ようやくプロ野球が開幕しましたが、新型コロナウイルス感染拡大の防止策として「無観客開催」が続きました。従来は球場を盛り上げてきた「応援」が全くないという状況になり、選手たちの声や環境音が聞こえる中継も悪くはないものの、やはり応援がない寂しさは否めません。観客の入場が再開されつつある昨今ですが、おそらく応援が全面解禁になるのは当分先のことでしょう。
しかし、残念ながら応援団がいつも野球を盛り上げていたわけではなく、逆に選手や関係者たちに迷惑をかけて大騒動を引き起こしてきた負の歴史があるのもまた事実。最近の騒動に関しては賛否両論あると思うのであえて触れず、主に野球伝来から戦後初期に発生した信じられないような「ありえへん応援団の暴走エピソード」を紹介してみたいと思います。
お雇い外国人を負傷させて外交問題に!?
野球が日本に伝来したころは、まだ学生たちがヒマなときに遊ぶためのスポーツでした。しかし、そうは言ってもプレーヤーの学生と応援団の熱はすさまじいものがあり、やがて学校対抗戦のような形で各校がしのぎを削るようになりました。
明治23(1890)年の5月、当時高校野球界(現在の学制にあてはめると大学1、2年生に相当)で強豪として知られていた明治学院白金倶楽部と、旧制第一高校(現在の東京大学教養学部)野球部の対抗試合が開催されました。一高も弱くはなかったのですが、白金倶楽部は強豪だけあって終始試合を優勢に進めます。6回終了時点で6-0と大差がついており、一高サイドはいら立ちを隠せないようになります。
この一高という学校はいわゆる「スポ根」的な風土が根強く、こと勝負ごとについては「勝つか、死ぬか」のように情熱を燃やして戦いました。新渡戸稲造のいうところの「武士道精神」のようなものを連想するとわかりやすいでしょうか。そんな彼らにとって、一方的にボコボコ殴られる試合展開が気持ちのいいものであるはずがありません。
そして、ついに事件は発生します。当時一高のグラウンドには、生徒たちが「禁制」と呼んでいた低い生垣がありました。そこから明治学院でお雇い外国人として働いていた神学博士・インブリーがグラウンドに入ってきてしまったのです。インブリーにしてみれば、低い生垣だったので生徒たちを応援するためにひょいっと乗り越えたのでしょう。
これに一高側は「たとえ低いといえども、しっかり正門から入ってこないとは礼節を知らん!」と大激怒。一高の応援団はインブリーを囲み、彼を負傷させる事件を引き起こしました(加害方法は投石、殴打、凶器による切り付けなど諸説あり)。結局試合は中止となり、一高は「お雇い外国人を負傷させた」と世間の猛批判を浴びます。さらに当時は不平等条約の改正を目指して日本政府が「外国に認められる一流国家になる」ための取り組みをしていたため、一歩間違えれば外交問題に発展しかねない大騒動に発展します。
しかし、一高側が平身低頭して詫び、インブリーも「私も悪かった」と大人の対応で彼らを許したので、それ以上の騒ぎにはなりませんでした。この事件は、やがて「インブリー事件」と呼ばれるようになります。
その後、一高はこの事件を「屈辱だ」と感じ、猛練習に明け暮れて実力を強化。彼らの姿勢は後に「一高魂」と称され、明治期の学生野球界において無敵の存在に上りつめました。
早稲田と慶應の応援団は恐ろしい
強豪として君臨する一高を倒すべく、学生野球界で力をつけたのが早稲田と慶應義塾でした。彼らは学業重視の方針となり弱体化した一高を倒すと、頂点を目指してしのぎを削りました。そんな両校が対戦する「早慶戦」が明治36(1903)年に開幕すると、創部からまだ日の浅い早稲田が慶應相手に善戦したことで関係者も大いに盛り上がり、現在のように定期戦として開催されることになりました。
ところが、しだいに両校の応援団がヒートアップ。明治39(1906)年に応援団同士が一触即発の関係になると、両校の上層部が「これ以上早慶戦をやれば暴動になりかねん!」と早慶戦を中止させます。結局、両校の対戦が実現したのは実に19年後の大正14(1925)年。すでに両校とも学生野球界の顔といえる強豪に成長しており、早慶戦はまさに国民的スポーツイベントとなりました。
実力も伯仲、関係者も大盛り上がり、世間の注目も絶大。となれば、やはり事件も起こります。問題の試合は昭和8(1933)年に行われた東京六大学リーグの早慶戦第3戦。試合は9回表の時点で8-7で早稲田が1点リードという白熱した展開でしたが、慶應側はこれまで審判の不利な判定に泣かされており、球場には不穏な空気が流れていたといいます。
そんな折、9回表になって慶應の名選手・水原茂が三塁の守備につくと、彼のもとへ観客からヤジや怒号だけでなく食べかけのリンゴやナシまでが投げ込まれました。
観客のマナーが笑ってしまうくらい酷いですね……。
当然ながら水原は守備の邪魔なのでゴミを拾って片づけていると、やがて早大応援団から大きなリンゴの芯が投げつけられました。彼はそれを大した様子でもなく観客席に投げ返します。
9回表の早稲田は追加点を挙げることはできなかったものの、このまま1点を守り抜けば勝利という状況に。しかし、野球は9回裏からともいいます。結局、慶應が9回裏に2点タイムリーヒットでサヨナラ勝ちを収め、半ば八つ当たり気味に早大応援団は激高。「水原は故意にスタンドへとリンゴを投げ込んだ!謝れ!」と慶大応援団に詰め寄ります。
「イヤイヤ、故意にリンゴを投げ込んだのはおたくらでしょ」と言いたいところですが、一説には早大側から6000人という膨大な観客が抗議に参加したとあり、もはや乱闘も辞さない構えでした。加えてどさくさに紛れて慶大応援団の象徴である指揮棒が奪われたこともあり、慶大側もヒートアップ。最終的には近隣の警察官200人が仲裁に入り、なんとか流血事件は避けられました。
しかし、事件はまだ終わりません。両応援団はあくまで「非は相手にある」と強固に主張し、六大学リーグの理事会が仲裁に入らなければなりませんでした。最終的に「けんか両成敗」のような裁定が下り、先制攻撃に出た早大の野球部長が辞任を余儀なくされています。この事件は後に「リンゴ事件」と名付けられ、大学野球における負の歴史としてその名を残すことになりました。
なお、水原はリンゴ事件の責任を問われるかのように慶大野球部を去り、やがてプロ野球の世界でその才能を花開かせることになります。
「平和のシンボル」で発生した暴動
戦後になると、これまで野球界の主役であった学生野球に代わり、プロ野球の注目度がにわかに上昇しつつありました。敗戦のショックから立ち直りつつあった昭和24(1949)年、福岡市の舞鶴公園内に「平和台球場」が造られました。
球場名は地名からとられる例が一般的ですが、ここは福岡国体に合わせて建設される際、国体事務局長の岡部平太が「平和の台場にしたい」という願いをこめて名付けたものです。
そんな「平和のシンボル」は、昭和27(1952)年に誕生した西鉄ライオンズの本拠地として使用されました。しかしながら、平和を祈念して名付けられた球場において、なんとも皮肉な「平和台事件」が発生してしまったのはこの年のこと。
7月26日の毎日オリオンズ戦は、まだ梅雨が明けていなかったこともあり開始予定の15時から雨の勢いが弱まるまで試合開始を遅らせました。当時の平和台球場にはナイター設備がなく、あまり試合が押してしまうと夜になって試合が強制終了になる有様。すでに時間は16時55分に差し掛かっていましたが、当時の平均的な試合時間を考えればなんとか日没までに試合を終えることができるという判断になり、試合が始まりました。
ところが、そもそも試合開始が大幅に遅れるレベルの雨。試合は何度も中断をはさみ、4回裏の時点で西鉄が5点リードしているものの、野球は5回の表裏まで終了しないとノーゲームになってしまいます。そこで毎日は「雨も強いし、だらだらやっていればノーゲームに持ち込めるっしょ」と露骨な遅延行為に出ました。すでに5点差がついてしまっているので、もはや逆転するよりもノーゲームにするほうが一敗を免れられるという判断になったのです。
当然、勝ち試合を台無しにされかかった西鉄ファンは大激怒。5回の表になった時点で毎日側は「試合続行はもう無理でしょ」と審判団に告げ、協議の末にノーゲームという裁定が下りました。いよいよ怒りが頂点に達した西鉄ファンは、怒涛の勢いでグラウンドになだれこみました。審判団はもちろん毎日の選手たちもファンによる暴行をうけ、あまりの事態に一番怒りを覚えているはずの西鉄ナインが毎日をかばう有様。しかし暴徒化したファンの勢いは制御不能となり、西鉄の野口正明選手が流血する事態に発展しました。
結局、もはや関係者だけでは収拾がつかず、福岡県の機動隊や在日米軍までもが動員されてファンたちは球場から追い出されています。
それでも毎日の宿舎にまでファンたちはつめかけ、あわや2度目の大惨事も予見される事態になりました。その後は混乱が収まったものの、毎日の遅延を指揮した総監督の湯浅禎夫(ゆあさよしお)は辞任を余儀なくされました。
ファンは「応援」以上のことをしてはいけない
ここまで書いてきた「暴走応援団」のエピソードは、どれもかかわった人たちが「ファン失格」であると言わざるを得ません。確かに、選手たちとともに一喜一憂し、彼らを応援で盛り上げるのは悪いことではありません。選手たちもファンの存在があってプロとして生きられているのであり、ファンに優しいプロ野球関係者がほとんど。
しかし、そうはいっても私たちファンは「主役」ではなく「脇役」なのであり、野球関係者たちへの妨害があってはならないのです。昨今はSNSの発展によって選手たちとも距離が近くなった一方、試合で結果を出せなかった選手を誹謗中傷するような書き込みも見られます。
実際、仲間内での雑談くらいで「あの選手のプレーはイマイチだったね」という程度ならまだ理解もできます。しかし、選手たちが見ているSNSに「怪我してしまえ」「引退しろ」と書き込むのは、もはや人間としての良識を疑わざるを得ません。
ファンと選手の距離が近い時代だからこそ、「ファンや応援団のあり方」をいま一度見直す必要はあるでしょう。