今も昔も、叶わない恋は切ないもの。1,300年前の奈良時代にも、胸を掻きむしるような片思いをしていた一人の女性がいました。笠郎女(かさのいらつめ)。万葉集でもっとも情熱的で、迫力のある恋の歌を詠んでいる天才歌人です。万葉集に収められた笠郎女の29首の歌はすべて、彼女が一途に思い続けた大伴家持に宛てたものです。
「会いに来てくれないあなたが恋しくて、日に日に痩せてきました」
「あなたが好きすぎて、苦しくて千回も死んでしまう」
応えてくれない相手に対して、ほとばしる思いを和歌にしたため送り続けた笠郎女。現代ならストーカーと呼ばれてしまいそうなところですが、三十一文字に思いの丈を詰め込み恋しい人に振り向いてもらおうと苦心した結果、笠郎女の歌は万葉集随一の迫力と、見事な比喩表現で千年後まで語り継がれることになりました。歌を手掛かりに、笠郎女の恋の行方を見ていきましょう。
恋のはじまり~あなたを好きになってしまいました
笠郎女がいつ、どんな家に生まれたか、確かな情報は何も残っていません。「笠郎女」という名前さえも「笠家の女性」という一般名詞で、本名ではないのです。
一方、笠郎女が愛した大伴家持は、名門の家に生まれた貴公子。万葉集の編纂者として後世にその名を知られています。笠郎女と出会った頃の家持は、おそらく15歳前後。当時の家持はモテモテで、大勢の女性たちからラブレターを受け取っていました。
家持より少し年上だった笠郎女も、貴公子の魅力に夢中になって歌を贈ります。
託馬野(つくまの)に生ふる紫草衣に染め いまだ着ずして色に出でにけり
託馬野に生えている紫草からとった染料で着物を染めました。その衣をまだ着ていないのに、紫色が人に見られてしまったのです。
一見、紫色の着物を題材にした美しい歌のようですが、この歌には裏の意味があります。紫色は、高貴な色。名門である大伴氏を連想させます。「着物を着る」というのは、異性と一夜を過ごすことのたとえ。つまり笠郎女は「まだ、あなた様と一夜を過ごしていないのに、私の恋心が人に知られてしまったわ!どうしましょう!」と遠回しに愛の告白をしているということになります。女性から男性に贈る恋文としては、なかなか大胆です。表と裏、それぞれ別の意味を見事に織り込んだ、笠郎女の文才を感じる歌です。
さて、笠郎女の告白の結果はどうなったでしょうか。
奥山の岩本菅(すげ)を根深めて 結びし心忘れかねつも
山奥の岩の下に生えている菅の根は、地面の奥深くまで伸びています。その根のように深く思って約束したあなたの心が、忘れられないのです。
「結びし心」とあるように、どうやら笠郎女は大好きな大伴家持と結ばれたようです。ほっとひと安心、と言いたいところですが、この歌からは、ちょっと不穏な空気も感じられます。昨日も、今日も、毎日会える相手に対して、わざわざ「忘れられないのです」とは言いません。確かに結ばれたけれど、本当にあなたは私のことが好きなのですか?と不安になる女心が垣間見えます。多忙な家持は、なかなか笠郎女の家を訪れてくれないのかもしれません。
これってストーカー? でも、止められない!
ここからいよいよ、笠郎女の本領発揮です。万葉集巻四には次の歌から24首連続で、笠郎女が家持に贈った歌が掲載されています。日本を代表する歌集に、1人の女性歌人の歌がこれだけ続けて並べられるというのは異例のことです。雑誌で言えば、センター12ページぶち抜き特集くらいのインパクトがあります。
編集者の家持が、何を思ってそのような構成にしたのかは後からお話するとして、まずは情熱がほとばしる笠郎女の歌を見てみましょう。
我が形見見つつ偲はせ あらたまの年の緒長く我も思はむ
私の形見の品を見ながら、私を思ってください。長い長い年月、私もずっとあなたを思っています。
「形見」というと、現在では亡くなった方の遺品をイメージしますが、ここでは「誰かを思うよりどころになる品物」というほどの意味です。当時、愛し合う男女は、愛情のしるしとして衣服を交換して身に着けることがありました。ここで言う「形見」も、着物のことかもしれません。心が通う相手であれば「仲が良くていいですね」ということになるのですが、どうもこの歌からは、それだけではない切実さが感じられます。
笠郎女が家持と恋人になって間もない頃の歌と考えられますが、相手が自分のことを大好きで、頻繁に会ってくれるのなら、「私のことを思い出してね」「私もずっとずっとあなたが好きだから」と念を押して、形見の品物まで送る必要はないわけです。「これを見て、私を思い出して訪ねてきて」という切ない願いが込められているのかもしれません。この時点で既に、笠郎女と家持の相手を想う深度には、温度差が生じてしまっているように感じられます。
家持の立場になってみると「付き合ってはみたけれど、仕事も忙しいし、ほかに恋人もたくさんいるしなあ。あの人、歌はめちゃくちゃ上手いけど、正直ちょっと重いんだよな。わ、着物が送られてきちゃったよ。どうしよう……」という心境だったかもしれません。
君に恋ひいたもすべ無み 奈良山の小松が下に立ち嘆くかも
あなたが恋しくて切なくていてもたってもいられず、奈良山に来てしまいました。松の下に立ってため息をついています。
形見の品を送っても、愛する家持は訪ねてきてはくれませんでした。こんなに近くに住んでいるのに、どうして会えないのか。苦しくてやりきれず、笠郎女は家を飛び出しました。少しでも家持の近くに行きたいと思いつめて、いつの間にか、家持が住む屋敷の裏手にある奈良山まで来ていました。もしかすると、丘の上の高台からじっと家持の屋敷を見下ろしていたかもしれません。「ストーカー」という言葉が脳裏をよぎります。家持を恋い慕う笠郎女の気持ちは、会えない日が続くほどエスカレートしていきます。
恋しすぎて千回死んでしまう!暴走する片思い
八百日(やほか)行く浜の沙(まなご)も我が恋にあに勝らじか 沖つ島守
歩いていくと八百日もかかる長い砂浜の細かい砂粒の数でさえ、私の想いの丈、あの人を想う気持ちより多いということは決してないわ。ねえ、沖の島守さん。
通り抜けるのに八百日もかかる砂浜とは、一体どれだけの長さがあるのでしょうか。ましてその浜にある砂粒の数とは、考えるだけで気が遠くなりそうです。草も生えない砂漠のような、荒涼とした風景が目に浮かびます。実際にそのような場所があるわけではなく、ままならない恋に苦しむ笠郎女の、心の中にある景色なのかもしれません。
ここに至って、笠郎女が呼びかけているのはもはや家持ですらなく、沖の島守という遠い第三者です。島守に家持の姿を重ねていた可能性もありますが、いずれにしても、家持の心は、笠郎女の切ない声が届かないほど遠い場所にあります。笠郎女を苦しめていたのは、会えない恋人というよりも、自身の激しすぎる情熱であったかもしれません。
同時に、笠郎女には自身の感情をイメージ化する豊かな想像力があり、それを三十一文字で表現する詩才がありました。歌があったからこそ、彼女は自身の心をつなぎ止めることができたのではないでしょうか。
恋にもそ人は死にする 水無瀬川下ゆ我痩す 月に日に異に
人間は、恋によって死んでしまうこともあるのです。地中を流れる水無瀬川の、表には見えない流れのように、私は人知れず痩せ細っていきます。月を重ね、日を重ねるごとに。
この歌で笠郎女は「あなたが恋しくて苦しくて痩せ細って、このままでは私は死んでしまいますよ」と家持を半ば脅しています。死んでしまうというほど切実な心情に追い込まれていながら、「恋にもそ人は死にする」と衝撃的な言葉を歌の冒頭に置いてインパクトを演出したり、さりげなく水無瀬川の比喩を使ったりと、読み手を唸らせる作品を生み出してしまうところが、笠郎女の天才たる由縁です。
LINEもメールもない時代、会えない家持に想いを伝える方法は、たった三十一文字の和歌しかありません。持てる才能のすべてを注ぎ込んで、家持の気持ちを自分のほうへ振り向けようとした結果、笠郎女の歌はひとつひとつが迫力と輝きを増していきます。
思ひにし死にするものにあらませば 千度ぞ我は死に反(かへ)らまし
もしも恋する思いのために死ぬことがあるとしたら、私はあなたを想うがゆえに、千回も繰り返し死ぬことでしょう。
「恋しくて死にそうです」という言葉も家持に届かなかったために、笠郎女の想いはとうとう「千回繰り返して死ぬほど辛い」というところまで来てしまいました。この頃になると、彼女自身も、自分の想いが家持に届かないことは、うすうす気づいているのではないでしょうか。笠郎女の歌は、さらに内省的になっていきます。
あなたを想うのは、餓鬼のお尻を拝むようなもの~決別宣言
どんなに想っても振り向いてくれる気配のない家持に対し、ついに笠郎女が愛想をつかす時がやってきました。
相思はぬ人を思ふは 大寺の餓鬼の後(しりへ)に額付(ぬかつ)くごとし
思ってもくれない人を一方的に恋い慕うのは、格式が高いお寺に置かれている餓鬼像のお尻に向かって、額を床につけ礼を尽くして拝むようなバカバカしいことだったわ。
笠郎女の作品の中で、もっとも有名な歌です。可愛さ余って憎さ百倍、これまでの愛の言葉が激しかっただけに、別れの言葉にも、最後に何とかして家持の感情を揺さぶってやりたいという情念が感じられます。
「大寺」とは、当時平城京の中にあった大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の4つの格式高いお寺のいずれかを指しています。「餓鬼」とは、地獄に落ちて痩せこけた亡者の像のこと。格式高いお寺で、地獄の餓鬼のお尻に向かって礼を尽くして拝む。想像するだけでバカバカしく、脱力して笑いがこみ上げてくるようです。
「ああ、くだらない!恋をしていたのは私だけで、全部無駄だったということね。バカバカしいったらありゃしない」とふと冷静になり、虚無感におそわれる笠郎女の姿が目に浮かぶようです。
「大寺の餓鬼」と痛烈な皮肉を浴びせられた家持が、笠郎女を愛する気持ちを取り戻すことは、万に一つもないでしょう。どぎつい表現できっぱりと決別宣言をして、自分の気持ちに区切りをつけようとする一方で、死ぬほど愛した人を簡単には忘れることができない複雑な想いも、笠郎女の中にはあったのではないでしょうか。
どうして付き合っちゃったのかな……大伴家持の本心
ここまで、笠郎女の歌を続けて見てきましたが、ラブレターを受け取った家持はどんな返事をしているのでしょうか。笠郎女の29首に比べると圧倒的に少ないですが、家持が笠郎女に贈った2首の歌が万葉集に掲載されています。
なかなかに黙(もだ)もあらましを 何すとか相見初めけむ 遂げざらまくに(大伴家持)
いっそのこと、黙っていればよかった。どうしてあなたと逢い始めてしまったのだろう、最後まで添い遂げることはないだろうに。
家持が笠郎女と別離した後の歌ですが、一度は契った女性に対し、「付き合おうなんて言わなければよかった」とはあんまりな言い草です。その上、本心を包み隠さず歌にして相手の女性に送ってしまうとは、少々デリカシーがないと言わざるを得ません。家持の名誉のために補足しておくと、この歌には「私が言い出さなければ、こんな形であなたを悲しませることはなかったのに」という意味が含まれているとも考えられます。
それにしても、万葉集に四百首以上の歌が収められた当代随一の歌人としては、どこかうわの空で、明らかに気持ちがこもっていない歌いぶりです。家持が同時期に歌を贈り合っていた10歳以上年上の女性、紀郎女との贈答歌と詠み比べてみましょう。
神さぶといなぶにはあらずはたやはた かくして後にさぶしけるかも(紀郎女)
私が年をとって、恋なんて考えられないという理由で、若いあなたの訪れを拒んでいるわけではないのです。こうしてそのままお別れしてしまったら、もしかして後から寂しくなるかもしれないけれど。
百歳(ももとせ)に老い舌出でてよよむとも 我はいとはじ恋は益すとも(大伴家持)
あなたが百歳になって、口元がゆるみ舌が出て、腰が曲がりよろよろと歩く老婆になっても、私は少しも嫌だなんて思いません。それどころか、ますます恋しく愛しく思いますよ。
大伴家持と紀郎女は、母子ほど年が離れていたとも言われており、戯れの恋の歌を贈り合っていたという説もあります。それにしても、家持は本気を出せば、こんなに情熱的で洒落の効いた歌を詠むことができる人なのです。笠郎女に贈った歌と比べると、その差は歴然。残念ながら、やはり家持が笠郎女を女性として愛した時間は短かったと考えるのが自然なようです。
自分宛ての赤裸々なラブレターを29首も載せた理由
「大寺の餓鬼」とまで捨て台詞を吐かれて笠郎女と別離した大伴家持が、別れた女性から贈られたラブレターを手元に残し、自ら編纂する万葉集に収めようと考えたのは、なぜだったのでしょうか。そのヒントも、やはり万葉集の歌の中に見つけることができます。
水鳥の鴨の羽色の春山の おほつかなくも思ほゆるかも(笠郎女)
水鳥である鴨の羽根の色と同じように緑がかってかすむ春山。その山のように、あなたのお気持ちがぼんやりとはっきりせず、不安に思われます。
笠郎女が大伴家持に贈った春の歌です。水彩画を思わせる美しい比喩表現が使われています。この歌を贈られてから20年以上が経って、お正月の宮廷行事のお祝いに、大伴家持はこんな歌を詠んでいます。
水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ(大伴家持)
水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は、寿命に限りがないという。
一目見て分かる通り、最初の2句がまったく同じです。笠郎女と別れた後も、家持の心の中に、笠郎女の歌の言葉が生き続けていたことがわかります。家持と笠郎女が男女として愛し合った時間は短かったかもしれませんが、ひとりの歌人として、審美眼を持つ優れた編集者として、家持は笠郎女の歌が持つ魅力を十分に理解し、彼女の才能に敬意を払っていました。だからこそ、後世に読み継がれるべき作品として、笠郎女の29首を万葉集に収めたのでしょう。
一途に大伴家持だけを愛し続けた笠郎女の恋は、一方通行のまま終わってしまいました。けれど、片思いだったからこそ歌人としての笠郎女の才能は研ぎ澄まされ、その作品は消えることなく千年の時を超えて、多くの人の心を動かし続けることになったのです。
アイキャッチは喜多川歌麿『歌撰恋之部』より、夜毎に逢ふ恋、あらはるる恋。