英訳版がアメリカで大ヒットした小池一夫原作・小島剛夕作画の漫画「首斬り朝」。その他にも「暴れん坊将軍」「必殺仕事人」といった作品にも登場する、江戸時代の死刑執行人をご存知でしょうか?
江戸時代の死刑は現在と異なり、斬首刑も行われていました。そして、死刑執行人を務めていたのが「山田浅右衛門(やまだあさえもん)」です。9代にわたって続いた山田家は、どのような一族だったのでしょうか。今回は、江戸の死刑執行人・山田浅右衛門の仕事や生活について解説します。
山田浅右衛門の本来の仕事は、刀の試し切り
山田浅右衛門(6代吉昌からは朝右衛門)は、江戸幕府の御様御用(おためしごよう)を務めていた山田家の当主が、代々襲名していた名前です。御様御用は腰物奉行(こしものぶぎょう)の配下で、将軍の佩刀や諸侯に下賜する刀などの「試し斬り」を担当していました。つまり、偉い人が使う刀の切れ味を確認する仕事だったわけです。
「あれ、死刑執行人の話はどこに行ったの?」と思われた方、よく考えてみてください。刀は本来、人を斬るための道具です。その切れ味を確認するためには、何を試しに斬ってみるべきでしょうか? そう、もちろん人間です。御様御用を務める人は、処刑された罪人の死体を引き取り、それを斬ることで刀の切れ味を確認していたのです。
それがやがて、「もうあいつらに死刑執行もやらせればいいのでは?」という話になっていきます。斬首刑は主に町奉行所の同心の仕事でしたが、そう簡単にできるものではなく、高い技術を必要としました。そのため、死体を斬り慣れている御様御用に代行を依頼することが増え、次第に御様御用は死刑執行人を兼ねるようになったのです。
そして、初代山田浅右衛門・貞武が2代吉時に御様御用の役目を譲った結果、御様御用は山田家が独占・世襲することになります。こうして、「江戸の死刑執行人・山田浅右衛門」が誕生しました。時代としては、ちょうど徳川吉宗が将軍だった頃です。すでに関ヶ原の戦もはるか昔、人を斬る機会などほとんどなくなった武士にとって、試し斬りも斬首刑もプロを頼るほかなかったのかもしれません。
なお、世襲とはいうものの、浅右衛門が実子に跡を継がせた例は2回しかありません。多くの場合、弟子の中から最も優秀な者を跡継ぎに選んでいたのです。もしかすると、つらい仕事を実の子に継がせたくなかったのかもしれません。
山田浅右衛門はとても裕福。その収入源は……
次は、山田浅右衛門の生活について見ていきましょう。実は、浅右衛門は徳川将軍の家臣ではなく、主君のいない浪人という立場でした。当然、江戸幕府からの俸禄(給料)や知行(領地)はもらえません。それならさぞかし生活も苦しかったはず……と思いきや、実態はまったくの逆。山田家はとても裕福で、小規模な大名に匹敵するほどだったのです。一体どうやって収入を得ていたのでしょうか。
メインの収入源は、言うまでもなく本業である試し斬りです。当時、刀の切れ味(≒価値)を正確に確認するためには、浅右衛門に試し斬りを依頼して「折紙(証明書)」を出してもらうのが最も確実でした。そのため、腰物奉行だけでなく大名などからも多くの依頼が舞い込み、大きな報酬を得ていたのです。
また、試し斬りで培った知識を活かし、刀剣の鑑定も行なっており、その礼金もかなりのものでした。さらに驚くべきは、罪人の死体の肝臓・胆嚢・脳などを原料にした薬を作り、「山田丸」「人胆丸」などと称して販売していたことです。当時は労咳(結核)に人肉が効くとされており、多くの人がこの薬を買い求め、浅右衛門に莫大な収入をもたらしていました。
もちろん、儲かっているからといって遊びほうけていたわけではありません。浅右衛門は、処刑した罪人の供養や貧民救済も行っており、6代吉昌が建てた刑死者の供養塔が、池袋の祥雲寺に現存しています。さらに、当時は辞世(最期の言葉)として短歌や発句(俳句)を残す人が多かったため、その意味を理解するべく自分も俳諧を学んだのです。罪人の死や自らの仕事に、真剣に向き合っていた証といえるでしょう。
明治に入ると役割を終え、変わってしまった死刑の方法
御様御用として大いに活躍した山田浅右衛門でしたが、江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、その歴史もついに終わりを迎えます。最初は「東京府囚獄掛斬役」という役職名で、引き続き死刑執行人を務めることになったのですが、罪人の死体の試し斬りや人肉を使った薬の販売が禁止されてしまったのです。これにより、浅右衛門の収入は激減しました。
そして明治15年(1882年)、ついに斬首刑が廃止され、浅右衛門は存在意義を失います。9代吉亮は同年に退職し、ここに「首切り浅右衛門」は消滅しました。これも時代の変化ということでしょう。以後、日本の死刑の方法は絞首刑に限定されており、現在まで変わっていません。
山田浅右衛門を知れば、江戸時代への理解がより深まる
9代にわたる山田浅右衛門は、死刑執行人以外にもさまざまな一面を持った人たちです。その立場上、当時は恐れられ忌み嫌われることもありましたが、江戸という時代を語る上で重要な人物なのは間違いありません。
ですが、誰かがやらねばならない死刑執行人をやり遂げた彼の業績には、何か感じ入るところもあるのではないでしょうか。罪人とはいえ、人を殺めることに些かの抵抗もない人間はいないと思います。
先に紹介した祥雲寺には、歴代浅右衛門の辞世などを記した「浅右衛門之碑」や7代・8代の墓があるので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。
アイキャッチ出典:国立国会図書館デジタルコレクション
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