平安時代末期に勃発した大戦である源平の争い。そこではかの源頼朝・義経兄弟をはじめ、多くの武士たちが火花を散らし、新たな時代のために戦い抜きました。が、歴史の本筋とは少し離れたところで、とんでもない怪物が大暴れしていたことをご存知でしょうか。今回は、「平安時代のモビルスーツ」こと、源為朝の活躍を紹介します。
2m越えの大巨漢!追放先の九州でも大暴れ!
源為朝は、源氏の武将・源為義の息子として生まれました。兄は「平治の乱」で平清盛と争った源義朝であり、頼朝・義経兄弟にとっては叔父にあたる人物です。義朝と違って母は遊女であり、いわゆる庶子という立場でした。しかし、剛力無双の弓の達人として知られ、戦う相手を大いに震え上がらせました。
為朝を語る上でまず注目しなければならないのは、その魁偉な容貌でしょう。記録によれば、為朝の身長は何と7尺(約2m7cm)。当時の成人男性の平均身長は150cm台ですから、まさに「大男」としか言いようがありません。現在でも、2m前後の日本人アスリートは珍しくないものの、一般的には非常に高い身長です。
また、為朝の左腕は右腕より4寸(12cm)長かったとされています。左腕は弓を持つ腕なので、弓をより前の方で構えられる=弦をより強く後ろに引けるということで、彼の弓の威力にも影響していたのかもしれません。ただ、腕の長さについては「長年弓を引き続けたことによる後天的なもの」「配流の前に切られた腕の腱(後述)が治った結果」とする説もありますので、正確なところは不明です。
為朝は子どものころから大変な乱暴者で、13歳の時には父・為義に勘当されてしまいました。ところが、それで大人しくなるはずもなく、追放先の九州では「鎮西惣追捕使」「鎮西八郎」と勝手に名乗って大暴れ。ついには、ほんの3年ほどで九州の豪族たちを従え、九州をほぼ制圧してしまったのです。
しかし、こんなことを朝廷が許しておくはずもありません。何度も出頭命令を出されておきながら従わなかった結果、ついに父・為義が官位を剥奪されてしまいました。これには為朝もまずいと思ったのか、28騎の武者を率いて京に帰還。(よりによって)あの「保元の乱」に参戦することになります。
弓は1矢で2人を倒す威力。意外と筋を通す面も?
当時の京は、治天の君(最高権力者)の座を巡って崇徳上皇と後白河天皇が争っており、一触即発の状態にありました。その勢力争いに巻き込まれた結果、源氏も真っ二つに分かれてしまいます。為朝と父・為義は上皇方、兄・義朝は天皇方につきました。そしてついに「保元の乱」が勃発したわけですが、ここでも為朝は化け物ぶりを遺憾なく発揮したのです。
まず、為朝が使っていた弓は「五人張」、つまり5人がかりでないと張れないくらいの剛弓だったと言われます。
そんな剛弓ですから、矢も鏃(やじり)が7寸5分(22cm)という特注品。その威力は鎧を貫通するほどで、敵将を貫いた矢が後ろの敵の鎧に突き刺さったといいます。まるでライフル弾のような威力であり、かつ狙いも正確無比。兄・義朝に脅しで矢を放った際は、兜の星(鋲)のみを正確に削り取ったほどです。
また、単なる肉体派ではなく、意外と理屈を通す人物ではあった様子。義朝から「兄に弓を引くとは何事か」と言われた際には、「そういう兄上こそ、父上に弓を引くのはどうなのだ」と反論し、義朝は言い返せなかったといいます。自分のせいで父親がクビになったのを聞いて京都に戻った話もそうですが、武士としての最低限の自覚はあったのかもしれません。
しかし、為朝が提案した夜討(夜襲)作戦は採用されず、逆に天皇方から夜討を受け、上皇方は敗戦。逃げ延びた為朝も捕らえられ、二度と弓を引けないようにと腕の腱を切られ、伊豆大島へ流刑にされてしまったのです。普通に考えれば、為朝の活躍もここまででしょう。ところが、誰が予想したでしょうか。ここからさらに一波乱あるとは……。
配流先でもあっさり復活。数々の伝説が生まれる!
腕の腱を切られて島流しにされた為朝ですが、怪我が治って復活。傷が癒えた為朝は、島の代官の娘婿となって暴れ回り、年貢も納めなくなってしまいました。そして、10年以上にわたって伊豆諸島を支配したと伝わります。勝手に年貢を納めた代官の指を切り落としたという逸話も……。
しかし嘉応2年(1170年)、ついに為朝を討つべく朝廷の軍勢が押し寄せます。最期を悟った為朝は、9歳の息子を殺害した上で自ら腹を切りました。一説によれば、これが日本初の切腹だといいます。享年32歳、当時としてもまだ若い最期でした。
……が、あの為朝が何もせずにやられるわけもなく。息子を殺害したあと、押し寄せる船に向けて矢を放ったところ、300人乗りの船がたちまち沈んでしまったといいます。これは流石に誇張表現だと考えられていますが、為朝の弓の威力を考えると、数人乗りの小舟に穴を開けて次々に沈めることは十分可能でしょう。追討軍も為朝の弓の威力に恐れをなし、自害したあともなかなか上陸しようとしなかったとか……。
そんな為朝ですから、死後も数々の伝説が生まれました。有名なのが「実は生きており、琉球(沖縄)に渡って初代琉球王になった」というものです。これは「源義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになった」という伝説に近いものがあります。もちろんあくまでも伝説に過ぎませんが、「あいつならそれくらいやっているのでは?」と多くの人に思われていたのでしょう。
大河ドラマで「モビルスーツ」扱い、新型コロナでも注目
最後に、為朝に関わる近年の情報を紹介しましょう。2012年の大河ドラマ「平清盛」には、当然ながら為朝も登場しました。それはいいのですが、何と公式サイトの人物紹介で「平安時代のモビルスーツ」と書かれたのです。さらに、現場では「ガンダム」と呼ばれていたことが明かされています。
NHKでもこの扱いという辺り、いかに為朝がとんでもない人物なのかがおわかりいただけるでしょう。実際、存命中の為朝も、敵軍からすればガンダムに違いなかったのですから。もっとも、ゲーム「戦国BASARA」シリーズの本多忠勝(こちらもロボット扱い)の影響ではないかという説もありますが……。
ちなみに為朝は、最近大流行している新型コロナウイルスとも縁があります。かつて世の中で疱瘡(天然痘)が流行った際、「為朝公が疫病神を退散させてくれる」として、為朝の名前を書いた札を門などに貼る風習が一部地域で生まれました。そのため、この度のコロナウイルスの流行においても、為朝の力にすがろうという動きが見られるのです。
実際、為朝を祀った三浦半島の疱瘡神社では、参拝者が増えたという報道があります。また、築地の波除神社でも、鎧姿の為朝を描いた神符がよく売れているのです。意外な形で注目されるようになった為朝。今後はメディアに取り上げられる機会も増えるかもしれません。
為朝の活躍ぶりを今後も語り継いでいこう!
為朝は、まさに「モビルスーツ」「ガンダム」といって差し支えのない武将です。もし為朝が後白河天皇方についており、処罰されずに「平治の乱」に参戦していたら? あるいは、伊豆で大人しくしていて平家打倒のために兵を挙げていたら? その後の歴史に大きな影響を与えていた可能性は高いでしょう。歴史の本筋と関わりが薄いためか、教科書で名前を見かける機会も少ない為朝ですが、これほどの豪傑がいたことはぜひ語り継いでいきたいものです。
アイキャッチ画像:『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』Colbase(https://colbase.nich.go.jp/)より