しならぬ、狐の恩返し。白狐は林や原っぱを抜けて、いそいそと先導。尾で線を引きながら、城の場所を照光に教えるサービス付き。これをベースに、照光は縄張りをし、館林城を築城したのである。
石田三成が館林城を力攻めしなかった理由は「狐」?
さて、狐伝説の話で、さすがに記事が終わるワケではない。ここからが、大事なところ。
天正18(1590)年。豊臣秀吉の天下統一の最後を飾るのが、小田原攻めである。これまで上洛を促されてきた北条氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)父子だったが、のらりくらりとかわすも、時間切れ。
秀吉は、北条氏の予想を遥かに超える20万以上の大軍で小田原攻めを決行。小田原城(神奈川県)を包囲するべく、周りの支城から落としていくことに。そして、秀吉からあの「館林城」攻めを任されたのが、石田三成であった。
石田三成のみならず盟友の大谷吉継(おおたによしつぐ)や長束正家(なつかまさいえ)らも、秀吉の命を受けて参陣。このときの舘林城主は北条氏則(うじのり)。ただ、既に城をあとにしており、残っているのは6,000ほどの兵であったとされている。
対して石田軍は1万9,000ほど(諸説あり)。兵力差でいとも簡単に落とせるという予想を覆して、戦況は膠着状態。三方を沼で囲まれた自然の要害は、さすが狐のおススメの場所。こうなると、地形的に考えて、城の西側から攻めるしかない。一方、敵方もそれを分かった上で防戦しているので、なかなかしぶとい。
未だ攻めきれずにいる石田軍。ここで時間を取れば、あとに響く。
そこで、三成は考えた。
「沼しかない」
敵方も、この沼から攻められるとは思いもしないはず。
こうして、三成は、大胆にも城までの道を2筋造ることを決定。付近の木などを切り倒しての突貫工事で、わずか1日で沼の中に道を造りあげたのである。
工事を終えた三成は、明朝に攻撃を予定。これで舘林城を攻め落とせると、誰もが思いながら、一夜を過ごす。
そして、待ちに待った翌朝。
ようやく舘林城へと攻撃を仕掛けようと勢い出てみると、なんと、沼の中の道が一夜にして消えていたのである。
呆然とする三成はじめ石田軍の兵たち。
そこに、先に秀吉に降伏して、諸城の案内をしていた北条氏勝(うじかつ)が、不思議な話をする。
「狐の仕業です」
どうやら以前にも、同じように舘林城を攻めようとしたところで、奇怪なことが起きたのだと。
結果的に、石田三成は舘林城への力攻めを断念。北条氏勝を軍使として降参を勧め、城の方も応じることに。こうして、舘林城は無事に開城したのである。
さて、どうして道は消えたのか。これには幾つか説がある。
実際に狐が城を守ったという摩訶不思議説は置いておいて。舘林城の沼が底なし沼であるため、自然に道が沈んだというもの。もしくは、交渉を勧めた北条氏勝が城の方と通じて、一計を画策したというもの。
明治時代の歴史学者である渡辺世祐(わたなべよすけ)が記した『稿本石田三成』によれば、開城までの過程は一切書かれていない。逆に、それが余計に不自然さを醸し出している。
「三成策を定め、急に大沼の中に九間幅の道路を造り…(中略)…工事を起せり。この時、恰(あたか)も、さきに、小田原に於て秀吉に降り、関東諸城攻撃の案内者を命せられたる北條氏勝、舘林に来りて降参を勧めしかば五月晦日、南條因幡守等、終に、これに従ひ、その城を明渡しぬ」
(渡辺世祐著『稿本石田三成』より一部抜粋)
三成の決定で道を造る工事をしたはずなのに。普通なら、法螺貝吹いて、ぶおおおおーと攻めるところなのだが。何の脈略もなく、北条氏勝の交渉へと話が切り替わっている。一体、この間にどのような事実があったのか。さすがに、「狐の仕業で三成やられました」とは書けなかったのか。
謎が残る、舘林城開城の裏側。
真相は、歴史の闇へと葬り去られてしまったのだろうか。
最後に。
実際に舘林城の鬼門にあたる場所には、尾曳稲荷神社がある。創建したのは、舘林城主の赤井照光。
それだけではない。
同じ館林市に「初引稲荷神社」と「夜明稲荷神社」も存在する。じつはこの神社の場所というのが、白狐が尾を曳いたスタート地点と終了のゴール地点。「尾曳稲荷神社」と同じく、こちらでも祀られているのである。
そういえば。
尾曳稲荷神社のホームページのご由緒には、このような記述が。
「別れに際し『築城完成の暁は長く城の守護神に使えよう。私は稲荷の神使 新左衛門である』と言い終わるや姿を没した」
(尾曳稲荷神社のホームページより一部抜粋)
「尾曳城」の場所を教えてくれた狐は、ただの白狐様ではない。
「新左衛門」という名前まであるお狐様なのだ。
こう考えると、石田三成の舘林城攻めの際に起きた不可思議な現象も、あながちウソではないかも。案外、狐の仕業だったりして。そんな可能性も否定できない。
ただ、1つ。確かなこと。
それは、石田三成が化かされたというコト。
相手は、狐か、人間か。
ひょっとしたら、そう、大した違いはないのかもしれない。
参考文献
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月
歴史道『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月